芥川は…の部分が聴き散りにくかったのだが「写真は良いよ、脳裏に焼き付けてあるから…」「そうだな、今はストレスが一番良くないだろうから…」、と言って、帰って行った。
電話で、妹に、「この間、兄貴が言っていたのは、あの小齋さんの写真の事じゃなかったのか」と尋ねたら、「うんだよー、…持って行くから」
翌日、終に会う事は適わなった母親の、芥川が、全く知らない写真数枚と一緒に、手元に届いた。実に見事な柿等の果物と一緒に。
注:小齋誠進さんは、まーちゃんさんの娘さんと結婚された神奈川県の人で、閖上の土地柄や人間性をこよなく愛してくれている方だった。
彼が“その時、閖上は”と題して出版した写真集は、芥川の様に閖上が故郷である人間だけではなく、様々な方にとっても、貴重な資料だと思う。
例えば、閖上の漁港近くには「春美食堂」という、天ぷらそばが特に美味しい店が在ったのだが、それが、芥川が故郷をはなれた40年超経っても在ったのだ、という驚き、春日館しかり、樋口呉服店、佐々圭、一番懐かしいと思ったのは泉谷さんの店が今でも在ったことか…これらの事については書く事が一杯あって、今は、書けない。
ちょっと、根を詰められない体調なので。
最後に朝日新聞の記事が在ったので何かなと思って見てみたら、大きな記事の中に、孫と一緒に写っている、高齢と成った芥川の父母の写真…芥川が全く知らない頃の写真だった…まで掲載されて、その孫が高校球児となって、祖母(芥川の母親)が月に一度は書いて来たという、「祖母の教え 感謝胸に」「毎月手紙 大震災で犠牲」との大見出しでの大きなスペースでの記事だった。
芥川は、妹に息子が居た事は全く知らなかったので、今日、電話をしたのだった。
「これは、貴女の息子か?」「うんだっちゃ、ほら、阪神大震災の時に見に行った時に、妊娠しているのか、って聞いたじゃない、良かったじゃないか、って言ってたじゃない」
そこの部分は全く記憶になかった。リビングがガラスの海に成っていた光景と、心配して来てくれた妹の様子は直ぐに浮かんできたのだが。
娘が居る事は知っていたのだ。