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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

新(6)貶められた旧日本兵、座間味村の援護宮村幸延が 詫び状/梅澤氏に「詫び状」で謝罪

2021-06-25 10:38:46 | ★改定版集団自決

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■世界日報 2013年7月14日掲載

【連載】貶められた旧日本兵-「援護法」に隠された沖縄戦の真実 (6)

座間味村援護係が「詫び状」/「隊長命令」申請を謝罪

 沖縄戦における座間味村の民間人の犠牲者は358人で、そのうち少なくとも3百人が集団自決したとされている。


 座間味村の遺族会長であり,当時の援護係として「座間味戦記」を取りまとめた宮村幸延(戦後、宮里より改姓)という人物がいる。座間味島の守備隊長を務めた梅澤裕氏らが作家の大江健三郎氏と岩波裁判を相手取った「大江・岩波集団自決訴訟」では被告側に立って証言した人物だ。


 終戦を福岡で迎えた幸延氏は、故郷の座間味村に帰ると、長男の盛秀を含む男兄弟4人のうち3人が戦死したことを知る。しかも、助役を務め兵事主任を兼任していた盛秀は集団自決を先導した張本人と噂されていた宮城晴美著「母の遺したもの」(高文研)によると、宮里助役は梅澤隊長に自決用の爆薬を求めた村の有力者の一人。村役場に常備されていた銃と銃弾帯を常に携帯し、16歳以上の若者で組織された民間防衛隊の隊長を務め、軍人より軍人らしい民間人といわれていたという。


 座間味村役所の援護係となった幸延氏は、補償申請の書類を遺族に代わって書き、厚生省援護局へ郵送した。ところが、書類が全部送り返されてきた。
 

業を煮やした幸延氏は、厚生省との直談判のため何度も上京をした。その結果、0歳児を含め6歳未満も、昭和38年以降、準軍属として確定する。こうした努力について、座間味村役所は昭和41年功労者としてとして表彰している。
 

昭和56年、幸延氏は座間味村の慰霊祭の日、梅澤氏と鉢合わせた。援護金申請書に「隊長命令による自決」と記入し、多額の給付金受給の手続きをした張本人が、梅澤隊長の姿を見て動揺したことは想像に難くない


 その当時、梅澤氏は、マスコミにより「慶良間島で住民に自決命令を出した残虐非道の隊長」との汚名を着せられ、家族崩壊の危機にあったと伝えられている。「せめて家族にだけも汚名を晴らしたい」と考えた梅澤氏は、援護法の真実を記した「詫び状」を幸延氏に要求した。梅沢氏の許可なく「隊長命令による」 と書いた贖罪意識にさいなまされた幸延は、言われた通り自筆押印の「詫び状」を昭和62年3月28日付で書いて梅澤氏に手渡した。


 この「詫び状」が後になって「大江・岩波集団自決訴訟」の原告側の証拠資料として提出された。


 通常、民事裁判で争われる事例では、契約の「有効」か「無効」かを争う場合が多い。本人が自筆押印した書類があれば、絶対的な証拠となる。
 「詫び状」が援護金の受給申請業務に影響を与えることを恐れた幸延氏は、当初「梅澤氏が勝手に書いた偽物」などと強弁したが、筆跡鑑定で本人の自筆と鑑定された。


 しかし、大阪地裁は平成20年(2008年)、「梅澤氏に無理やり泥酔させられて書いたため記憶がない」という幸延氏の弁解を受け入れて「詫び状」の有効性を否定した。裁判官がこのような判断を下した理由の一つは、ノーベル賞受賞を最高のブランドとする日本の裁判官の「ノーベル賞作家への配慮」にあると現代史家の秦郁彦氏は指摘している。


詫び状



■宮村が「侘び状」を書いた理由■

元座間味村遺族会会長宮村幸延氏は、座間味島の自分が経営するペンションに訪ねてきた梅澤元戦隊長に「軍命を出した」と濡れ衣を着せたことを謝罪し、自筆捺印の「詫び状」を梅澤氏に書いた。

