谷根千 という言葉を知っている人は 街歩き タウンウォッチングの通の人だ。
下町の風情が残る 台東区谷中、千駄木、文京区根津の一帯を、地名の一字をとって観光用に命名したようだ。
吾輩は今日は歯医者として日大の歯学部に行った帰りに地下鉄千代田線に乗ったら、思わず千駄木駅まで行った。あまり行ったことのないところだから、タウンウォッチングと洒落れこんだ訳。
千駄木駅近くに、「よみせ通り」という商店街があり、それを左折すると「谷中銀座」がある。こういう名前からしていい雰囲気だ。この辺は知る人ぞ知る有名地のようで外国人も結構いたね。その谷中銀座の右が、谷中霊園である。墓地に行くとなんか心が洗われるよね。
谷中霊園の入り口近くに、教王寺というお寺があって、その門に、明治の前、戊辰の役で官軍が上野寛永寺にたてこもる幕府一派彰義隊(この時、徳川慶喜は謹慎中で戦闘命令はなし)が殲滅されたがその一部が逃げたので、追いかけて鉄砲を撃った弾跡が残っていた。
その先に谷中墓地の本来の持ち主であった天王寺(なんかのいきさつがあって、同寺の墓地を東京市に移管したらしい)には、大仏さまが鎮座されていた。
その下に、沙羅双樹の木があり実をつけていたね。盛者必衰の理のなかに、次の世代が生まれるとは平家物語にも書いていないよね。
ここで フォット俳句 見返れば 青き実をつく 沙羅双樹
沙羅双樹の花でないのが残念
天王寺境内の先に、天王寺の五重塔があったのだが、幸田露伴が近くに住んでいて、この五重の塔を毎日眺めながら名作「五重塔」を書いたとか。しかし、昭和32年、放火で焼失したとか。
燃えてる写真と鎮火後の写真が展示してある。
今は再建の機運もないのか礎石のみ
谷中墓地には徳川慶喜等有名人の墓も多いのだが、それより異色の墓があった。
稀代の悪女 高橋お伝の墓。
亭主を殺害、その後古着屋を殺して金200両を奪って逃走。明治12年、30歳で処刑されたとか。当時の戯曲・マスコミに騒がれたヒロインだ。
谷中墓地を通過して、隣の上野桜木町に浄明院というお寺がある。これは寛永寺の36宿坊の一つであったが、明治9年に当時の住職が地蔵信仰し、1000体の地蔵を集めた。その後これが大きくなり、現在八万四千体の地蔵が祭られていて、さらに増えているようだ。
顔が風化してなくなったお地蔵さん
これがお地蔵さんの御本尊
こうして、谷中の界隈から、寛永寺の根本中堂をとおって、
上野公園に行きまして、ここから例によって、御徒町のB級グルメで腹ごしらえの一日でありました。