HAKATA PARIS NEWYORK

いまのファッションを斬りまくる辛口コラム

環境が味覚を磨く。

2017-04-19 07:05:51 | Weblog
 今回は業界ネタではない。ある経営者の訃報と在りし日を偲ぶ話だ。経営者とは、イタリアンレストラン「ピエトロ」の創業者、村田邦彦社長である。村田社長は4月9日、肺がんで亡くなった。75歳だった。(http://cowtv2.jp/c3/pietrotv/?id=23)



 ピエトロについては正直、全国ブランドになるまでほとんど知らなかった。創業は1980年、場所は福岡の天神3丁目ということだが、筆者がこの年の夏休みにこの界隈をうろちょろしていた時は、まだオープンしていなかった。

 創業翌年の1981年には、同社を一躍有名にするドレッシングの生産を始め、85年に(株)ピエトロを設立。89年、福岡市の湾岸エリアで開催された「アジア太平洋博覧会」を契機に、ピエトロは拡大路線を歩んでいった。それは1970年の大阪万博で、マクドナルドやロイヤルが成長軌道に乗ったのと同じ流れだ。

 レストランは80年代の後半からFCで多店舗化され、1993年には東京の渋谷にもオープンした。ただ、殺到するFCオーナー希望者に対し、村田社長は簡単に加盟させることはなかった。2店舗を経営していたオーナーが急死した時には、「あとを引き継ぐ方に加盟金を返すから、1店で頑張りなさい」と忠告するほど慎重だった。

 ドレッシングについては、価格勝負の量販品にするつもりはなく、まずはブランド力をつけるために百貨店を主な販路にした。今は九州産の玉葱や醤油を使った高級ドレッシングが北野エースや成城石井でも買えるようになった。しかし、当時は伊勢丹や高島屋に並ぶこと自体が異例だっただろうし、わざわざデパ地下まで行かないと、目にすることもなかったわけである。

 そんな話が経済紙誌を少しずつ賑わせても、筆者はドレッシングを使うことも、店舗に行くこともなかった。仕事の打ち合わせを兼ねてたまに利用したのは、ロイヤルが別会社で運営する「ランチャン青山」だった。渋谷の国連大学ビル横の路地を入ったアライブ美竹の1階にあり、店構えはそれほど派手ではなく、価格もリーズナブルだった。

 ロイヤルは福岡が発祥で、子供の頃から味に親しんでいたので、同じお金を出すなら知った店の方が安心感があった。またランチャン青山はキャンペーンの度に内容告知や優待チケットをファックスで送ってくれるなど、顧客管理も徹底していた。青学の大学院に通っていた友人や学生にご馳走したこともあった。東京に進出して数年目のピエトロは、まだまだそこまでレベルには達していなかったと思う。



 ところが、実際にピエトロの仕事をすると、村田社長の人となり、あるいは企業としての考え方に触れることができ、実に感心した。気づかされたのはスカイラークやデニーズのように、そこそこの味を低価格で売るモデルをパッケージ化し、店舗を増やしてくのとは、対極にある発想だ。料理という創造力が不可欠な商材において、独自のノウハウを徹底して突き詰めながら、統一的なブランド戦略を行使していたこと。だから、FC展開に乗り出しても、決して数は追わなかったのである。

 主導していたのは村田社長であり、村田社長でないとできなかったと思う。昨今、外食産業を取り巻く環境はますます厳しさを増しており、企業の多くが業績低迷に悩んでいる。現状の閉塞感を打開するといっても、国内市場は飽和状態で目新しい新業態を海外から持って来るくらいしかない。抜本的な攻め手を欠いているのだ。

 人手不足で企業側の採用意欲は旺盛だが、人材が確保できなければ出店戦略にも狂いが生じる。外国人労働者で簡単に穴埋めするというわけにもいかない。肝心な経営陣は外部から招聘されるケースも多く、ローソン会長を退いた玉塚元一氏のように一時の再生やテコ入れで終わるのがほとんどだ。経済紙誌はそのことだけ評価し、株価回復に注目するが、そこには先行きの展望など無いに等しい。

 でも、村田社長は違った。創業者であり、オーナーシェフである。料理人のクリエイティビティに加え、時代や社会に対する先見性、アーティスティックな感性まで持ち合わせながら、地道な経営努力も重ねていた。

 それを確信したのは2002年頃、ピエトロで雑誌タイアップの企画を手掛けた時だ。わざわざ東京から某出版社の編集長が来福し、村田社長と対面した。筆者も随行し、二人の対談を通じて誌面構成から原稿作成までを任せてもらった。そのとき、村田社長が語った話の一つ一つが筆者には点頭されることばかりだった。

(筆者が作成した記事より)

 「サラリーマン時代、先輩が原宿のパスタレストラン『壁の穴』に連れて行ってくれました。ここのスパゲティのおいしさたるや。高校時代に親父に連れて行かれた博多中洲のカレー屋『湖月』以来のカルチャーショックでしたよ」

 村田社長は創業に際し、壁の穴の成松孝安社長から「うちのFCをやれ」と言われたが、断っている。FCで店舗が繁盛しても、他に同じ店があれば何にもならないからだ。自分でメニューを開発して看板商品にするべく、食材から調理、味、盛り付け、見せ方まで徹底してこだわった。もちろん、店づくりの内外装、ロゴマーク、キャラクター、ドレッシングのパッケージなど、ピエトロのブランド構築におけるすべてにである。