座間味村役所の援護担当の宮村氏は、『鉄の暴風』に死亡したと記述されていることを良いことに、梅澤氏の署名捺印を偽造して厚生省に「命令書付き申請書」を提出していた。

そして、宮村氏は、死んだはずの梅澤さんが目前に現れ生きていると知って驚天動地の心境に陥った。

何しろ、梅澤氏の署名捺印を偽造していたのだから、「公金横領」、少なくとも公文書偽造の個人責任はまぬかれない。

梅澤氏に対する「侘び状」は、そんな宮村氏の個人的な後ろめたさも加わって書いたのだろう。

ところが、宮村氏はその後突然、「梅沢氏に無理やり泥酔させられて書いた」として前言を翻す。

その態度豹変の裏には沖縄タイムスの強力な圧力があった。

■「侘び状」による沖縄タイムスの衝撃■

それには、その後の梅沢さんの行動から、宮村氏の心の動きは容易に推定できる。

その時点(1987年)で、沖縄タイムは『鉄の暴風』の「梅澤死亡」の誤記を、口止め料を富村順一氏に払った上、人知れず削除している(1980年版から削除)。

ところが、梅澤さんが沖縄タイムスを訪問し、「侮辱的誤記」に関し謝罪を求めたため、事態は思わぬ方向へ進展していく。

梅澤さんは昭和63年(1988年)11月1日、沖縄タイムスで対応した新川明氏に「誤記」の謝罪を求め、宮村幸延氏の「侘び状」を見せる。

「軍命派」の総本山の沖縄タイムスは、梅澤さんの「誤記」に対する謝罪要求に動揺はした。

だがが、謝罪はともかく、軍命を否定した「侘び状」をそのまま是として受け入れるわけにはいかなかった。

沖縄タイムスがこれまでまき散らした「軍命による集団自決」というタイムス史観が根底から覆るからだ。

詫び状は沖縄タイムス史観の瓦解

沖縄タイムスは次のように考えた。

富村氏の恐喝による口止め料支払いは、万が一露見してもあくまで「誤記」という些細な問題である。 

だが梅澤氏の示した「詫び状」を沖縄タイムスが認めて、梅澤氏に謝罪文を書いたとしたら、戦後40年近く主張してきた『鉄の暴風』の歴史観が完全に覆ってしまう。

そうなれば沖縄タイムスの屋台骨を揺るがしかねない重大事件になる。

そこで、タイムスは時間稼ぎのため次回の面談を約束し、座間味村当局に「侘び状」の件と村当局の「軍命の有無」についての公式見解を問いただす。

驚いたのは座間味村当局。 

宮村幸延氏の「侘び状」をそのまま認めたら、村ぐるみで「公文書偽造」をして「公金横領」したことを公的に認めたことになる。

そこで苦渋の結果考え出した結果はこうだった。

最初は「侘び状は偽物」と主張したが、本人の筆跡だと分かると急遽「泥酔させられて書いた。記憶がない」という苦し紛れの弁解を考え付く。

沖縄タイムスの問い合わせが同年の11月3日なのに、座間味村の回答が半月も遅れた理由は「侘び状」の言い訳を考えるため、宮村氏と座間味村長宮里正太郎氏が四苦八苦したことが推測できる。

結局、同月18日付けの宮里村長の回答は「村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている」と主張、沖縄タイムス史観を踏襲したので、沖縄タイムスの新川明氏を安堵させることになる。

約10年前、富村順一氏に梅澤死亡の記事で恐喝された沖縄タイムスにとって、宮村氏の「侘び状」を座間味村当局が認めてしまったら、『鉄の暴風』の最重要テーマの「軍命説」が一気に崩壊してしまう絶体絶命の危機であった。

そこで、「公金横領」や「公文書偽造」で村の弱みを握る沖縄タイムスが座間味村当局に強い圧力を加えた。

沖縄タイムスは社運をかけて宮村氏自筆の「侘び状」を無効化させるため、座間味村と宮村氏個人に圧力を加え、最終的には運命共同体として共同戦線を張ったのだ。

「泥酔して書かされた侘び状は無効だ」という口実で。

■梅澤さんの心境

「集団自決を命じた男」として濡れ衣を着せられていた梅澤さんは、次の二つの理由で「汚名返上」と心の余裕があり、「梅澤軍命説」の元凶沖縄タイムスに対しても寛大であった。

①梅澤さんは、その頃既に宮城初枝氏の「梅澤さんは命令していない」という証言を得ている。

②宮村氏の「侘び状」まで得た。

梅澤さんの寛大な心境は、座間味村や宮村氏を苦しい立場に追い込むことは避けたい様子が、タイムス訪問時の次の発言から垣間見ることが出来る。(梅澤さんの生前、実際本人に確認済)

座間味の見解を撤回させられたら、それについてですね、タイムスのほうもまた検討するとおっしゃるが、わたしはそんなことはしません。あの人たちが、今、非常に心配だと思うが、村長さん、宮村幸延さん、立派な人ですよ。それから宮城初枝さん、私を救出してくれたわけですよ、結局ね。ですから、もう私は、この問題に関して一切やめます。もうタイムスとの間に、何のわだかまりも作りたくない。以上です。」(梅澤氏の沖縄タイムスでの発言)

