路上に机を置いた元締めが日雇い労働者を、それぞれの現場に、そこから派遣するのである。青山のコロンビア本社のビル新築工事、NHK本館の録音等がすべて終わってからの深夜の配管工事、或いは、何と言うこともない民間の建築工事で、地面を、つるはしで掘って行く、土方用語では、ねぎ というような工事。
あるいは埼玉県のどこかで建築中の工場に於いてのダクトを繋ぐリベット打ちなどという作業…ここでは明治大学の若者と昼休み等に様々な事を話していた思い出がある。最終的にたどりついたのは一番効率のいい仕事、東京に於いては大日本印刷の工場において、確か新宿だったと思う、五反田だったかな、本社工場において深夜の作業をするのである。
単調な正にチャップリンが揶揄したような仕事ではあったが一番効率がよかったのである。京都に於いては、中京区・錦商店街の、かの有名な錦市場のど真ん中にあった、菓子屋兼うどん屋に住み込みとしいて転がり込んだ。
菓子を作っている工場の上に部屋があったのだが、これがほとんど窓のない部屋で、工場の上だから、それは暑くて寝てなんかいられるようなものではない、時期は夏だった。
錦市場で提供しているうどん店のバックヤードで、毎日毎日、機械によるキャベツ切りをしていた時期もあった。
或いは、計測器のトップメーカーで飛び込みセールス、もちろん住居付き、つまりとにかく生き延びたのである。
芥川の同級生や同窓生でかような人生を送った者は、まず一人もいないはずだ。そういえば今、ふと思い出した、たまたま家に帰った時に仙台の高級住宅街で庭掃除の仕事が職安に在った。それで芥川は出かけていっていったのだが、そこの当主は多分、芥川が母校のライバル校OB、大先輩で、非常に感じの良い老夫婦だった。
だが彼等が芥川を見る目の中には憐憫の情があった事は間違いがない。
ニ高を出ながらこんな事をしているなんて、そういう憐憫の情だった。