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(過去ブログを編集して再掲)
大田少将の電文の遺言ともいえる「県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを」は、厚生省に引き継がれ、「沖縄の特殊事情」或いは、「沖縄に特段の配慮を」と形を変えて戦後の沖縄のいろんな場面に登場する。
■「特段の配慮」による「援護法」の民間適用■
大田少将の遺言は、厚生省の本来軍人対象の「援護法」を沖縄住民へ適用するという形で姿をあらわす。
日本政府は「1952年(昭和27年)6月、米軍占領下の沖縄に政府出先機関である南方連絡事務所を設置する。 今でいえば沖縄開発庁の先駆けのようのものである。
そして教職員組合と遺族会の強力な後押しによって、琉球政府でも翌53年4月に援護課を設け、援護法と恩給法に基づく復員処理事務に着手することになる。
54年には琉球政府職員照屋昇雄さんが援護課に異動配属となっている。
慶良間島の「集団自決」に関しても、村役場の総務課が地元の窓口となり,座間味島では総務課長の宮村幸延氏が「援護法」の住民への適用のため奔走を始める。
「援護法」は※サンフランシスコ平和条約発効直後の1952年7月に制定されたが、沖縄には1年遅れて適用が制定された。
※サンフランシスコ平和条約、サンフランシスコ講和条約ともいう。1951年(昭和26年)9月8日に署名され、同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約も署名された。翌年の1952年(昭和27年)4月28日に公布された。(沖縄2紙は4月28日を「屈辱の日」として県民を煽っている)
■「軍命」の持つ意味の変化■
「集団自決」は、1952年(昭和27年)前後から、その持つ意味に変化が起き始める。
「集団自決」が軍命令であるという記述は1950年(昭和25年)に発刊された『鉄の暴風』に見られるが、
それまでの「軍命」は、「援護法」のための口裏あわせというより、
親族や縁者を手にかけた生存者が、遺族の糾弾や贖罪意識を逃れる為、「軍命でやむを得なかった」という言い訳のための「軍命」だった。
つまり心中で生き残った者が、死んだ相手や世間に対して言い訳するための「軍命」であった。
少なくとも、当時の座間味村助役の山城安次郎氏が、「渡嘉敷島の赤松の暴状」を訴えて沖縄タイムス大田記者の取材を受けた昭和25年前後には、
「集団自決」の「軍命」は援護法のためというより、むしろ死者へ対する贖罪意識のために必要だった。
ところが、琉球政府援護課や村役場の担当課が、厚生省援護課と交渉していく過程で「集団自決」の「軍命」は別の意味を持つようになる。
元来「援護法」は「復員処理」の目的があり、対象者は戦地での戦死者か外地からの引揚げ者で、しかも対象は軍人・軍属と限られていた。
そこで琉球政府援護課と村役場が、地上戦が行われ戦場となった沖縄に「特別の配慮」をするようにとの運動を展開する。
だがこれには問題が生じてきた。
たとえば、本土の場合、東京空襲や広島、長崎の原爆で死亡した一般市民の場合は援護法の対象にもならず、沖縄の一般住民に「特別の配慮」をした場合の齟齬が問題になったのだ。
日本政府は「政令」を連発するという非常手段でこれを乗り切った。
政令とは、行政府の命令のひとつで内閣が制定する成文法のことで、行政機関が制定する成文法である命令の中では優劣関係で最も高い位置づけになる。
日本政府は復員事務を処理する必要から、沖縄本島を中心とする南西諸島は政令で「戦地」と認定した。
元々軍人・軍属を対象にした「援護法」を沖縄の民間人に適用させるために政令を連発した。
それでも足りない場合は「援護法」の拡大解釈を行った。
一例を挙げると、地理に不案内な軍に道案内をした場合でも、結果的にその住民が戦死しておれば、「軍命」とされ「準軍属」扱いで遺族は年金の対象になった。
軍の命令というお墨付きが付けば「集団自決」は勿論のこと、他にも「食料供出」や「漁労勤務」という名目でも「準軍属」扱いとなった。
かくして、1983年には軍の命令が理解されるとは思われない0歳児から6歳までの幼児も「準軍属」扱いとされるようになる。
■宮村幸延総務課長の奔走■
