文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

こうしてみると、左派野党がやっているのは、安倍政権に対する「ケチつけ」だけではないか。

2018年05月31日 13時48分42秒 | 日記

以下は月刊誌WiLL今月号に「モリカケ2年、18連休!」と題して前章の加地伸行氏に続いて掲載された長谷川幸洋氏の連載コラムからである。

ケチつけ野党は議員辞職せよ

いったい、日本の左派野党は何を求めて政治活動をしているのだろうか。 

昨年から続くモリカケ問題や朝鮮半島情勢に関する彼らの対応を見ていると、根本的な疑問が湧いてくる。

曲がりなりにも、政治に関わっている以上「日本の国をこうしたい」という志があったはずだ。

残念ながら、いまの左派野党には、それが感じられない。

単なる「ケチつけ集団」に堕しているのである。 

ある野党議員は「我々も安倍晋三政権の規制改革には反対しない。だが、それが首相の縁故に基づく特定法人などに利益誘導する仕組みになっているとすれば、問題だ。だから国会で追及している」と語っている。 

その限りでは、私もまったく賛成である。

モリカケ問題の核心は「安倍首相が首相の立場を利用して特別な便宜供与を図っていたかどうか」だ。

だが、今日に至るまで具体的な首相関与の証拠は出ていない。 

森友学園問題で言えば、たしかに、国土交通省大阪航空局や財務省近畿財務局の異例とも言える「森友厚遇」の形跡はある。

だが、首相が関与した事実はない。

夫人の昭恵氏が学園と交流を持っていたのは軽率だったが、それとは別だ。

そうであれば、大阪航空局と近畿財務局、公文書を改ざんしていた財務省の責任を追及するのが筋ではないか。 

加計学園問題に至っては、言いがかりに近い。

そもそも国家戦略特区で議論し決定したのは、学校教育法に違反して大学設置を門前払いしていた文部科学省の告示撤廃問題だった。獣医学部の設置自体は大学設置・学校法人審議会の審議を経て、文科省が認可している。

つまり、これまた文科省行政の問題である。 

野党は問題の本質を追及せずに、あえて政権打倒の道具に仕立てているのだ。

野党だから「それも仕方ない」と理解できなくもないが、朝鮮半島情勢が一段と緊張する中、モリカケは二年もやっているような話なのか。

追及がネタ切れしたら、五月の連休をはさんで野党はなんと「十八連休」に突入してしまった。 

ようやく国会に復帰してきたと思ったら、まだモリカケの続編をやっている。

さすがに、昼間のテレビは「視聴者に飽きられた」と見切りをつけ始めたようだ。

連休明けからは、朝鮮半島問題に焦点を当てる番組も出てきた。 

では、その朝鮮半島問題で左派野党は何を言っているのか。               ″

先日、久しぶりに『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系列)に出演したら、同席した野党議員は「日本が米国と合同軍事演習したのは、けしからん」と息巻いていた。

「米国の圧力路線に同調するな」と言いたいのである。

だが、北朝鮮が曲がりなりにも対話路線に修正してきたのは、日米を軸にした「最大限の圧力」の結果ではないか。 

これまで日本は2002年の「日朝平壌宣言」や14年の「ストックホルム合意」など、北朝鮮と真剣な対話を重ね、日本独自の制裁も解除した。

それが、ことごとく裏切られてきた歴史から、この議員は目をつぶっている。

そもそも「米国の圧力路線には同調しないが、拉致問題の解決には力を貸してくれ」などという言い分が、ご都合主義なのだ。

こうしてみると、左派野党がやっているのは、安倍政権に対する「ケチつけ」だけではないか。

ケチつけに言葉が詰まると、国会の審議拒否と採決拒否である。

15年の安全保障関連法案の採決では一斉に議場から退席した。 

そんな野党に税金から歳費を払う価値があるのだろうか。

国会議員は国民の代理人として予算案と法案を審議し、採決するために存在している。

審議も採決も拒否するなら、国会議員であってもらう理由はない。

彼らは歳費返上どころか、議員辞職すべきである。 

ついでに言えば、政権に不満を抱く野党が一斉に議員辞職すれば、政権は解散して国民に信を問うしかなくなる。

野党不在のまま、国会審議を続けるわけにはいかないからだ。

だから「一斉辞職」は政権を倒す最強にして最大の効果がある作戦である。

だが「いつまでも議員でいたい」彼らは、そんな作戦を絶対に実行しない。

結局、与党から足元を見られているのである。 

野党に期待するのはケチつけではなく、建設的な議論だ。

国の平和と安全、国民の生命財産を守って一層、豊かにするために、政府は何をすべきで、何をすべきではないか。

そういう議論である。

経済政策でも安全保障政策でも自分たちのプランを示すべきだ。 民進党も希望の党(旧)もなくなり、旧民主党は散り散リバラバラになった。

野党議員には、ここで足元を見つめ直してもらいたい。

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そもそも「米国の圧力路線には同調しないが、拉致問題の解決には力を貸してくれ」などという言い分が、ご都合主義なのだ。

2018年05月31日 13時46分28秒 | 日記

以下は月刊誌WiLL今月号に「モリカケ2年、18連休!」と題して前章の加地伸行氏に続いて掲載された長谷川幸洋氏の連載コラムからである。

ケチつけ野党は議員辞職せよ

いったい、日本の左派野党は何を求めて政治活動をしているのだろうか。 

昨年から続くモリカケ問題や朝鮮半島情勢に関する彼らの対応を見ていると、根本的な疑問が湧いてくる。

曲がりなりにも、政治に関わっている以上「日本の国をこうしたい」という志があったはずだ。

残念ながら、いまの左派野党には、それが感じられない。

単なる「ケチつけ集団」に堕しているのである。 

ある野党議員は「我々も安倍晋三政権の規制改革には反対しない。だが、それが首相の縁故に基づく特定法人などに利益誘導する仕組みになっているとすれば、問題だ。だから国会で追及している」と語っている。 

その限りでは、私もまったく賛成である。

モリカケ問題の核心は「安倍首相が首相の立場を利用して特別な便宜供与を図っていたかどうか」だ。

だが、今日に至るまで具体的な首相関与の証拠は出ていない。 

森友学園問題で言えば、たしかに、国土交通省大阪航空局や財務省近畿財務局の異例とも言える「森友厚遇」の形跡はある。

だが、首相が関与した事実はない。

夫人の昭恵氏が学園と交流を持っていたのは軽率だったが、それとは別だ。

そうであれば、大阪航空局と近畿財務局、公文書を改ざんしていた財務省の責任を追及するのが筋ではないか。 

加計学園問題に至っては、言いがかりに近い。

そもそも国家戦略特区で議論し決定したのは、学校教育法に違反して大学設置を門前払いしていた文部科学省の告示撤廃問題だった。獣医学部の設置自体は大学設置・学校法人審議会の審議を経て、文科省が認可している。