その時、梅澤氏は後年宮城初枝氏の実の娘晴美氏が母の遺言を否定したり、「侘び状」を書いた宮村氏が前言を翻すなどとは夢想もしていない。

したがって、このような余裕の発言をして、村当局や宮村氏を窮地に追い込むくらいなら、沖縄タイムスとの謝罪交渉を打ち切っても良いといったニュアンスの発言をしている。

事実その後交渉は打ち切られている。

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■

当時の厚生省は、校長など地域のリーダーがほとんど無条件に署名した現認証明書をそのまま受け付けるという極めて大雑把な審査をしていた。

政府側は今から考えると違法性を問われかねない措置をしていたが、何とか沖縄側の申請に対応しやすいように、東京側の厚生省担当者にわざわざ沖縄出身者を配属して、出来るだけ援護法の適用の拡大を計った。

その当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。

< 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。

 一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

 沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。

 大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。

 多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。

 沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。

 前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ

 「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」

 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。

 沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。

 「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」

 沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美) >

                    ◇

「集団自決」は戦時中の特殊な状況の下で行われた事件であり、金城重明氏の例のように、たとえ他人の「自決」に手をかして、本人が生き残ったとしても現在の価値観や法律でこれを裁くことは出来ない。

同じように、実際には存在しない軍の命令を政府指導で捏造し、「援護金」と言う形の公金を横領したことも現在の価値観や法律で断罪できない。

しかも、これらの「犯罪」を事実上指導・誘導した当時の厚生省、そして現在の厚労省が先輩の行った「過誤」を認めるはずはない。

勿論「捏造命令書付き申請書」の存在を認めるはずはない。

したがって厚生省に代わって当日記が厚生省の「捏造命令書付き申請書」の存在を暴いているのが当シリーズ「貶められた旧日本兵」である。

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新(5)貶められた旧日本兵、一人196万円の援護金で家を建てた

2021-06-24 12:41:13 | ★改定版集団自決

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連載】貶められた旧日本兵-「援護法」に隠された沖縄戦の真実 (5)

0歳児にも援護法を適応/援護金で「家を建てた」

 遺族連合会による座談会では、援護金が原因で家族不和があったことも赤裸々に話されている。


 <Z 援護法制定は昭和二十七年ですが、沖縄の方々が受給できたのは昭和三十二から三十三年、数年遅れでした。数年分のお金がまとまって入ったら、親戚から厄介者にされていた未亡人が一転して親戚から大事にされるようになったとか、家を建てたとか、お墓を建てたという話も聞きました。といっても当時の遺族の生活は本当に大変で、ともかく遺族会の業務は遺族を陰に日なたに助けることでした。
 さらに、架空の書類を作成することで0歳であっても戦闘協力者とみなされ、援護法の対象となった経緯にも触れている。


 <U 「六歳未満戦没者の戦闘協力扱い」は遺族会運動の一つである「国家補償」の中から芽生えて実現しました。地上戦があって県民戦没者が多い沖縄の遺族会の取り組みは、皆さんから詳しく聞いて記録に残して置くべきですね。
 

Z 補足しますと、「戦闘協力者」の申し立ては昭和三十二年七月から適用を受けて、申立書を作成提出するときに、壕の提供や食糧提供など二十項目を挙げました。当初は七歳以上しか処遇しない、「小学校一年生なら自分の意思で戦闘に協力する。それ以下は自分の意思ではない」というのが理由でした。小学校一年生までを「戦闘協力者」と処理する一方で、戦争犠牲者の処遇問題について「戦争犠牲者の処遇をやってくれ」と遺族会で大会をうっていました。
 

沖縄県社会福祉協会の大会でも取り上げてもらい、十年余り運動を展開して、昭和五十六年八月に六歳未満の処遇が認められました。長い運動の成果です。>
 

Z氏の発言は、「沖縄戦の戦闘参加者処理要項」とそれの記載マニュアルである「戦闘参加者概況表」の内容を裏付けするものとなっている。座談会はまた、沖縄側のしたたかな策略についても語っている。
 

<Z 係の者が厚生省資料を「保管する」という名目でお二人に置いて帰ってもらい、夜、援護課職員が必死で資料を書き写すのに我々も加勢し(笑)、写したものをガリ版刷にして各市町村へ送り、それをもとに書類を作らせて死没処理はうまくいきました。>