座間味島の助役で、事実上「集団自決」を命令したとされる宮里盛秀氏の弟で、戦後村の総務課長として「援護法」の適用に奔走した宮村幸延氏は、この0歳児以下の適用に功績があったとして村で表彰されている。
ちなみに宮村氏は梅澤元隊長に「侘び状」を書いていながら「酔わされて書いた」として前言を翻した人物である。
また、昨年の法廷尋問のわずか一ヶ月前に証言して、宮城晴美氏の考えを変えた宮平春子氏は宮里盛秀、宮村幸延両氏の妹である。
「集団自決」に「軍命があった」ということは「事実の如何」を問わず、戦後の村にとっては、どうしても押し通せねばならぬ真実を超越した、必要欠くべからざる「証言」であった。
宮平春子氏の証言「動画」⇒ 『日本軍の強制による集団自決 はあった!』証言2.3.4
■本土と沖縄の齟齬■
本土の場合、東京空襲や広島、長崎の原爆で死亡した一般市民の場合は援護法の対象にもならなかった。一方、沖縄の一般住民は「特別の配慮」で援護法の対象になった。
静岡県浜松市在住の上原宏日本戦災遺族会理事長は、本土における一般戦災者に補償がない点を、沖縄タイムスの取材に答えて次のように語っている。
[戦闘参加者とは誰か](18) 日本戦災遺族会 一般戦災者に補償なし 被害の規模が実現阻む
太平洋戦争で、日本の各都市が空襲に襲われ、一般被災者約五十万人が犠牲になったとされる。その補償を求めて、一九六六年に「全国戦災死没者遺族会連合会」が結成された。七七年には「日本戦災遺族会」と名称を変更、事務局を東京都千代田区に置き、現在全国二十地域に約二千人の会員がいる。 理事長の上原宏さん(84)=静岡県浜松市=は、浜松市戦災遺族会の会長を務める。 浜松市は、多数の軍需工場や軍施設が集中していたため、米軍の空襲が反復して行われ、約三千五百人もの死者が出た。上原さんは、この空襲で女学校二年生だった妹を自宅の防空壕で亡くしている。「空襲は、非戦闘員を狙った消滅作戦だった」と憤る。 一般被災者の場合、戦時中は「戦時災害保護法」で、住宅焼失は三百五十円、負傷は治療全額補償がなされていた。ところが、戦後、一般被災者への補償はなされていない。日本の戦災補償は、軍人軍属を補償した援護法が軸になってきたからだ。 援護法は、国との雇用関係が前提。しかし、法運用の中で、対象の「軍人軍属」の枠は次第に拡大されてきた。五八年に沖縄戦の「戦闘参加者」、全国でも五九年「学徒動員」、六三年「内地勤務軍属」、六九年「防空監視隊員」など。 そうした流れから、上原さんは「最後に残ったのが一般戦災者だ」と強調する。「現状は、けがの状態から、障害福祉年金などを受けている。しかし、それはけが人としての補償である。戦争による同じ『死』でも、差があるのは納得いかない」 また、上原さんは「私は一般被災者は約八十万人とみている。空襲時の戦死だけでなく、その後に戦病死、戦傷死が続いたからだ」と指摘する。この一般被災者の被害の多さが、補償が実現しない要因でもある。 連合会の前身「全国戦災死没者遺族会連合会」の時代、戦災各都市での慰霊行事への国費支出、弔慰金支給を国会と自民党に要望した。しかし一般被災者への弔慰金支給は実現していない。 連合会が七七年に社団法人化した時に、一般戦災者の戦災実態の調査研究、慰霊行事や慰霊碑の管理などを主に掲げ、補償要求は掲げることはなかった。 届かない補償要求。上原さんらが、力を入れているのは、戦争体験の継承だ。自らも、満州(中国東北部)、フィリピンの従軍、マニラへ向かう途中撃沈され、仲間を失った体験を「語り部」として小学生に話してきた。「遺族は高齢化し、消えていく。私たちの体験を伝えるために、会員それぞれが語り部活動をやっている」 一方で、「浜松空襲で亡くなった妹のことはつらくて話せない」という。遺族が向かい合う悲しみは戦後六十年たっても、何も変わらない。「遺族は本当は、補償をしてほしい。戦後六十年の節目に、扶助と慰霊を同時にしてほしいんです」と訴える。(社会部・謝花直美)(2005年3月26日 沖縄タイムス)
■集団自決の真相解明を拒む援護法の壁
集団自決の真相に迫るには、援護法の適用を受けるため申請書に「虚偽の記入」をしたという点に触れねばならない。
「隊長命令による」という虚偽の記入だ。ところが当時の厚生省、琉球政府の援護課、市町村の援護係そして遺族という四者の共同作業による「秘密」を、イデオロギーに利用しようとする勢力がいた。