つまり、これまた文科省行政の問題である。 

野党は問題の本質を追及せずに、あえて政権打倒の道具に仕立てているのだ。

野党だから「それも仕方ない」と理解できなくもないが、朝鮮半島情勢が一段と緊張する中、モリカケは二年もやっているような話なのか。

追及がネタ切れしたら、五月の連休をはさんで野党はなんと「十八連休」に突入してしまった。 

ようやく国会に復帰してきたと思ったら、まだモリカケの続編をやっている。

さすがに、昼間のテレビは「視聴者に飽きられた」と見切りをつけ始めたようだ。

連休明けからは、朝鮮半島問題に焦点を当てる番組も出てきた。 

では、その朝鮮半島問題で左派野党は何を言っているのか。               ″

先日、久しぶりに『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系列)に出演したら、同席した野党議員は「日本が米国と合同軍事演習したのは、けしからん」と息巻いていた。

「米国の圧力路線に同調するな」と言いたいのである。

だが、北朝鮮が曲がりなりにも対話路線に修正してきたのは、日米を軸にした「最大限の圧力」の結果ではないか。 

これまで日本は2002年の「日朝平壌宣言」や14年の「ストックホルム合意」など、北朝鮮と真剣な対話を重ね、日本独自の制裁も解除した。

それが、ことごとく裏切られてきた歴史から、この議員は目をつぶっている。

そもそも「米国の圧力路線には同調しないが、拉致問題の解決には力を貸してくれ」などという言い分が、ご都合主義なのだ。

こうしてみると、左派野党がやっているのは、安倍政権に対する「ケチつけ」だけではないか。

ケチつけに言葉が詰まると、国会の審議拒否と採決拒否である。

15年の安全保障関連法案の採決では一斉に議場から退席した。 

そんな野党に税金から歳費を払う価値があるのだろうか。

国会議員は国民の代理人として予算案と法案を審議し、採決するために存在している。

審議も採決も拒否するなら、国会議員であってもらう理由はない。

彼らは歳費返上どころか、議員辞職すべきである。 

ついでに言えば、政権に不満を抱く野党が一斉に議員辞職すれば、政権は解散して国民に信を問うしかなくなる。

野党不在のまま、国会審議を続けるわけにはいかないからだ。

だから「一斉辞職」は政権を倒す最強にして最大の効果がある作戦である。

だが「いつまでも議員でいたい」彼らは、そんな作戦を絶対に実行しない。

結局、与党から足元を見られているのである。 

野党に期待するのはケチつけではなく、建設的な議論だ。

国の平和と安全、国民の生命財産を守って一層、豊かにするために、政府は何をすべきで、何をすべきではないか。

そういう議論である。

経済政策でも安全保障政策でも自分たちのプランを示すべきだ。 民進党も希望の党(旧)もなくなり、旧民主党は散り散リバラバラになった。

野党議員には、ここで足元を見つめ直してもらいたい。

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Les origines de la discorde remonte à Asahi OB po

2018年05月31日 12時59分59秒 | 日記

Ce qui suit est extrait du journal publié dans le numéro mensuel du magazine mensuel Shincho 45 par M. Yawata Kazuo, un critique de l'ancienne bureaucratie du MITI.
Asahi Shimbun et la famille Kishi, la rancune de longue date
Les origines de la discorde remontent à Ogata Taketora, politicienne de l'OB Asahi, et à Kishi Nobusuke, le grand-père du Premier ministre Abe.
La source de la «guerre de 10 ans»
Comme on dit qu'il fait «la guerre de 10 ans» d'Asahi Shimbun contre le Premier ministre Shinzo Abe, les deux continuent à se battre sans dissimuler l'hostilité entre eux.
Lors de ses premiers entretiens avec le président Trump, le Premier ministre Abe a déclaré: «Nous avons quelque chose en commun: j'ai gagné le combat contre l'Asahi Shimbun, et M. Trump a gagné le New York Times.
Pourquoi cette relation tortueuse, mais je soupçonne que l'Asahi Shimbun était incapable de saisir le centre du pouvoir par la mort de Ogata Taketora et Kohno Ichiro, l'échec de Hosokawa Morihiro, cet homme politique OB.
A l'origine, l'Osaka est un journal de naissance, l'Asahi Shimbun était à l'origine basé sur la couche intelligente de la région de Hanshin, et des érudits de l'école de Kyoto apparaissent souvent.
Ils ont des gens qui tiennent le système, mais ils ne tiennent pas le centre du pouvoir, ils ont déformé les sentiments du monde politique et des affaires et des universitaires à Tokyo.
Je pense que reflétant les sentiments est Asahi Shimbun.
À Tokyo, il est fort dans la zone résidentielle haut de gamme de Yamanote, mais de nombreux résidents venaient aussi de l'ouest du Japon.
Je voudrais confirmer que je ne perds pas mes sentiments idéalistes.
Alors qu'ils trouvent un emploi dans les bureaux du gouvernement et des entreprises à Tokyo, ils n'aiment pas l'obéissance aveugle au pouvoir politique et à l'autorité, adoptent un peu une attitude cynique qu'ils aimeraient confirmer qu'ils ne perdent pas leurs sentiments idéalistes.
Dans mes débuts à Kasumigaseki et Marunouchi Il y avait peu de gens à la maison à l'exception de l'Asahi Shimbun, et la chose forte pour le groupe à revenu élevé est que les frais de publicité sont plus élevés que le journal Yomiuri qui surpasse l'Asahi Shimbun par le nombre de copies Il émerge.
Cependant, pour bien connaître l'histoire, l'Asahi Shimbun pourrait éventuellement prendre le contrôle du centre de pouvoir par un monstre politique nommé Ogata Taketora.
Dans l'avant-guerre Asahi Shimbun, le président de M. Murayama Nagataka, qui était marié à la famille de sa fiancée, et Ogata Taketora, qui a été informé par les autorités (rédacteur en chef), sont sévèrement opposés.
Bien que la famille Ogata, préfecture d'Okayama, soit un ancêtre, parce que son père était un bureaucrate de l'intérieur, Taketora est né à Yamagata et a grandi à Fukuoka.
Il est connecté avec Toyama Mitsuru et Nakano Seigo dans cette relation, enseigné par Miura Goro du clan Choshu l'ère appelée Taisho scooped et est devenu célèbre.
Ce projet continue.

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Los orígenes de la discordia se remontan a Asahi OB po