 <M 当時はコピー機もなく必要な書類は一切書き写し、書き写したら謄写版で印刷、大変な作業でしたね。青年部の人たちと書類を写しに関係官庁に行って「妻特給の名簿」などを全部書き写しましたよ。
 申請書も、戦闘と関係がある書き方ならいいのですが「防空壕から自分たちで逃げた」という書き方だとその一行で返される。一人ひとり遺族をよんで教える時間はないし、説明会をして、各自で手書きをしてもらいましたが、代書してもらう人もいました。一寸でも違うとすぐ返されるので、代書の方も気を使ったと思います。 >


 援護法を沖縄に適用拡大させるため、沖縄戦の真実がいかに書き換えられたかが如実に分かる部分である

写真 
女子学徒のほとんどが犠牲になったひめゆり学徒隊を顕彰するひめゆりの塔(糸満市)

ひめゆり平和祈念資料館には、戦死した学徒の写真が展示されている(糸満市)

                    ☆

>「防空壕から自分たちで逃げた」という書き方だとその一行で返される。一人ひとり遺族をよんで教える時間はないし、説明会をして、各自で手書きをしてもらいましたが、代書してもらう人もいました。

官民一体となって援護法の民間適用を努力する様子がうかがえる。

結局、援護金を支給するためには「防空壕から自分たちで逃げた」と書くより「軍に防空壕を追い出された」と書く方ががベターであり、「軍に防空壕で射殺された」あるいは「集団自決の犠牲になった」と書けばベスト、つまり確実に援護金が支給される、ということだ。


■沖縄経済を支えた援護金

米軍統治下の沖縄の経済に大きく貢献したのは「米軍用地代」と「援護法受給」といわれている。

軍用地については、新聞などで絶えず取り上げられるので、その是非はともかく、軍用地代金が沖縄経済に貢献したことは誰もが認めることである。

 だがもう一つの援護法受給金については、プライバシーの要素などが絡み、マスコミの話題になることもなく、その実態は当事者だけの内密の問題とされていた。

 戦後、子どもを抱え親戚の厄介者扱いされていた未亡人が、突然莫大な援護法の支給を受け、親戚が群がってきたという話も仄聞する。

だが、受給者の大多数は受給を内密にしており、表立って受給を語る人は少なく兄弟でさえ秘密にしている人もいるくらいだ。

渡嘉敷島の集団自決の生き残りで、親兄弟5人の家族を手にかけたことを「軍の命令」だと証言し、大江・岩波集団自決訴訟では被告側証人として証言台に立った金城重明氏は、星雅彦氏のインタビューに答えて自身が援護法を受給したことを否定している。

 金城重明氏は兄重栄氏と2人で5人の家族を含む、複数の村人を殺害したと証言している。

 援護法の受給手続きさえすれば、金城兄弟は「軍の命令により」親兄弟を殺害したのであるから、少なくとも親兄弟5人分の遺族として莫大な額の援護金を受給しているはずだが、金城重明氏はこれを否定しているのだ。

 重明氏は青山学院大で神学を学びその後沖縄キリスト教短大の設立にもかかわった。後には教授から学長まで務めているが、その当時の一連の学費はキリスト教教会の援助によるものであり、援護金の給付によるものではないという。
重明氏に取材した星雅彦氏によると、当時のキリスト教会は重明氏の大学進学の援助をするほど資金的余裕がなかったとのこと。

 ただ重明氏は、戦後座間味村に留まってペンション経営をした兄重栄氏(故人)の方に援護金が行っている可能性は否定しなかったという。

■沖縄経済を支えた軍用地料と援護金

石原昌家沖国大教授は、ジャーナリスト佐野真一氏の取材に答え戦後沖縄経済を支えた「軍用地料と援護金」について、次のように答えている。

ー「援護法」で最も重要なポイントは、その適用者が”戦闘参加者”として靖国に合祀されるという”栄誉”だけでなく、遺族年金という実質的な”利益”も得ていることです。沖縄戦で”英霊”になった人の遺族はいくらぐらいもらっているんですか。四万円ぐらいですか?

「いえいえ、これがすごいんです。年度によって違いますが、ここ何十年前からは、年間一律でおよそ196万円」

ー 一人頭ですか?

「ええ、だから慶良間(諸島)で家族のうち四人が集団自決した場合は、196万円かける四人で、800万円近くになります」

ー 一人頭ですか?