沖縄戦関連の裁判は「援護法」を利用して「残虐非道な日本兵」という歴史捏造をする勢力との壮絶な戦いであり、沖縄戦の真実が、裁判という舞台で問われることなる。
沖縄二紙を筆頭の反日左翼勢力は、「援護法」のカラクリを必死になって隠蔽しようとしているが、その一方で政府が「援護法」により歴史の事実を歪曲・捏造したと主張する。
援護法の申請書に「虚偽記入」をする事により「援護金」を受けるという矛盾。沖縄戦史の捏造はこのカラクリにより生み出された悲劇であり、その一番の被害者が「軍命で住民を自決させた極悪人」という汚名を着せられた梅澤、赤松両隊長ということになる。
上原正稔は一昨年1月、琉球新報を提訴したときの記者会見の席で、梅澤、赤松両隊長に沖縄人として謝罪した。
その理由は、「存在しない軍命令」で援護金を受給した沖縄人の複雑な心境を代表したのである。
この援護法のカラクリを一番知る立場にある人々が、この援護法の適応に深く関わり、沖縄住民への適用に血の滲むような努力をされた遺族会の方々である。
筆者は、新聞等を賑わす日本軍告発の証言を傍目に見ながら、これまで固く口を閉ざしてきた遺族会の方々の協力を得る事が出来た。
そして援護法が沖縄戦の歴史捏造にどのように関わってきたかを検証することが出来た。
■親兄弟の殺害も「日本軍の命令」
「集団自決」は戦時中の特殊な状況の下で行われた事件であり、渡嘉敷島集団自決の体験者である金城重明の例のように、たとえ親兄弟を手にかけたり、他人の「自決」に手をかして、本人が生き残ったとしても現在の価値観や法律でこれを裁くことは出来ない。
同じように、実際には存在しない軍の命令を政府指導で捏造し、結果的に「援護金」と言う形の公金を受給したことも現在の価値観や法律で断罪できない。
さらに付言すれば、これらの「虚偽記入」を事実上指導・誘導した当時の厚生省、そして現在の厚労省が、先輩官僚の行った「過誤」を認めるはずはない。
当然、当時の厚生省が手引書により指導した「(捏造された)軍の命令書付き申請書」(援護法の「裏手引書」)の存在を認めるはずはない。実際に厚労省に「(捏造された)軍の命令書付き申請書」の閲覧を問い合わせた研究者がいたが、「不存在」を理由に拒否されてという。
■「軍人恩給法」の廃止
1946年、戦前からの「軍人恩給法」がGHQの覚書により廃止される。 そしてサンフランシスコ講和条約が成立した1951年、「戦傷者病者戦没者遺家族等援護法」(援護法)が成立する。 これは講和条約締結が見込まれていたため、講和発効と同時に、援護法の施行を考えたからだ。
■4・28は「屈辱の日」?
今年の4月、政府が講和条約発効の日を記念する式典を挙行すると発表するや、沖縄メディアが一斉に反発し、「4・28屈辱の日」と叫んで講和条約を批判したり、昭和天皇が「国体護持のため沖縄を米国に売り渡した」などと喧伝し、同時に「天皇メッセージ」を批判する識者の主張が紙面に躍った。
沖縄紙が「屈辱の日」として批判する講和条約発効の1952年は、実は沖縄中が祖国復帰の気運が近づいた喜びで沸きあがった年であった。
講和発効の1952年6月、政府は総理府内に南方連絡事務所が設置し、同時に沖縄には那覇日本政府南方連絡事務所(南連)が設置された。
■潜在主権
「天皇メッセージ」により日本の主権が残ったまま米国の統治下にあった沖縄。(潜在主権)
日本の主権の及ぶ沖縄に「援護法」を適用させるのは当然と考え、厚生省と南連職員が、共同で米国民政府(米軍政府)と「援護法」適用の交渉を開始する。
つまり当時の沖縄に日本の主権が及んでいたからこそ援護法の沖縄住民への適用交渉が講和発効と前後していち早く援護法関連の業務が開始されたのだ。
講和発効で日本が独立国となり沖縄の祖国復帰が間近だとの機運があった1953年から、当時の琉球遺族連合会の日本政府に対する援護法適用の折衝も活発になる。
米軍統治下の沖縄の経済に大きく貢献したのは「米軍用地代」と「援護法受給」だといわれている。
軍用地については、新聞などで絶えず取り上げられるので、その是非はともかく、軍用地代金が沖縄経済に貢献したことは誰もが認めることである。
だがもう一つの援護法受給金については、プライバシーの要素などが絡み、マスコミの話題になることもなくその実態は当事者だけの内密の問題とされていた。