2018年05月31日 12時58分54秒 | 日記

Lo siguiente es del artículo publicado en el número mensual de la revista mensual Shincho 45 por el Sr. Yawata Kazuo, un crítico de la burocracia del MITI.
Asahi Shimbun y la familia Kishi, el resentimiento de larga data
Los orígenes de la discordia se remontan al político OB de Asahi Ogata Taketora y al abuelo del primer ministro Abe, Kishi Nobusuke.
La fuente de la 'guerra de los 10 años'
Como se le dijo que hace 'la guerra de los 10 años' de Asahi Shimbun contra el primer ministro Shinzo Abe, ambos continúan luchando sin ocultar la hostilidad mutua.
En sus primeras conversaciones con el presidente Trump, el primer ministro Abe dijo: "tenemos algo en común: gané la lucha contra Asahi Shimbun, y el señor Trump ganó el New York Times".
¿Por qué es esta relación tortuosa, pero sospecho que el Asahi Shimbun fue incapaz de captar el centro de poder por la muerte de Ogata Taketora y Kohno Ichiro, el fracaso de Hosokawa Morihiro, ese político OB?
Originalmente, el Osaka es un periódico del lugar de nacimiento, el Asahi Shimbun se basó originalmente en la capa inteligente de la región de Hanshin, y los estudiosos de la escuela de Kyoto a menudo aparecen.
Tienen personas que sostienen el sistema, pero no tienen el centro del poder, tienen sentimientos distorsionados al mundo político y empresarial y a la gente de la universidad en Tokio.
Creo que reflejar los sentimientos es Asahi Shimbun.
En Tokio, es fuerte en el área residencial de alta gama de Yamanote, pero muchos residentes también vinieron del oeste de Japón.
Me gustaría confirmar que no estoy perdiendo los sentimientos idealistas.
Mientras encuentran empleo en oficinas gubernamentales y compañías en Tokio, les desagrada la obediencia ciega al poder político y la autoridad, un poco toman una actitud cínica y les gustaría confirmar que no están perdiendo los sentimientos idealistas.
En mis primeros días en Kasumigaseki y Marunouchi, había pocas personas suscribiendo en casa, excepto el Asahi Shimbun, y lo más fuerte para el grupo de altos ingresos, como de costumbre, es que la tarifa de publicidad es más alta que el periódico Yomiuri, que supera al Asahi Shimbun por el número de copias Está emergiendo.
Sin embargo, para conocer completamente la historia, el Asahi Shimbun podría tomar el control del centro de poder gracias a un monstruoso político llamado Ogata Taketora.
En la preguerra, Asahi Shimbun, el presidente del Sr. Murayama Nagataka, fundador de la familia de su novia y Ogata Taketora, a quien las autoridades (editor) le dijeron que era severamente conflictiva.
Aunque la familia Ogata, la Prefectura de Okayama es un antepasado, porque su padre era un burócrata interior, Taketora nació en Yamagata y creció en Fukuoka.
Está conectado con Toyama Mitsuru y Nakano Seigo en esa relación, enseñado por Miura Goro del clan Choshu, la era llamada Taisho se hizo famosa y se hizo famosa.
Este borrador continúa.

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追及がネタ切れしたら、五月の連休をはさんで野党はなんと「十八連休」に突入してしまった。

2018年05月31日 12時57分12秒 | 日記

以下は月刊誌WiLL今月号に「モリカケ2年、18連休!」と題して前章の加地伸行氏に続いて掲載された長谷川幸洋氏の連載コラムからである。

ケチつけ野党は議員辞職せよ

いったい、日本の左派野党は何を求めて政治活動をしているのだろうか。 

昨年から続くモリカケ問題や朝鮮半島情勢に関する彼らの対応を見ていると、根本的な疑問が湧いてくる。

曲がりなりにも、政治に関わっている以上「日本の国をこうしたい」という志があったはずだ。

残念ながら、いまの左派野党には、それが感じられない。

単なる「ケチつけ集団」に堕しているのである。 

ある野党議員は「我々も安倍晋三政権の規制改革には反対しない。だが、それが首相の縁故に基づく特定法人などに利益誘導する仕組みになっているとすれば、問題だ。だから国会で追及している」と語っている。 

その限りでは、私もまったく賛成である。

モリカケ問題の核心は「安倍首相が首相の立場を利用して特別な便宜供与を図っていたかどうか」だ。

だが、今日に至るまで具体的な首相関与の証拠は出ていない。 

森友学園問題で言えば、たしかに、国土交通省大阪航空局や財務省近畿財務局の異例とも言える「森友厚遇」の形跡はある。

だが、首相が関与した事実はない。

夫人の昭恵氏が学園と交流を持っていたのは軽率だったが、それとは別だ。

そうであれば、大阪航空局と近畿財務局、公文書を改ざんしていた財務省の責任を追及するのが筋ではないか。 

加計学園問題に至っては、言いがかりに近い。

そもそも国家戦略特区で議論し決定したのは、学校教育法に違反して大学設置を門前払いしていた文部科学省の告示撤廃問題だった。獣医学部の設置自体は大学設置・学校法人審議会の審議を経て、文科省が認可している。

つまり、これまた文科省行政の問題である。 

野党は問題の本質を追及せずに、あえて政権打倒の道具に仕立てているのだ。

野党だから「それも仕方ない」と理解できなくもないが、朝鮮半島情勢が一段と緊張する中、モリカケは二年もやっているような話なのか。

追及がネタ切れしたら、五月の連休をはさんで野党はなんと「十八連休」に突入してしまった。 

ようやく国会に復帰してきたと思ったら、まだモリカケの続編をやっている。

さすがに、昼間のテレビは「視聴者に飽きられた」と見切りをつけ始めたようだ。

連休明けからは、朝鮮半島問題に焦点を当てる番組も出てきた。 

では、その朝鮮半島問題で左派野党は何を言っているのか。               ″

先日、久しぶりに『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系列)に出演したら、同席した野党議員は「日本が米国と合同軍事演習したのは、けしからん」と息巻いていた。

「米国の圧力路線に同調するな」と言いたいのである。

だが、北朝鮮が曲がりなりにも対話路線に修正してきたのは、日米を軸にした「最大限の圧力」の結果ではないか。 

これまで日本は2002年の「日朝平壌宣言」や14年の「ストックホルム合意」など、北朝鮮と真剣な対話を重ね、日本独自の制裁も解除した。

それが、ことごとく裏切られてきた歴史から、この議員は目をつぶっている。

そもそも「米国の圧力路線には同調しないが、拉致問題の解決には力を貸してくれ」などという言い分が、ご都合主義なのだ。

こうしてみると、左派野党がやっているのは、安倍政権に対する「ケチつけ」だけではないか。

ケチつけに言葉が詰まると、国会の審議拒否と採決拒否である。

15年の安全保障関連法案の採決では一斉に議場から退席した。 

そんな野党に税金から歳費を払う価値があるのだろうか。

国会議員は国民の代理人として予算案と法案を審議し、採決するために存在している。

審議も採決も拒否するなら、国会議員であってもらう理由はない。

彼らは歳費返上どころか、議員辞職すべきである。 

ついでに言えば、政権に不満を抱く野党が一斉に議員辞職すれば、政権は解散して国民に信を問うしかなくなる。

野党不在のまま、国会審議を続けるわけにはいかないからだ。

だから「一斉辞職」は政権を倒す最強にして最大の効果がある作戦である。

だが「いつまでも議員でいたい」彼らは、そんな作戦を絶対に実行しない。

結局、与党から足元を見られているのである。 

野党に期待するのはケチつけではなく、建設的な議論だ。

国の平和と安全、国民の生命財産を守って一層、豊かにするために、政府は何をすべきで、何をすべきではないか。

そういう議論である。

経済政策でも安全保障政策でも自分たちのプランを示すべきだ。 民進党も希望の党(旧)もなくなり、旧民主党は散り散リバラバラになった。

野党議員には、ここで足元を見つめ直してもらいたい。

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Die Ursprünge der Zwietracht gehen zurück auf Asahi OB po