「ええ、だから慶良間(諸島)で家族のうち四人が集団自決した場合は、196万円かける四人で、800万円近くになります」

ーそれはバカになりません。

だから僕は、産業らしい産業がない沖縄で大きな収入になったのは軍用地料と遺族年金だと言ってきたんです」

ーつまり金でがんじがらめにされている。これじゃ靖国合祀を取り消せという声が大きくならないわけです。石原さんは旧厚生省の役人は物凄く頭がいいと思った理由が、やっとわかりました。(佐野眞一著『僕の島は戦場だった』39頁~40頁)

 

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続・安里巡査の証言、赤松隊長と食料を分け合う、

2021-06-24 09:56:00 | ★改定版集団自決

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赤松隊長と食料を分け合う、続・安里巡査の証言、

2011-02-05

安里巡査の証言の後半部分。

安里喜順氏は戦後比嘉家の養子となり比嘉喜順と改姓した。

本島から渡嘉敷島に赴任したばかりの若いおまわりさんが、島を取り囲んだ米軍の「鉄の暴風」に遭遇し、住民を避難させるため悪戦苦闘する様が描かれ、集団自決の核心に触れる部分です。 

安里氏は渡嘉敷島の「集団自決」当時、島に駐在した警察官だが、「鉄の暴風」の著者は何故か安里氏には取材をしていない。

 

渡嘉敷島の駐在であった安里巡査は、集団自決の現場を目撃した生き残り証人として最重要証人であり、曽野綾子氏の『集団自決の真相』には登場する。

だが、地元マスコミにその名を見ることはなかった。

改めて安里氏の証言を読むと、『集団自決の真相』やその他の文献で断片的に得た知識が一つの線となって繋がってくる。

下記に『集団自決の真相』に登場する安里喜順氏の関連部分を抜書きしておく。

渡嘉敷島「集団自決」の真相を解く鍵は安里喜順氏の証言の中にある。

曽野さんが、当時の渡嘉敷村村長だった古波蔵惟好氏に取材した時の様子を次のように記している。(『集団自決の真相』より抜粋)

安里(巡査)さんは」と古波蔵氏は言う。

「あの人は家族もいないものですからね、軍につけば飯が食える。まあ、警察官だから当然国家に尽したい気持もあったでしょうけど。軍と民との連絡は、すべて安里さんですよ」

「安里さんを通す以外の形で、軍が直接命令するということほないんですか」

「ありません」

「じゃ、全部安里さんがなさるんですね」

「そうです」

「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」

「私へ来るんです」

「安里さんはずっと陣地内にいらしたんですか」

「はい、ずっとです」

「じゃ、安里さんが一番よくご存じなんですか」

「はい。ですから、あの人は口を閉して何も言わないですね。戦後、糸満で一度会いましたけどね」

古波蔵村長が軍から直接命令を受けることはない、と言い、あらゆる命令は安里氏を通じて受け取ることになっていた、と言明する以上、私は当然、元駐在巡査の安里喜順氏を訪ねねばならなかった。赤松隊から、問題の自決命令が出されたかどうかを、最もはっきりと知っているのは安里喜順氏だということになるからである。

曽野氏は、『鉄の暴風』(昭和25年初版)の著者が安里氏に一度の取材もなく記事を書いた様子を次のように書いている。

おもしろいことに、赤松大尉の副官であった知念朝睦氏の場合と同じように、安塁喜順氏に対しても、地元のジャーナリズムは、昭和四十五年三月以前に訪ねていないことがわかったのである。問題の鍵を握る安里氏を最初に訪ねて、赤松隊が命令を出したか出さないかについて初歩的なことを訊き質したのは、例の週刊朝日の中西記者が最初であった、と安里氏は言明したのである。

一方、地元マスコミだけでなく、本土新聞でも取り上げる証言者に安里氏の名前は出てこない。

小さな島の唯1人の警察官で、不幸にも「集団自決」に遭遇した最重要証人である安里氏を主題する地元マスコミは一社もない。

安里氏の証言は地元マスコミでは無視されている照屋昇雄さんや金城武徳さんの証言とはほぼ完全に一致している。

地元マスコミが避ける証言者の言葉に、

真実がある。

沖縄県警察史 平成5年3月28日 (1993.3.28)発行
第2巻第3章 警察職員の沖縄戦体験記より抜粋 

比嘉 喜順(旧姓・安里、当時 那覇署渡嘉敷駐在所)