戦後、子どもを抱え親戚の厄介者扱いされていた未亡人が、突然莫大な援護法の支給を受け、親戚が群がってきたという話も仄聞するが、受給者の大多数は受給を内密にしており、表立って受給を語る人は少なく兄弟でさえ秘密にしている人もいるくらいだ。
渡嘉敷島の集団自決の生き残りで、親兄弟5人の家族を手にかけたことを「軍の命令」だと証言し、大江・岩波集団自決訴訟では被告側証人として証言台に立った金城重明氏は、星雅彦氏のインタビューに答えて自身が援護法を受給したことを否定している。
金城重明氏は兄重栄氏と2人で5人の家族を含む、複数の村人を殺害したと証言している。 援護法の受給手続きさえすれば、金城兄弟は「軍の命令により」親兄弟を殺害したのであるから、少なくとも親兄弟5人分の遺族として莫大な額の援護金を受給しているはずだが、金城重明氏しはこれを否定しているのだ。
重明氏は青山学院大で神学を学びその後沖縄キリスト教短大の設立にもかかわり、後には教授から学長まで務めているが、その当時の一連学費はキリスト教教会の援助によるものであり、援護金の給付によるものではないという。星雅彦氏によると、当時のキリスト教会は重明氏の神学の援助をするほど資金的余裕がなかったとのこと。 重明氏は、戦後座間味村に留まって旅館を経営した兄重栄氏(故人)の方に援護金が行っている可能性は否定しなかったという。
通常、お役所に何らかの給付金を申請するとき、お役所側は重箱の隅を突っつくように、申請書のミスを指摘し、できるだけ給付金を与えないようにする。 少なくとも表面上はそう見える。 お役所仕事といわれる所以である。
ところが沖縄戦に関わる「援護法」の給付金申請の場合、役所の対応は豹変する。 それも申請者が沖縄県民に限ってだが、多少の記入ミスには目をつぶってでも何とか給付しようという態度に変わってしまうのだ。
つまり当時の厚生省は、本来軍人に給付すべき「援護法」を、沖縄戦と沖縄県民に限り拡大解釈し、軍に協力したという虚構を黙認し、何とかして給付させたいという善意が働いた。 かくして書類の不備を指摘するどころか、今考えればお役所が「偽造申請」に加担したような場面も散見された。当時の厚生省は裏付け調査を省いて、書式さえ整っていたら全てを給付の対象にしたのだ。
■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■
厚生省の沖縄県民に対する奇怪な対応はこれだけではない。
申請書の記入に「軍命」を臭わすように村役場を指導したのもその一つだが、厚生省側は沖縄出身者を他の部署から援護課担当者に強引に移動させ、同じ沖縄人なら対応しやすいだろうという配慮を示していた。
沖縄集団自決に絡む援護金給付が「政府主導の公金横領」といわれる所以である。
当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。
沖縄県出身の祝嶺和子さんは、一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。
祝嶺さんは戦後、元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省したが、沖縄出身ということで「沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい」と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた。 祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ。
祝嶺さんは「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」 と証言する。 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。
集団自決における「軍命」は援護金支給のための方便であり、それを指導した援護課の拡大解釈による強引な援護金支給は、政府主導の公金横領といわれても仕方がない。 だが、結局一連の政府の指導は「集団自決に軍命はなかった」という証明に他ならない。
■厚生省を動かしたもの
ここで一つの大きな疑問が沸き起こる。