2018年05月31日 12時56分50秒 | 日記

Das Folgende stammt aus dem Papier, das in der monatlichen Ausgabe der Monatszeitschrift Shincho 45 von Herrn Yawata Kazuo, einem Kritiker der ehemaligen MITI-Bürokratie, veröffentlicht wurde.
Asahi Shimbun und Kishi Familie, die langjährige Groll
Die Ursprünge der Zwietracht gehen zurück auf Asahi OB-Politiker Ogata Taketora und Premierminister Abes Großvater Kishi Nobusuke.
Die Quelle des 10-jährigen Krieges
Wie gesagt, dass es "den 10-jährigen Krieg" von Asahi Shimbun gegen Ministerpräsident Shinzo Abe gibt, kämpfen beide weiterhin, ohne Feindseligkeit zu verbergen.
In seinen ersten Gesprächen mit Präsident Trump sagte Premierminister Abe: "Wir haben etwas gemeinsam: Ich habe den Kampf gegen die Asahi Shimbun gewonnen und Mr. Trump hat die New York Times gewonnen."
Warum ist diese gewundene Beziehung, aber ich vermute, dass die Asahi Shimbun nicht in der Lage war, das Machtzentrum von Ogata Taketora und Kohno Ichiros Tod, Hosokawa Morihiros Versagen, dem OB-Politiker, zu erfassen.
Ursprünglich war die Osaka eine Geburtszeitung, die Asahi Shimbun basierte ursprünglich auf der intelligenten Schicht der Hanshin-Region, und Gelehrte der Kyoto-Schule tauchen oft auf.
Sie haben Leute, die an dem System festhalten, aber sie haben nicht das Zentrum der Macht, sie haben Gefühle für die politische und Geschäftswelt und die Universitätsmenschen in Tokio verdreht.
Ich denke, dass das Reflektieren der Gefühle Asahi Shimbun ist.
In Tokio ist es in der gehobenen Wohngegend von Yamanote stark, aber viele Einwohner kamen auch aus Westjapan.
Ich möchte bestätigen, dass ich idealistische Gefühle nicht verliere.
Während sie in Regierungsbüros und Firmen in Tokio Arbeit finden, mögen sie keinen blinden Gehorsam gegenüber der politischen Macht und der Autorität, ein wenig zynisch wollen sie bestätigen, dass sie idealistische Gefühle nicht verlieren.
In meinen frühen Tagen in Kasumigaseki und Marunouchi gab es zu Hause nur wenige Leute, außer den Asahi Shimbun, und die starke Sache für die hohe Einkommensgruppe ist wie immer, dass die Anzeigengebühr höher ist als die Yomiuri Zeitung, die die Asahi Shimbun übertrifft Anzahl der Kopien Es zeichnet sich ab.
Um jedoch die Geschichte vollständig zu kennen, könnte die Asahi Shimbun möglicherweise das Machtzentrum von einem Monsterpolitiker namens Ogata Taketora übernehmen.
In der Vorkriegszeit Asahi Shimbun, sind Herr Murayama Nagataka Präsident, der ein Gründer in die Familie seiner Braut verheiratet war und Ogata Taketora, die von den Behörden (Redakteur) erzählt wurde streng widersprüchlich.
Obwohl die Familie Ogata, die Präfektur Okayama, ein Vorfahre ist, weil Takutora als Innenbürokrat in Yamagata geboren wurde, wuchs er in Fukuoka auf.
Es ist verbunden mit Toyama Mitsuru und Nakano Seigo in dieser Beziehung, die von Miura Goro des Choshu Clans gelehrt wurde. Die Ära, die Taisho genannt wurde, wurde berühmt und berühmt.
Dieser Entwurf wird fortgesetzt.

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As origens da discórdia remontam a Asahi OB po

2018年05月31日 12時55分42秒 | 日記

O seguinte é do artigo publicado na edição mensal da revista mensal Shincho 45 do Sr. Yawata Kazuo, um crítico da antiga burocracia do MITI.
Asahi Shimbun e família Kishi, o rancor de longa data
As origens da discórdia remontam ao político de Asahi OB, Ogata Taketora, e ao avô do primeiro-ministro Abe, Kishi Nobusuke.
A fonte da "guerra de 10 anos"
Como disse que faz "a guerra de 10 anos" de Asahi Shimbun contra o primeiro-ministro Shinzo Abe, ambos continuam lutando sem esconder hostilidade um ao outro.
Em suas primeiras conversas com o presidente Trump, o primeiro-ministro Abe disse: "Temos algo em comum: venci a luta contra o Asahi Shimbun e o senhor Trump ganhou o New York Times".
Por que esta relação tortuosa, mas eu suspeito que o Asahi Shimbun foi incapaz de compreender o centro de poder pela morte de Ogata Taketora e Kohno Ichiro, o fracasso de Hosokawa Morihiro, aquele político da OB.
Originalmente o Osaka é um jornal local de nascimento, o Asahi Shimbun foi originalmente baseado na camada inteligente da região de Hanshin, e os estudiosos da escola de Kyoto aparecem frequentemente.
Eles têm pessoas segurando o sistema, mas eles não estão segurando o centro do poder, eles distorceram sentimentos para o mundo político e empresarial e as pessoas da universidade em Tóquio.
Eu acho que refletir os sentimentos é Asahi Shimbun.
Em Tóquio, é forte na área residencial de alto nível de Yamanote, mas muitos moradores também vieram do oeste do Japão.
Eu gostaria de confirmar que não estou perdendo sentimentos idealistas.
Enquanto eles encontram emprego em escritórios do governo e empresas em Tóquio, eles não gostam de obediência cega ao poder político e à autoridade, um pouco tomam uma atitude cínica que eles gostariam de confirmar que eles não estão perdendo sentimentos idealistas.
Em meus primeiros dias em Kasumigaseki e Marunouchi, havia poucas pessoas se inscrevendo em casa, exceto o Asahi Shimbun, e o forte para o grupo de alta renda é que a taxa de propaganda é maior do que o Jornal Yomiuri, que ultrapassa o Asahi Shimbun. número de cópias Está surgindo.
No entanto, para conhecer plenamente a história, o Asahi Shimbun poderia assumir o centro de poder por um político monstro chamado Ogata Taketora.
No pré-guerra Asahi Shimbun, o presidente do Sr. Murayama Nagataka que foi um dos fundadores da família de sua noiva e Ogata Taketora, que foi informado pelas autoridades (editor), são severamente conflitantes.
Embora a família Ogata, Okayama é um ancestral, porque seu pai era um burocrata interior, Taketora nasceu em Yamagata e cresceu em Fukuoka.
Ela está conectada com Toyama Mitsuru e Nakano Seigo nessa relação, ensinada por Miura Goro do clã Choshu que a era chamada Taisho escavou e se tornou famosa.
Este rascunho continua.