安里喜順氏の証言-2

赤松隊長に面会
 艦砲が激しくなって渡嘉敷の山は焼けてシイジャー(しいの木)だけが残っていた。
 阿嘉島にも水上特攻隊が駐屯していた。
 その頃渡嘉敷島には招集された防衛隊員がいたが、小さい島なので招集されても家族のことが心配になり、自宅に帰って家族の面倒を見ながらやっていた。
 防衛隊員は軍と一緒に仕事していたので情報はよく知っていた。その防衛隊員の人たちが敵は阿波連に上陸して次は渡嘉敷島に上陸して来ると言うので、私は慌ててしまった。
 赴任してまだ間がなく現地の情勢も良く分からない頃だったので、米軍が上陸して来たら自分一人で村民をどのようにしてどこに避難誘導をしようかと考えたが、一人ではどうする事もできないので軍と相談しようと思い赤松隊長に会いに行った。
 赤松部隊の隊長は民家を借りていたが、昼は海岸の方に行っていた。その海岸は秘密地帯になっていたらしく、私は行ったことはなかった。
 赤松部隊は特攻を出す準備をしていたが艦砲が激しくなって出せなくなり、船を壊して山に登ったと言うことであったので、私は赤松隊長に会って相談しようと思いその部隊を探すため初めて山に登った。
 その時は大雨でしかも道も分からず一晩中かかってやっと赤松隊に着いた。その時、赤松部隊は銃剣で土を掘ったりして陣地を作っていた。私はそこで初めて赤松隊長に会った。

住民の避難誘導の相談


 このような状況の中で私は赤松隊長に会った。
 「これから戦争が始まるが、私達にとっては初めてのことである。それでの住民はどうしたら良いかと右往左往している。このままでは捕虜になってしまうので、どうしたらいいのか」と相談した。すると赤松隊長は、「私達も今から陣地構築を始めるところだから、住民はできるだけ部隊の邪魔にならないように、どこか靜かで安全な場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言してくれた。私はそれだけの相談ができたので、すぐに引き返した。
 赤松部隊から帰って村長や村の主だった人たちを集めて相談し、「なるべく今晩中に安全な場所を探してそこに避難しよう」と言った。その頃までは友軍の方が強いと思っていたので、心理的にいつも友軍の近くが良いと思っていた。全員が軍の側がいいと言うことに決まり避難する事になった。から避難して行くときは大雨であった。
 私が本島にいた時もそうであったが、その頃は艦砲や空襲に備えてそれぞれ防空壕や避難小屋を作っていた。私が渡嘉敷に赴任する前から渡嘉敷島の人たちは、恩納河原に立派な避難小屋を作ってあった。
 私は恩納河原にこんな立派な避難小屋があることを知らなかった。避難して行ったところは恩納河原の避難小屋の所ではなく、そこよりはずっと上の方で、赤松部隊の陣地の東側であった。を出発したのは夜で、しかも大雨であった。真っ暗闇の中を歩いてそこに着いたときには夜が明けていた。その時の人たちのほとんどが着いて来ていたと思う。避難して来た人たちの中には防衛隊員も一緒にいた。

渡嘉敷島の玉砕
 私は住民の命を守るために赤松大尉とも相談して、住民を避難誘導させたが、住民は平常心を失っていた
 空襲や艦砲が激しくなってから避難しているので、を出発する時からもう平常心ではない。
 集まった防衛隊員達が、「もうこの戦争はだめだから、このまま敵の手にかかって死ぬより潔よく自分達の手で家族一緒に死んだ方がいい」と言い出して、村の主だった人たちが集まって玉砕を決行しようという事になった。
 私は住民を玉砕させる為にそこまで連れて来たのではないし、戦争は今始まったばかりだから玉砕することを当局としては認めるわけにはいかないと言った。しかし、当時の教育は、「生きて虜囚の辱めを受けず」だったので、言っても聞かなかった。
 そこで「じゃあそれを決行するのはまだ早いから、一応部隊長の所に連絡をとってからその返事を待って、それからでも遅くないのではないか」と言って部隊長の所へ伝令を出した。
 だがその伝令が帰って来ないうちに住民が避難している近くに迫撃砲か何かが落ちて、急に撃ち合いが激しくなった。
 そしたら住民は友軍の総攻撃が始まったものと勘違いして、方々で「天皇陛下万歳、天皇陛下万歳」と始まった。その時、防衛隊員は全員が敵に遭遇した時の武器として、手榴弾を持っていたと思う。
 その手榴弾を使って玉砕したが、幸か不幸かこの手榴弾は不発が多く玉砕する事ができない人たちがいた。
 玉砕できなかった人たちが集まって、友軍の陣地に行って機関銃を借りて自決しようと言うことになって、自分たちで歩けるものは一緒に友軍の陣地に行ったが、友軍はそれを貸すはずがない。そこでガヤガヤしているうちにまた迫撃砲か何かが撃ち込まれ、多くの人たちがやられた。
 その時友軍に、「危険だから向こうに行け」と言われて、元の場所に帰ってきた。
 その頃は全員の頭がボーとして何も考える事ができず、死のうが生きようがどうでもいいと言う気持ちで近くの広場で寝ていた。
 その時自決するチャンスを失ってしまってそのままになった住民も多かった。