なぜ援護法の沖縄への適用が大甘になったのか
当時の厚生省を突き動かして、拡大解釈までさせて県民に援護法適用をさせたものは一体誰だったのか。 これは厚生省独自の判断とは考えられず、だからといって当時の政府高官の判断だとも考えにくい。
「援護法」を「裏手引書」まで作成し、沖縄住民にだけ大甘な適用をした理由は、「県民に対し後世特別のご高配を」と結んだ大田実少将の電文を知る世論の同情もあってのことと考えられる。
勿論「援護法」の成立・適用に関わった多くの官民関係者の努力を見落とすわけには行かない。厚生省の担当官・比嘉新英や琉球政府社会局長として援護業務に携わった山川泰邦、そして座間味村役場の援護係・宮村幸延らが「お役所仕事」の枠を乗り越えて努力したことや、遺族会幹部の方々の努力も見逃すことは出来ない。 同時に「沖縄病」に取り付かれた茅誠司東大総長ら当時の知識人たちの沖縄への同情心も彼らの行動を後押しした。
だが、これだけの理由で、当時の厚生省が独自に沖縄住民に対して大甘な対応をしたとは考えにくい。
■「潜在主権」と「天皇メッセージ」
大田海軍中将の電文や関係者の努力だけで法治に厳しい日本の官僚機構である厚生省が、違法とも取れる拡大解釈までして沖縄住民に援護法の適用をした理由は解明できない。
何か官民関係者や政治を超越した大きな力が厚生省に沖縄への善意を吹き込んだとしか考えられない。
ここで忘れてはならないのが沖縄の「潜在主権」にこだわった「天皇メッセージ」の存在である。
もとより1979年にその存在が公表された「天皇メッセージ」を、1950年当時の関係者が知るはずもなかった。 ただ昭和天皇が大田少将の電文を読んだ可能性は充分考えられる。理由は昭和天皇が20歳の皇太子時代、ヨーロッパ旅行時の船旅の第一歩を印されたのが沖縄であり、その沖縄が米軍の銃弾に蹂躙されたことを大田少将の電文で知り心を痛めたことも想像に難くないからだ。
人間誰しも多感な青春時代に訪れた土地の想い出が深く心に刻まれるもの。ましてや長いヨーロッパ旅行の船旅のお召し艦の艦長が沖縄出身の漢那憲輪和少将とあれば、皇太子時代の昭和天皇が沖縄のことを特に身近な土地と考えてもおかしくはない。
裕仁親王は沖縄訪問を大変喜ばれ、外遊の日を記念して、毎年三月三日、艦長の漢那少将を始め関係者を宮中に招いて午餐会を催したという。
お召し艦「香取」が宮古列島沖を航行中、艦の甲板上に飛び魚が躍り込んできた。それから46年後の67(昭和42)年、宮中新年歌会始で、昭和天皇は皇太子時代沖縄で見た飛び魚を回想し和歌を詠まれた。
「わが船にとびあがりこし飛魚をさきはひとしき海を航きつつ」(「さきはひ」は幸いの意味)
昭和天皇は青春時代に訪問された沖縄のことをしっかり心に刻んでおられ46年も時の経過を乗り越え青春時代の想い出を和歌に詠まれたのだ。御製碑は宮古神社に建立されている。
皇太子(裕仁親王)の沖縄訪問時、特筆すべきエピソードがある。最近の沖縄ブームで、沖縄ソバやゴーヤーチャンプルーが全国区になったが、それでも「エラブ海蛇」を食する人は極めて少ないが、裕仁親王は沖縄県民でさえ好き嫌いの激しい沖縄特産の「エラブ海蛇」に興味を示され、漢那艦長に食べてみたいと所望された。 艦長は急遽、「エラブ海蛇」を取り寄せて食卓に供した。裕仁親王は「たいへんおいしかった」と漢那艦長に告げている。
ここまで縷々と青春時代の昭和天皇と沖縄の関係について書いたのは、終戦直後の1947年の時点で、昭和天皇が当時既に米軍統治下にあった沖縄の将来について思いを馳せていた事実を明らかにしたいからだ。
米軍は沖縄を「信託統治」により、将来は米国の自治領にしようと目論んでいた。 昭和天皇は米国に対し「天皇メッセージ」と言う形で、(1)沖縄住民の主権の確保、(2)沖縄の分離ではなく期限付き租借、(3)本土と同じ教育制度の継続(文部省教科書の使用)、(4)本土と沖縄の経済関係の維持(援護法の優先的適用など)、を米国側に認めさせた。これは紛れもない歴史の事実だ。