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野党は問題の本質を追及せずに、あえて政権打倒の道具に仕立てているのだ。

2018年05月31日 12時55分26秒 | 日記

以下は月刊誌WiLL今月号に「モリカケ2年、18連休!」と題して前章の加地伸行氏に続いて掲載された長谷川幸洋氏の連載コラムからである。

ケチつけ野党は議員辞職せよ

いったい、日本の左派野党は何を求めて政治活動をしているのだろうか。 

昨年から続くモリカケ問題や朝鮮半島情勢に関する彼らの対応を見ていると、根本的な疑問が湧いてくる。

曲がりなりにも、政治に関わっている以上「日本の国をこうしたい」という志があったはずだ。

残念ながら、いまの左派野党には、それが感じられない。

単なる「ケチつけ集団」に堕しているのである。 

ある野党議員は「我々も安倍晋三政権の規制改革には反対しない。だが、それが首相の縁故に基づく特定法人などに利益誘導する仕組みになっているとすれば、問題だ。だから国会で追及している」と語っている。 

その限りでは、私もまったく賛成である。

モリカケ問題の核心は「安倍首相が首相の立場を利用して特別な便宜供与を図っていたかどうか」だ。

だが、今日に至るまで具体的な首相関与の証拠は出ていない。 

森友学園問題で言えば、たしかに、国土交通省大阪航空局や財務省近畿財務局の異例とも言える「森友厚遇」の形跡はある。

だが、首相が関与した事実はない。

夫人の昭恵氏が学園と交流を持っていたのは軽率だったが、それとは別だ。

そうであれば、大阪航空局と近畿財務局、公文書を改ざんしていた財務省の責任を追及するのが筋ではないか。 

加計学園問題に至っては、言いがかりに近い。

そもそも国家戦略特区で議論し決定したのは、学校教育法に違反して大学設置を門前払いしていた文部科学省の告示撤廃問題だった。獣医学部の設置自体は大学設置・学校法人審議会の審議を経て、文科省が認可している。

つまり、これまた文科省行政の問題である。 

野党は問題の本質を追及せずに、あえて政権打倒の道具に仕立てているのだ。

野党だから「それも仕方ない」と理解できなくもないが、朝鮮半島情勢が一段と緊張する中、モリカケは二年もやっているような話なのか。

追及がネタ切れしたら、五月の連休をはさんで野党はなんと「十八連休」に突入してしまった。 

ようやく国会に復帰してきたと思ったら、まだモリカケの続編をやっている。

さすがに、昼間のテレビは「視聴者に飽きられた」と見切りをつけ始めたようだ。

連休明けからは、朝鮮半島問題に焦点を当てる番組も出てきた。 

では、その朝鮮半島問題で左派野党は何を言っているのか。               ″

先日、久しぶりに『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系列)に出演したら、同席した野党議員は「日本が米国と合同軍事演習したのは、けしからん」と息巻いていた。

「米国の圧力路線に同調するな」と言いたいのである。

だが、北朝鮮が曲がりなりにも対話路線に修正してきたのは、日米を軸にした「最大限の圧力」の結果ではないか。 

これまで日本は2002年の「日朝平壌宣言」や14年の「ストックホルム合意」など、北朝鮮と真剣な対話を重ね、日本独自の制裁も解除した。

それが、ことごとく裏切られてきた歴史から、この議員は目をつぶっている。

そもそも「米国の圧力路線には同調しないが、拉致問題の解決には力を貸してくれ」などという言い分が、ご都合主義なのだ。

こうしてみると、左派野党がやっているのは、安倍政権に対する「ケチつけ」だけではないか。

ケチつけに言葉が詰まると、国会の審議拒否と採決拒否である。

15年の安全保障関連法案の採決では一斉に議場から退席した。 

そんな野党に税金から歳費を払う価値があるのだろうか。

国会議員は国民の代理人として予算案と法案を審議し、採決するために存在している。

審議も採決も拒否するなら、国会議員であってもらう理由はない。

彼らは歳費返上どころか、議員辞職すべきである。 

ついでに言えば、政権に不満を抱く野党が一斉に議員辞職すれば、政権は解散して国民に信を問うしかなくなる。

野党不在のまま、国会審議を続けるわけにはいかないからだ。

だから「一斉辞職」は政権を倒す最強にして最大の効果がある作戦である。

だが「いつまでも議員でいたい」彼らは、そんな作戦を絶対に実行しない。

結局、与党から足元を見られているのである。 

野党に期待するのはケチつけではなく、建設的な議論だ。

国の平和と安全、国民の生命財産を守って一層、豊かにするために、政府は何をすべきで、何をすべきではないか。

そういう議論である。

経済政策でも安全保障政策でも自分たちのプランを示すべきだ。 民進党も希望の党(旧)もなくなり、旧民主党は散り散リバラバラになった。

野党議員には、ここで足元を見つめ直してもらいたい。

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昨年から続くモリカケ問題や朝鮮半島情勢に関する彼らの対応を見ていると、根本的な疑問が湧いてくる。

2018年05月31日 12時53分21秒 | 日記

以下は月刊誌WiLL今月号に「モリカケ2年、18連休!」と題して前章の加地伸行氏に続いて掲載された長谷川幸洋氏の連載コラムからである。

ケチつけ野党は議員辞職せよ

いったい、日本の左派野党は何を求めて政治活動をしているのだろうか。 

昨年から続くモリカケ問題や朝鮮半島情勢に関する彼らの対応を見ていると、根本的な疑問が湧いてくる。

曲がりなりにも、政治に関わっている以上「日本の国をこうしたい」という志があったはずだ。

残念ながら、いまの左派野党には、それが感じられない。

単なる「ケチつけ集団」に堕しているのである。 

ある野党議員は「我々も安倍晋三政権の規制改革には反対しない。だが、それが首相の縁故に基づく特定法人などに利益誘導する仕組みになっているとすれば、問題だ。だから国会で追及している」と語っている。 

その限りでは、私もまったく賛成である。

モリカケ問題の核心は「安倍首相が首相の立場を利用して特別な便宜供与を図ってぃたかどうか」だ。

だが、今日に至るまで具体的な首相関与の証拠は出ていない。 

森友学園問題で言えば、たしかに、国土交通省大阪航空局や財務省近畿財務局の異例とも言える「森友厚遇」の形跡はある。

だが、首相が関与した事実はない。

夫人の昭恵氏が学園と交流を持っていたのは軽率だったが、それとは別だ。

そうであれば、大阪航空局と近畿財務局、公文書を改ざんしていた財務省の責任を追及するのが筋ではないか。 

加計学園問題に至っては、言いがかりに近い。

そもそも国家戦略特区で議論し決定したのは、学校教育法に違反して大学設置を門前払いしていた文部科学省の告示撤廃問題だった。獣医学部の設置自体は大学設置・学校法人審議会の審議を経て、文科省が認可している。

つまり、これまた文科省行政の問題である。 

野党は問題の本質を追及せずに、あえて政権打倒の道具に仕立てているのだ。

野党だから「それも仕方ない」と理解できなくもないが、朝鮮半島情勢が一段と緊張する中、モリカケは二年もやっているような話なのか。

追及がネタ切れしたら、五月の連休をはさんで野党はなんと「十八連休」に突入してしまった。 

ようやく国会に復帰してきたと思ったら、まだモリカケの続編をやっている。

さすがに、昼間のテレビは「視聴者に飽きられた」と見切りをつけ始めたようだ。

連休明けからは、朝鮮半島問題に焦点を当てる番組も出てきた。 

では、その朝鮮半島問題で左派野党は何を言っているのか。               ″

先日、久しぶりに『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系列)に出演したら、同席した野党議員は「日本が米国と合同軍事演習したのは、けしからん」と息巻いていた。