避難生活
 あの広場で玉砕してから2、3日は飲まず食わずでいたと思う。それから段々と集まってきた場所が、あの避難小屋を作ってあった恩納河原であった。
 それからは避難小屋での生活が始まった。山の畑を耕したり、芋を作ったり、ソテツで澱粉を作った りして食いつないでいたが、小さい離島なので、持っていた食料も底を尽き、山のソテツも取り尽くしてしまい、食料を探すのに必死だった。その頃船  が沈められて、海岸にはよくメリケン粉や缶詰などが流れ着いていたので、それを拾って食べたこともあった。
 渡嘉敷港の近くに友軍の食糧を積んであったので、私が赤松隊長に相談して防衛隊員などから力のある人を集め、その食糧を取ってきて友軍と民間で分けたこともあった。
 赤松隊長は、「私たちは兵隊で戦って死ねばいいが、皆さんは生きられるだけ生きて下さい」と言って、自分たちの味噌や米を住民に分けてあげたりしていたこともあった。
 米軍が上陸してからは、本島との連絡は全くできないので、私は赤松隊に行って情報を取りそれを住民に伝えていた。
 七、八月頃になったら米軍からビラがばら撒かれた。それには「もう戦争は終わったから山から降りてきなさい」と書いてあった。

 渡嘉敷島の住民の中にも、伊江島の住民の捕虜から情報を聞いて早く投降した人たちもいた。
 そのとき私も軍と一緒に投降した。(沖縄県警察史 平成5年3月28日 (1993.3.28)発行 第2巻第3章 警察職員の沖縄戦体験記より抜粋 P768)

(昭和63年2月8日採話)

                     ◇

この証言記録は戦後43年を経過した昭和63年に採話されている。

改めて説明するまでもなく、赤松隊長が自決命令を出したという主張が真っ赤な嘘であるということが、この証言からわかる。

何よりも、仮に、軍の命令による自決なら、自決に失敗した住民は当然「命令違反」で処刑の対象であったはずだ。 

ところが、7、8月ごろまで赤松隊長と食料の分け合いをしていた事実や、情報交換をしていた事実から、軍の命令による自決が、嘘であることは自明である。 

軍命説は、後年になってからの援護金申請のための方便であることが証明されているが、それを証明したのが、軍命説派である石原昌家沖国大名誉教授の調査によるというのは、いかにも皮肉である。

安里巡査の証言が、最重要だという理由は、安里巡査の当時の年齢と職務にある。

「集団自決」の生き残りは老人と子供が多かったため、既に物故した人が多かったり、当時幼かったため後の証言が他人の影響を受け信憑性にかける点が指摘され、それが真相解明の大きな妨げになっている。

更に問題を複雑にしているのは、「集団自決」の関係者が血縁・地縁で何らかの繋がりがありそれが証言者の口を重くしているという点である。

それに年金支給の問題が絡むと、今でも黙して語らないお年寄りが多数いると聞く。

その点、当時渡嘉敷島の巡査であった比嘉さんは信憑性のある証言者としての条件を全て具備していた。

安里(比嘉)巡査は本島から赴任したばかりで渡嘉敷島の血縁社会には無縁の「よそ者」であり、、島の血縁・地縁社会とはつながりの無い新任の警察官だった。 従って安里巡査に地域共同体の呪縛はない。

安里巡査は、親族に「集団自決」のいない証言者であり、赴任当時29歳という年齢的にも、村の指導的立場の警察官という立場からいっても、生存者の中で最も信頼のできる証言者のはずだった。

これだけの証言者としての条件を具備していながら、しかも戦後一貫して沖縄に在住しているのにもかかわらず、地元マスコミで比嘉(安里)さんに取材したものは1人もいないというのも不可解である。

その理由は?

比嘉さんが渡嘉敷島で起きた集団自決の「不都合な真実」を知っていたからである。

【追記】

新・沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を届ける2021-06-10

■沖縄タイムス 1983年6月8日付記事。

故赤松大尉直筆の手紙を届ける

衆議院調査室の徳嵩力さんが本社東京支社に

住民に「申し訳ない」

虐殺については否定?

