江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

板橋区赤塚地区探訪

2016年06月26日 16時50分46秒 | Weblog

今日26日は梅雨の中休み。久しぶりに高島平の赤塚公園へテニスに行きましたよ。

ここは高島平の団地の住人たちがテニス仲間を作って、毎週土日にテニスを楽しんでいる。たまたま友人がここのメンバーであるので、その紹介のビジターとして、時々仲間に入れてもらっている。今日も9時から13時まで。楽しんだ後、吾輩は、以前から考えていた東京大仏などを見物しようとした訳。以前は千住の処刑場跡だったが、今回は板橋である。

地元名刹 松月院にある高島秋帆洋式砲術記念碑。松月院は曹洞宗の寺院で、千葉自胤等の菩提寺でもあるとか。

1841年天保12年5月7日から9日にかけて、現在の高島平、徳丸が原にて初の洋式砲術実験を実施。この場所が現在の赤塚公園のテニスコートから都営高島平駅界隈とか。

水野忠邦の政治改革の一環で洋式軍備へのアプローチであった。高島秋帆は長崎のひと。長崎で様式学問を学んで砲術の権威者となった。吾輩は、3年前長崎に旅行し、長崎の町で高島秋帆の旧家跡を見学したが、今回思わず、われわれがテニスを楽しんでいる赤塚・徳丸が原が、高島秋帆先生の活躍の跡であったとは。

その時の大砲。郷土資料館蔵。

ついで東京大仏へ

天保の大飢饉(江戸時代の享保・天明・天保と三大飢饉があった)で大勢の餓死者が出た。幕府は品川・新宿・千住・板橋の四宿に救助小屋を設け、米や金銭を支給したが餓死する人は跡を絶たずという。当時、板橋宿の仲宿にあった乗蓮寺住職が宿内の餓死者を手厚く葬った碑で、423名の戒名が刻まれている。

この寺は、もと板橋宿のなかにあったのだが、国道17号線、つまり旧中山道を走る国道が、拡張工事のため、現在の赤塚の地に移転したものであるよし。  このお寺には、

北村西望の福寿観音像。長崎の平和記念像の作者だ。

この近くに、 不動の滝 という昔からの有名な滝がある。しかし都市化が進む板橋地域では水が枯れつつある、一筋の水とは悲しいが。

この先に、赤塚城跡がある。いまは柱一本の碑だけだが、過去をしのぶのもいいよね。

室町時代、古河公方足利成氏と関東管領上杉氏との争い、いわゆる関東の応仁の乱ともいえる亨徳の乱に巻き込まれた下総の守護千葉実胤、千葉自胤兄弟は、足利成氏側に攻められ、市川の国府を放棄、上杉方の援助で、赤塚城や石浜城(浅草あたり?)にのがれ、その後、太田道灌等の援助で、和光市・大宮市・足立区内に、武蔵千葉氏として、武蔵に進出する北条氏に従って、勢力をふるったとか。

しかし、室町時代から、戦国時代を経て、豊臣秀吉の北条成敗=戦国時代の終了戦で、北条氏は滅ぼされた。あとは、徳川の領地となったとか。 その赤塚城あと。

 

 

 

 

 

 

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