「米国の圧力路線に同調するな」と言いたいのである。

だが、北朝鮮が曲がりなりにも対話路線に修正してきたのは、日米を軸にした「最大限の圧力」の結果ではないか。 

これまで日本は2002年の「日朝平壌宣言」や14年の「ストックホルム合意」など、北朝鮮と真剣な対話を重ね、日本独自の制裁も解除した。

それが、ことごとく裏切られてきた歴史から、この議員は目をつぶっている。

そもそも「米国の圧力路線には同調しないが、拉致問題の解決には力を貸してくれ」などという言い分が、ご都合主義なのだ。

こうしてみると、左派野党がやっているのは、安倍政権に対する「ケチつけ」だけではないか。

ケチつけに言葉が詰まると、国会の審議拒否と採決拒否である。

15年の安全保障関連法案の採決では一斉に議場から退席した。 

そんな野党に税金から歳費を払う価値があるのだろうか。

国会議員は国民の代理人として予算案と法案を審議し、採決するために存在している。

審議も採決も拒否するなら、国会議員であってもらう理由はない。

彼らは歳費返上どころか、議員辞職すべきである。 

ついでに言えば、政権に不満を抱く野党が一斉に議員辞職すれば、政権は解散して国民に信を問うしかなくなる。

野党不在のまま、国会審議を続けるわけにはいかないからだ。

だから「一斉辞職」は政権を倒す最強にして最大の効果がある作戦である。

だが「いつまでも議員でいたい」彼らは、そんな作戦を絶対に実行しない。

結局、与党から足元を見られているのである。 

野党に期待するのはケチつけではなく、建設的な議論だ。

国の平和と安全、国民の生命財産を守って一層、豊かにするために、政府は何をすべきで、何をすべきではないか。

そういう議論である。

経済政策でも安全保障政策でも自分たちのプランを示すべきだ。 民進党も希望の党(旧)もなくなり、旧民主党は散り散リバラバラになった。

野党議員には、ここで足元を見つめ直してもらいたい。

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不和谐的起源可以追溯到朝日博物馆

2018年05月31日 12時52分24秒 | 日記

以下是来自日本通产省官僚机构批评家Yawata Kazuo先生月刊“Shincho 45”月刊上的文章。
朝日新闻和Kishi家族,长期的怨恨
不和谐的起源可以追溯到朝日政治家Ogata Taketora和首相安倍晋三的祖父Kishi Nobusuke。
“十年战争”的来源
据报道,朝日新闻与首相安倍晋三进行的“十年战争”,两人都在继续战斗而不隐瞒对方的敌意。
总理安倍在首次与特朗普会谈时说,“我们有一个共同点:我赢得了与朝日新闻的斗争,特朗普赢得了纽约时报。”
为什么这种曲折的关系,但我怀疑朝日新闻是无法把握权力中心由绪方竹富子和一郎一郎的死亡,细川森广的失败,这位政治家。
最初大阪是出生地报纸,朝日新闻最初是以阪神地区的智能层为基础的,而京都学派的学者则经常出现。
他们拥有这个制度的人,但他们并没有掌握权力的中心,他们对东京的政治和商业世界以及大学人民产生了感情。
我认为反映感情的是朝日新闻。
在东京,在山手线的高端住宅区域强大,但许多居民也来自西日本。
我想确认我没有失去理想主义的感觉。
当他们在东京的政府机关和公司找到工作时,他们不喜欢盲目服从政治权力和权威,有点抱着愤世嫉俗的态度,他们想确认自己没有失去理想主义的感情。
在霞多斯和丸之内的初期除了朝日新闻之外,很少有人在国内订阅,高收入群体一如既往的强大之处在于广告费高于“读卖新闻”,超过了朝日新闻数量正在出现。
然而,为了充分了解历史,朝日新闻可能会由一位名叫Ogata Taketora的怪物政治家接管权力中心。
在战前的朝日新闻中,作为创始人的妻子村山隆朗先生嫁给了他的新娘家族和Ogata Taketora,并被当局告知(编辑),这些人是严重冲突的。
冈山县的绪方家族虽然是祖先,但由于他的父亲是内政官,Taketora出生在山形,在福冈长大。
在这种关系中,与富山满和中野西乡有关系,由Choshu氏族的三浦五郎教导的时代被称为大正。
这份草案继续。

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불화의 기원은

2018年05月31日 12時51分53秒 | 日記

다음은 MITI 관료의 평론가 인 야와 타 카즈오 (Yawata Kazuo)의 월간 잡지 신초 45 호에 실린 논문에서 발췌 한 내용입니다.
아사히 신문과 기시의 가족, 오랜 원한
불화의 기원은 아사히 OB 정치인 오가타 타케 토라와 아베 총리의 할아버지 기시 노부 스케에게 돌아 간다.
'10 년 전쟁 '의 근원
아사히 신문의 '10 년 전쟁'대 아베 신조 (安 倍 晋 三) 총리의 대담에서 말한 바와 같이,이 둘은 서로 적개심을 숨기지 않고 싸우고있다.
아베 총리와의 첫 회담에서 아베 총리는 '우리는 공통점이있다. 나는 아사히 신문과의 싸움에서 승리했으며 트럼프는 뉴욕 타임즈에서 승리했다.'고 말했다.
이런 왜곡 된 관계는 왜있는 것일까? 아사히 신문은 오가타 타케 토라와 코노 이치로의 죽음으로 호소 카와 모리 히로의 실패, 그 OB 정치가의 힘 센터를 파악할 수 없었다고 생각한다.
원래 오사카는 출생지 신문 이었지만 원래 아사히 신문은 한신 지역의 지능형 층을 기반으로했으며 교토 학교의 학자들이 자주 등장합니다.
그들은 체계를 가지고있는 사람들을 가지고 있지만, 그들은 권력의 중심을 잡고 있지 않으며, 도쿄의 정치 및 비즈니스 세계와 대학 사람들에 대한 감정을 왜곡 시켰습니다.
나는 감정을 반영하는 것이 아사히 신문이라고 생각한다.
도쿄에서는 야마노 테 (Yamanote)의 고급 주거 지역에서 강하지 만 서일본에서도 많은 주민들이 왔습니다.
나는 이상 주의적 감정을 잃지 않는다는 것을 확인하고 싶습니다.
도쿄의 관공서 나 회사에서 취업하는 동안 그들은 정치 권력과 권위에 대한 맹목적인 복종을 싫어하지만 이상 주의적 감정을 잃지 않고 있음을 확인하고 싶은 냉소적 인 태도를 취한다.
초기에는 카스미가 세키와 마루 노우치에서 아사히 신문을 제외하고는 집에 가입하는 사람이 거의 없었으며, 고소득층에게는 신문 기자가 아사히 신문을 능가하는 요미우리 신문보다 높았다. 사본 수 그것은 떠오르고있다.
그러나 아사히 신문은 역사를 완전히 알기 위해 오가타 타케 토라 (Ogata Taketora)라고 불리는 괴물 정치가가 전력 센터를 인수 할 가능성이있다.
전선 아사히 신문에서 창업자 인 무라야마 나가 타카 (浦山 長 郞) 회장은 신부와 결혼했고, 편집인 인 오가타 다케 토라 (竹 戸 羅)는 당국 (편집장)의 말을 경멸했다.
오카야마 현의 오가타 가계는 조상 이었지만 그의 아버지는 내무부 관료 였기 때문에 야마가타에서 태어나 후쿠오카에서 자랐다.
그것은 타이 쇼 (Taisho)라고 불리는 시대가 퍼지고 유명해진 Choshu 일족의 미우라 고로 (Miura Goro)가 가르친 그 관계 속에서 도야마 미츠 루 (Toyama Mitsuru)와 나카노 세이 고 (Nakano Seigo)와 연결되어있다.
이 초안은 계속됩니다.

