すずりんの日記

動物好き&読書好き集まれ~!

小説「ケンちゃんとの思い出」あとがき

2005年03月26日 | 小説・短編、他
この話、私が読んでもらった何人かの友人の反応は、ほとんどが、
「笑えた」
というものでした。
でも、私は、ちょっと怖い話にしたつもりだったので、けっこうショックでした

この話を書く前に、あるテレビ番組を見たんです。

そこで、ある幼稚園が紹介されていました。
なぜ、その幼稚園が紹介されていたか、というと、
その幼稚園で、ペリカン(たしか・・・。昔のことで、忘れました)を
飼ってるんです。

それも、ただ、飼ってるだけじゃなく、そのペリカンを放し飼いにしてて、
園児が一緒に、遊んだり勉強したりしてるんです。
そんなペリカンに、園児たちも、○○ちゃん、○○ちゃんって(名前も忘れました)撫でてあげたり話しかけたりしてて。
そのペリカンを通して、友達も動物も、いじめたりしちゃあいけません、みんな仲良く、ね!
っていうことを先生たちも教えてるんです。
へぇ~、いいことしてるなぁ
って思ったんですが、ふと、こんな疑問が浮かんだんです。

「この子たちは、どの時点で、このペリカンを、“ペリカン”だと認識するんだろう。」

この子たちは、画面を通して見るかぎりは、このペリカンを「羽毛が生えてて嘴がある友達」と思って接しているようでした。
が、大きくなるにつれて、大半は、「私が行ってた幼稚園ではペリカンを“飼ってた”んだよ。」って、言うようになるでしょう(それが良いか悪いかはともかく)。

でも、その中の、1人ぐらいは、「(ペリカンの)○○ちゃんと同じ小学校に行きたい!」と言うような、ある意味、子供の部分が成長しない子が、出てくるんじゃあないかな、と思ったんです。
でもそれは、そのこと自体は別に悪いことじゃなく、そういう子は、すごく純粋で、繊細なところがあって、他の子には無い感受性を持ってるんだと思います。
ただ、そんな純粋な子が、突然に、この話のように、「大人の理論」を浴びせられたら、理解できるどころか、この話の「僕」のように、心のどこかが壊れちゃうような気がします。

でも、これも、「壊れる」といっても、そのことが深い傷にならずに、いつの間にか遠い子供の頃の思い出になったり、いろんなことを学ぶことによって、その傷が修復されることがほとんどでしょう。

ただ、子供の頃に受けた傷が、本人や、心無い周囲の大人の手によって、どんどん大きくなり、捻じ曲げられていく、ということもあるのではないでしょうか。

そんなことを考えてたら、こんな話を書いちゃってました

この話、ケンちゃんの正体を、最初は、猿にしよう、と思ったんですが、
猿が就ける職業が思い浮かばなかったので、「猿」案はボツにしました

もし、おヒマがあったら、こんな背景を読んだ後で、もう1回読んでみてください。
すこ~しは怖いと思ってもらえるかも
コメント (2)
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