 こうした背景には村田社長が育った環境が影響している。実家は食堂で子供の頃から職人的な味づくりを経験し、大学を卒業後にサラリーマンとしてビジネスの戦略立てもやっていた。カレー屋の「湖月」は筆者も子供の頃に食べたことがあるので、良く知っている。味はまさに絶品で、これを超えるほどのカレーには東京でも出会うことはなかった。そうした体験は味の探求においても、なおさら生きたはずである。

 また食堂が忙しいからと言って、村田社長の母親はわが子に買い食いをさせることを嫌い、カルメ焼きなどのおやつを必ず作ってくれていたそうだ。父親が厨房で料理づくりに腕を振り、母親はお菓子作りにも手を抜かない。両親が作ったおいしい料理で味覚を磨き、料理人としての感性を研ぎ澄ませた。食育とは身を置く環境で、食に対する能力が養われるということ。これを服育に置き換えると、アパレル業界にも言えるのではないか。

 「元来、福岡はうどんをはじめとして麺は柔らか目が好まれます。最初の頃に出していた麺はお客さんから『煮えていない』とずいぶん言われてました。お金を払うのはお客さんだから、『本格的なスパゲティは麺は硬めです』とも言えません」

 ピエトロもご多分に漏れず、順風満帆だったわけではない。タモリも何度か語っているが、「食べていて麺がぷちぷち切れるのが博多うどん」だ。最初の3年間はお客さんがおいしいと言われるままの硬さに合わせ、あえてオーバーめにボイルしていた。それでも満足していたわけではないので、セットメニューなどでアルデンテを提案している。

 「オープン当初からドレッシングにも人気があって、近所の奥さんたちが『これなら主人や子どもが野菜を食べるので、分けてほしい』と言ってきたんです。挙げ句には食料品店の方が卸してくれとやってきたり、日曜日のたびに買いに来る人が増えてきて…」

 ピエトロを全国ブランドに押し上げたドレッシングは、まさに村田社長の料理人としての技と味覚が凝縮された結晶と言える。夜の11時に店を閉め、それから作るので明け方の4時くらいまでかかっていた。とにかく作るのがたいへんだったようだが、この時にじっくり製造ノウハウを積んだことがブランドのベースになったのは言うまでもない。

 「85年に出店したFC店は、雰囲気が全く違っており、これではダメだと思いました。それでFCはピエトロの魂がわかってもらえる個人オーナーにやってもらうことに。展開としては福岡市内は自分が行い、市外と他県は他の人に任せることにしました」

 味や店づくり、看板がみなピエトロであっても、どこかが違う。だから、自分の感覚を大事にし、それに気づかない人には任せない。それも経営手法である。ピエトロは2001年にダイエーとの取引で公正取引委員会の排除勧告を受け入れた。しかし、それは株式の上場を控えていたため、無意味な争いを避けるためだ。



 むしろ、村田社長は商品と価格に対する見解の相違について、徹底して議論していいというスタンスだった。一度でも安売りがまかり通れば、ブランド価値は一気に落ちていく。ダイエーはドレッシングの安売りで稼ぐつもりだったのだろうが、自身はイオンに買収され既にない。創業者として、企業のDNAを守るのはこういうことかもしれない。

 他にもいろんな話を聞いた。ちょうど2002年頃、俳優の小林薫を起用したドレッシングの全国CMがオンエアされた。「おいしいサラダを食べていますか」というキャンペーンの一環で、独身役の小林薫が転勤先の福岡でピエトロのドレッシングに親しむ設定だ。

 屋台編では、 離婚した友人役の岩松了が「お前、ずっと独りだろ。食事とかどうしているのか」と聞き、小林が「ピエトロって知っているか。これでサラダを食べると美味いんだ」と語るシーンがあった。このシーンで屋台の大将役を村田社長自身が演じていたのだ。このCMは数々のヒット作を生み出したディレクター川崎徹が設立したマザースの制作で、広告賞を受賞している。

 ピエトロでは、村田社長と担当部署の責任者がパスタ料理の本場イタリアに出向く視察旅行を行っていた。社内規程では役職によって出張手当ての額が違い、宿泊するホテルのグレードも変わってくる。しかし、村田社長は「星の付いたいいホテルに泊まり、美味しい食事をしないと、いい企画は立てられない」と、課長以下のスタッフには自らのポケットマネーで、グレードの高いホテルに泊まらせると話していた。

 既にあるイタリア料理というカテゴリーに、直感やイメージ、柔軟な発想をもってクリエイティビティを追及していく。そのためには拘りという投資が欠かせないということだ。まさに貧すれば鈍す。社員がいいアイデアが出せるのは、こんなことも関係していると思う。

 とかく価格やオペレーション、システムばかりで語られる外食産業において、何を企画し、そのためにはどんな手順で進めていくか。村田社長なりの創造力に基づいたやり方があったのだと思う。それによってピエトロという会社も「サラダスパゲティ」などのメニュー、「ピエトロ・バルコーネ」「ピエトロ・コルテ」「ピエトロ・エミーオ」といった業態など、瀟酒で秀逸なものを生み出し続けて来たのである。

 創業者として上場益が入ったら、「おしゃれなバスを買って、幼稚園をまわり、食育もしたい」と語っていたが、「おしゃれな」と言うところが村田社長らしい。でも、これについては本人は志し半ばではなかったかと思う。心からお悔やみ申し上げます。合掌

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