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Истоки раздора

2018年05月31日 12時51分24秒 | 日記

Из статьи, опубликованной ежемесячным выпуском ежемесячного журнала «Шинчо 45», выступил г-н Явата Кадзуо, критик бывшей бюрократии МИТИ.
Асахи Симбун и семья Киши, давняя обида
Истоки раздора восходят к Асахи О.Б. политику Огате Такеторе и премьер-министру Абэ Кису Нобусуке.
Источником «десятилетней войны»,
Как сказано, что это «10-летняя война» Асахи Симбун против премьер-министра Синдзо Абэ, это и продолжает бороться, не скрывая враждебности друг друга.
В своих первых беседах с президентом Трампом премьер-министр Абэ сказал: «У нас есть что-то общее: я выиграл битву против Асахи Симбуна, а г-н Трамп выиграл« Нью-Йорк таймс ».
Почему это извилистые отношения, но я подозреваю, что Асахи Симбун не смог схватить центр власти со стороны Огаты Такетора и смерти Коно Итиро, провал Хосокава Морихиро, этого политика ОВ.
Первоначально Осака была родиной газеты, Asahi Shimbun изначально была основана на интеллектуальном слое Хансинского региона, и ученые из Киотской школы часто появляются.
У них есть люди, держащиеся в системе, но они не удерживают центр власти, они искажают чувства к политическому и деловому миру и университетским людям в Токио.
Я думаю, что отражением чувства является Асахи Симбун.
В Токио он силен в элитной жилой зоне Яманоте, но многие жители также приехали из Западной Японии.
Я хотел бы подтвердить, что я не теряю идеалистических чувств.
Пока они находят работу в государственных учреждениях и компаниях в Токио, они не любят слепого подчинения политической власти и власти, немного проявляют циничное отношение, они хотели бы подтвердить, что они не теряют идеалистических чувств.
В мои ранние дни в Касумигасеки и Маруноучи было мало людей, подписывающихся дома, кроме Асахи Симбуна, и сильная вещь для группы с высоким доходом, как обычно, заключается в том, что рекламный взнос выше, чем газета Йомиури, которая превосходит Асахи Симбун количество экземпляров.
Однако, чтобы полностью узнать историю, Асахи Симбун мог взять на себя власть центра с помощью политического деятеля-монстра по имени Огата Такетора.
В предвоенный Асахи Симбун г-н Мураяма Нагатака, который был основателем, состоящим в браке с семьей своей невесты и Огатой Такеторой, который сказал властям (редактору), сурово противоречит.
Хотя семья Огата, префектура Окаяма является предком, потому что его отец был внутренним бюрократом, Такетора родился в Ямагате и вырос в Фукуоке.
Это связано с Тоямой Мицуру и Накано Сейго в этих отношениях, которые учил Миура Горо из клана Чошу эпохи под названием Тайшо, выкопанной и прославившейся.
Этот проект продолжается.

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Asal usul perpecahan bermula pada Asahi OB po

2018年05月31日 12時50分53秒 | 日記

Berikut adalah kertas yang diterbitkan dalam majalah bulanan majalah bulanan Shincho 45 oleh Encik Yawata Kazuo, pengkritik bekas birokrasi MITI.
Keluarga Asahi Shimbun dan Kishi, dendam lama
Asal-usul perpecahan bermula dari ahli politik Asahi OB Ogata Taketora dan datuk Perdana Menteri Abe Kishi Nobusuke.
Sumber peperangan '10 tahun '
Seperti yang dikatakan bahawa 'perang 10 tahun' Asahi Shimbun vs Perdana Menteri Shinzo Abe, kedua-duanya terus berjuang tanpa menyembunyikan permusuhan satu sama lain.
Dalam perbincangan pertamanya dengan Presiden Trump, Perdana Menteri Abe berkata, 'kita mempunyai sesuatu yang sama: Saya memenangi perjuangan menentang Asahi Shimbun, dan Encik Trump memenangi New York Times.'
Kenapa hubungan ini susah payah, tetapi saya mengesyaki bahawa Asahi Shimbun tidak dapat memahami pusat kuasa oleh Ogata Taketora dan kematian Kohno Ichiro, kegagalan Hosokawa Morihiro, ahli politik OB.
Pada asalnya Osaka adalah surat khabar tempat lahir, Asahi Shimbun pada asalnya didasarkan pada lapisan pintar di wilayah Hanshin, dan para ulama sekolah Kyoto sering muncul.
Mereka mempunyai orang yang memegang sistem ini, tetapi mereka tidak memegang pusat kuasa, mereka telah melangkah perasaan kepada dunia politik dan perniagaan dan orang-orang universiti di Tokyo.
Saya berfikir bahawa mencerminkan perasaan adalah Asahi Shimbun.
Di Tokyo, ia kuat di kawasan kediaman mewah Yamanote, tetapi ramai penduduk datang dari Barat Jepun juga.
Saya ingin mengesahkan bahawa saya tidak kehilangan perasaan idealis.
Walaupun mereka mencari pekerjaan di pejabat kerajaan dan syarikat di Tokyo, mereka tidak suka ketaatan buta kepada kuasa politik dan pihak berkuasa, sedikit mengambil sikap sinis yang mereka ingin mengesahkan bahawa mereka tidak kehilangan perasaan idealistik.
Pada zaman awal saya di Kasumigaseki dan Marunouchi Terdapat sedikit orang yang melanggan di rumah kecuali Asahi Shimbun, dan perkara yang kuat untuk golongan berpendapatan tinggi seperti biasa ialah yuran iklan lebih tinggi daripada Akhbar Yomiuri, yang melampaui Asahi Shimbun oleh bilangan salinan Ia muncul.
Walau bagaimanapun, untuk mengetahui sepenuhnya sejarah, Asahi Shimbun mungkin boleh mengambil alih pusat kuasa oleh ahli politik raksasa bernama Ogata Taketora.
Dalam zaman praja Asahi Shimbun, Presiden Murayama Nagataka yang merupakan seorang pengasas berkahwin dengan keluarga pengantin perempuannya dan Ogata Taketora yang diberitahu oleh pihak berkuasa (editor) tegas bertentangan.
Walaupun keluarga Ogata, Prefektur Okayama adalah nenek moyang, kerana bapanya adalah birokrat dalaman, Taketora dilahirkan di Yamagata dan dibesarkan di Fukuoka.
Ia berkaitan dengan Toyama Mitsuru dan Nakano Seigo dalam hubungan itu, yang diajarkan oleh Miura Goro dari klan Choshu era Taisho yang dinyanyikan dan menjadi terkenal.
Draf ini berterusan.