そもそも「天皇メッセージ」とは、1979年、進藤栄一・筑波大学助教授(当時)が米国の公文書館から「マッカーサー元帥のための覚書」を発掘し、雑誌『世界』で発表したもの。 同覚書には、宮内府御用掛かり寺崎英成がGHQ政府顧問ウイリアム・シーボルトを訪れ、天皇からのメッセージを伝えたと記されている。これがいわゆる「天皇メッセージ」とされるもので、概略こう述べられている。「天皇の顧問、寺崎英成氏が、沖縄の将来に関する考えを私に伝える目的で、時日をあらかじめ約束したうえで訪ねてきた。 寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると、言明した。(略)さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の諸島)に対する米国の軍事占領は、日本が主権を残したままの長期租借ー25年ないし50年、あるいはそれ以上ーの擬制(フィクション)にもとづいてなされるべきだと考えている」
沖縄に流布する大きな誤解の一つだが、沖縄保守系の論客の中にも「天皇メッセージ」とは天皇自ら「沖縄を延命のためアメリカに売り渡す」と書いた文書が米公文書館から発見された、と誤解する人が多い。 だが、実際は「天皇の密書」が存在するわけではない。寺崎が昭和天皇の会話の中から沖縄についての陛下の「思い」を斟酌してシーボルトに伝え、それがシーボルトの手紙という形でワシントンに伝えられたのだ。
「天皇メッセージ」の重要ポイントである「潜在主権」、つまり日本の主権を残したまま米国に統治を委任することを、親子の場合に例えると、このようにたとえることができる。
破産状態で子(沖縄)を育てる経済力のない親(日本)が金持ち(米国)に、戸籍はそのまま残して一時里子に出したようなものであり、戸籍を移籍する養子縁組(米国領にすること)とは根本的に異なる。
当時戦勝国のリーダーであり世界一の経済力を誇る米国の統治下にあった沖縄では、食糧不足で喘ぐ祖国日本では食すること出来ない米国産の豊富な食料供給の恩恵に浴した。 その名残の一つがランチョンミート文化であり、戦前の沖縄にはなかったビーフステーキやハンバーガーなど現在も続く牛肉文化の繁栄である。
■「日本国への帰国を証明する」・・・パスポートに押されたゴムスタンプ
米軍統治下の沖縄で1952年の講和発効の日を経験した者は、「潜在主権」という言葉を一度は耳にした経験があるだろう。だがその意味を身を以って体験した者は少ない。 沖縄出身の筆者がまだ10代の頃体験したエピソードを披露する。
少年(筆者)が進学のため沖縄を後にし祖国日本の「出入国・通関」に足を踏み入れたときのことだ。携行していた「パスポート(日本旅行証明書)」を通関に差し出したとき、審査官は学生服姿の筆者を見て微笑みながら声をかけてくれた。
「進学のため?」
「はい、そうです」
審査官は高校の制服制帽姿の少年に終始優しく対応した。審査官はパスポートにゴムスタンプを押し、署名しながらこう言った。
「しっかり勉強しなさいよ」
「はい」
口下手な少年は審査官の優しい対応と励ましの声に、心の中で「ありがとう」とつぶやいたが、それを口に出して言うことができなかった。後で、パスポートに押されたスタンプを見て、感動がこみ上げてきた。
「そうだったのだ」。 「これが潜在主権の意味だったのだ」。
スタンプには「日本国への帰国を証明する」と記され審査官の署名がされていた。
「日本国への入国」ではなく「帰国」という文字に感動したのだ。 まだ復帰していない祖国は「帰国を証明する」という形で少年を迎えてくれたのだ。
それまでの認識では米国の統治下にあるので、沖縄人は日本国民ではないという疑念さえ持っていた。
その一方、学校では「沖縄の潜在主権は日本にある」と聞かされていた。
そのせいなのか、沖縄で戦後教育を受けた少年は、小学、中学、高校と文部省教科書で教育を受けていたが、そのことには何の矛盾も感じていなかった。
少年は、「潜在主権」の意味がよく理解できないまま祖国日本に上陸し、通関手続きで「日本国への帰国を証明する」という審査官の署名つきスタンプを見て初めて「潜在主権」の意味を身を以って実感したのであった。
少年の父が常々「天皇陛下とは同じ歳だ」との自慢話を聞かされていた少年は、祖国日本が「潜在主権」の証として「帰国を証明する」というスタンプで迎えてくれたことを、昭和天皇と父の姿をダブらせ、懐かしい故郷へ里帰りしたような感慨に耽った。
だが、その「潜在主権」という文言が、昭和天皇の「天皇親政」で生まれた「天皇メッセージ」の成果であることを、少年はその時知る由もなかった。半世紀以上前の日本の税関での記憶である。