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Epäselvyyden alkamisajankohdat ovat Asahi OB po

2018年05月31日 12時50分21秒 | 日記

Seuraavassa on kuukausittaisen Shincho 45 -lehden kuukausittaisessa numerossa julkaistu paperi, jonka kriitikko oli entisen MITI-byrokratian herra Yawata Kazuo.
Asahi Shimbun ja Kish-perhe, pitkäaikainen kirous
Epäjärjestyksen alkuperää on Asahi OB: n poliitikko Ogata Taketora ja pääministeri Aben isoisän Kishi Nobusuke.
"10 vuoden sodan" lähde
Kuten kerrottiin, että Asahi Shimbunin vs. pääministeri Shinzo Aben 10-vuotisen sodan aikana nämä molemmat jatkavat taisteluaan peittelemättä keskinäistä vihamielisyyttä.
Presidentti Trumpin kanssa käydyissä ensimmäisissä neuvotteluissa pääministeri Abe sanoi: "Meillä on jotain yhteistä: voitin taistelun Asahi Shimbunia vastaan ja Trump voitti New York Timesin."
Miksi tämä kumpuileva suhde on, mutta epäilen, että Asahi Shimbun ei kyennyt ymmärtämään voimakeskusta Ogata Taketoralla ja Kohno Ichiron kuolemasta, Hosokawa Morihiron epäonnistumisesta, OB-poliitikasta.
Alunperin Osaka on syntymäpäivälehti, Asahi Shimbun perustettiin alun perin Hanshinin alueen älykkäälle kerrokselle, ja Kioto-koulun tutkijat ilmestyvät usein.
Heillä on ihmisiä, jotka pitävät järjestelmää, mutta heillä ei ole vallan keskipisteenä, he ovat vääristyneet tunteita poliittiselle ja liike-elämälle sekä Tokiossa opiskeleville yliopistoille.
Mielestäni tunteiden ilmaiseminen on Asahi Shimbun.
Tokiossa se on vahva Yamanoten korkealla asuinalueella, mutta monet asukkaat tulivat myös Länsi-Japanista.
Haluaisin vahvistaa, etten menetä idealistisia tunteita.
Vaikka he löytävät työpaikan Tokion kuninkaan toimistoissa ja yrityksissä, he eivät pidä sokeaa kuuliaisuutta poliittiselle valtiolle ja viranomaiselle, hieman ota kyyninen asenne, ja he haluavat vahvistaa, etteivät he menettäisi idealistisia tunteita.
Alkujaikoina Kasumigasekissa ja Marunouchiissa Jotkut harjoittivat vain kotona paitsi Asahi Shimbun, ja tavanomaisen korkean tuloryhmän vahvuus on se, että mainosmaksu on korkeampi kuin Yomiurin sanomalehti, joka ylittää Asahi Shimbunin kopioiden määrä On syntymässä.
Asahi Shimbun kuitenkin voi tietää täyden historian, jos hän on voinut vallata vallankeskuksen hirviöpoliitikko nimeltä Ogata Taketora.
Auringonlaskun Asahi Shimbunissa herra Murayama Nagataka presidentti, joka oli perustaja naimisissa hänen morsiansa ja Ogata Taketora, jonka viranomaiset kertoivat, ovat ristiriitaisia.
Vaikka Ogata-perhe, Okayaman prefektuuri on esi, koska hänen isänsä oli sisäinen byrokraatti, Taketora syntyi Yamagatassa ja kasvoi Fukuokassa.
Se liittyy Toyama Mitsuruun ja Nakano Seigoon siinä suhteessa, jonka Miura Goro Choshun klaanin opettama aikakausi nimeltä Taisho kaatui ja tuli kuuluisaksi.
Tämä luonnos jatkuu.

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Anlaşmazlıkların kökenleri Asahi OB po'ya kadar uzanıyor

2018年05月31日 12時49分44秒 | 日記

Aşağıdakiler, eski MITI bürokrasisinin eleştirmeni olan Yawata Kazuo tarafından aylık olarak yayınlanan Shincho 45 dergisinin aylık sayısında yayınlanan makaleden alınmıştır.
Asahi Shimbun ve Kishi ailesi, uzun süredir devam eden kin
Anlaşmazlıkların kökenleri Asahi OB politikacı Ogata Taketora ve Başbakan Abe'in büyükbabası Kishi Nobusuke'ye kadar uzanıyor.
Year10 yıllık savaşın kaynağı
Asahi Shimbun ve Başbakan Shinzo Abe'nin “10 yıllık savaşı” yaptıklarını söylediği gibi, bu ikisi de düşmanlıklarını gizlemeden savaşmaya devam ediyor.
Başkan Trump ile yaptığı ilk görüşmede Başbakan Abe, "Ortak bir şeyimiz var: Asahi Shimbun'a karşı mücadeleyi kazandım ve Bay Trump New York Times'ı kazandı." Dedi.
Bu zorlu ilişki neden, ama Asahi Shimbun'un Ogata Taketora ve Kohno Ichiro'nun, Hosokawa Morihiro'nun başarısızlığı, OB politikacısının ölümüyle güç merkezini kavrayamadığından şüpheleniyorum.
Aslında Osaka bir doğum yeri gazetesi, Asahi Shimbun aslında Hanshin bölgesinin akıllı katmanına dayanıyordu ve Kyoto okulunun akademisyenleri sık sık ortaya çıkıyor.
Sistemde tuttukları insanlar var, ama güç merkezini tutmuyorlar, Tokyo'daki politik ve iş dünyasına ve üniversite insanlarına karşı duydukları hisler vardı.
Duyguları yansıtmanın Asahi Shimbun olduğunu düşünüyorum.
Tokyo'da, Yamanote'nin üst düzey yerleşim bölgesinde güçlü, ancak birçok bölge Batı Japonya'dan da geliyor.
İdeal duyguları kaybetmediğimi onaylamak isterim.
Tokyo'daki devlet dairelerinde ve şirketlerinde iş bulurken, politik güce ve otoriteye körü körüne itaat etmekten hoşnut değiller, idealist hisleri kaybetmediklerini teyit etmek için biraz alaycı bir tavır takın.
Kasumigaseki ve Marunouchi'deki ilk günlerimde Asahi Shimbun dışında evde az sayıda insan vardı ve her zamanki gibi yüksek gelir grubunun güçlü tarafı, reklam ücretinin Asahi Shimbun'u geride bırakan Yomiuri Gazetesi'nden daha yüksek olmasıydı. kopya sayısı ortaya çıkıyor.
Ancak, tarihin tam olarak bilinmesi için Asahi Shimbun, Ogata Taketora adlı bir canavar politikacısının güç merkezini devralabilir.
Önceden Asahi Shimbun'da, kurucunun evliliğine evlenmiş olan Murayama Nagataka başkanı ve yetkililerin (editör) söylediği Ogata Taketora, sert bir şekilde çelişiyor.
Ogata ailesi, Okayama Eyaleti bir atasözü olmasına rağmen, babasının iç bürokrat olması nedeniyle, Taketora Yamagata'da doğdu ve Fukuoka'da büyüdü.
Bu ilişkide Toyama Mitsuru ve Nakano Seigo ile bağlantılıdır, Choshu klanından Miura Goro tarafından Taisho adı verilen ve meşhur olarak adlandırılan çağa kadar öğretilmiştir.
Bu taslak devam ediyor.

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