【東京】戦時中、海上挺進第三戦隊の隊長として渡嘉敷島の守備につき、住民虐殺、集団自決のあの悲惨な「事件」に深く関与したといわれる赤松嘉次大尉(故人)が12年前、当時の陣中日誌とともに関係者に出した直筆の手紙がこのほど、沖縄タイムス東京支社に届けられた。渡嘉敷での数々の悲惨な出来事について赤松氏は「一部マスコミの興味本位な報道」と伝えられる事実関係については強い口調で否定。 敗戦の結果についてのみ「申し訳ない」とつづっている。折りしも、沖縄では三十八回目の「慰霊の日」をやがて迎える。

手紙を保管なしていたのは、衆議院外務委員会調査室に勤める徳嵩力さん(61)。復帰前、「鉄の暴風」(沖縄タイムス刊)を読み、そのなかで渡嘉敷島の住民虐殺、集団自決など悲惨な出来事を初めて知った徳嵩氏が、やっとの思いで赤松氏を探しあて、事実関係を尋ねたことに対する返書で日付は昭和四十五年十一月三十日。 
そのなかで赤松氏は「戦時中、現地の方々の献身的な協力にも拘わらず力足らず、あのような結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と敗戦の悔いを「つづっている。
ただ住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。 同時に沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議についても“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している。
仕事上の関係もあって「沖縄に強い興味を持つ」という徳嵩氏は手紙と陣中日誌を読み返し「どうも後で理由付けした感があり、説得力に乏しい」と感想を語る。 さらに「赤松氏個人への感情は別として」と前置き、「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです。 教科書問題にしても、やはり虐殺の事実は事実として歴史にとどめるべきだし、それが生き残った私たちの使命」とも。
中学、高校の教科書で沖縄戦で住民虐殺の記述も復活の兆しにある。 赤松氏がどのような胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが、日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な出来事が渡嘉敷島で起こったことはまた歴史の事実である。

             ☆

 

ここに登場する徳嵩力氏は、1921年生まれ、長野県出身。戦後、国家公務員上級試験合格し1956年衆議院外務委員会調査になり、沖縄問題を担当。復帰の3年前の昭和44年(1969年)に衆議院職員初の沖縄調査団として沖縄視察をしたエリート官僚である。

徳嵩氏は戦後一貫して沖縄問題を担当した使命感から独自に沖縄問題の研究から発展し「鉄の暴風」、「秘録沖縄戦」(山川泰邦)、「沖縄ノート」(大江健三郎)などの沖縄戦の本を読み漁り、ついには赤松大尉を捜し当てて、ことの真相を問いただす。

ちなみに「鉄の暴風」が伝聞や噂の類を基に書かれた嘘まみれの本であり、「沖縄ノート」はその嘘のネタ本を下地にしたデタラメの本であることは、今では大方の知るところ。 「秘録沖縄戦」も、「鉄の暴風」の影響を大きく受けており、近年著者の故山川康邦氏のご子息が歪曲部分を削除した改定版を出したくらいである。

復帰前の沖縄戦の情報が少なかった当時としては仕方の無いことだが、徳嵩氏が沖縄戦を勉強した本が全て沖縄タイムスの偏向思想により歪曲された本だけだったのは徳嵩氏にとって不幸であった。

優秀で誠実な戦前の日本のエリート官僚の系譜を継いだと思われる徳嵩氏は、イデオロギーとは別の視点から、日本軍が沖縄に及ぼした被害の数々をこれらの「沖縄本」から勉強し、激しい贖罪意識に襲われる。 そして政府の沖縄担当の調査官としての使命感から赤松大尉を探し出して当時の状況を聞き取るのだが、赤松大尉がそれに対する返事を手紙にして送ったのが記事に出て来る昭和45年11月30日付けの赤松氏の手紙である。 

今年は沖縄の日本復帰の40周年だが、赤松氏が手紙を送ったのは復帰の2年前、今から42年前の出来事である。

徳嵩氏は沖縄担当の官僚という職務上、沖縄紙の東京支局の記者と知り合うことになるが、ある席上偶々隣の席にいた沖縄タイムス記者に赤松大尉の手紙のことを話すことになる。

徳武氏としては赤松大尉の存在を知ったのが沖縄タイムス刊の「鉄の暴風」だったのだから沖縄タイムス記者に話すことに何の躊躇も無かったのだろう。 当時の徳武氏としては「鉄の暴風」や「沖縄ノート」がイデオロギーまみれのデタラメな本と言うことを知る由もなく、沖縄戦史の解明の資料として沖縄タイムスに手紙を渡したのも仕方の無いことである。

沖縄タイムスが赤松大尉の直筆の手紙を入手したら、どのような行動にでるか。 

猫に鰹節とはまさにこのこと。

手紙の内容の如何に関わらず、イデオロギーによる歪曲した捏造記事を書くことは火を見るより明らかだった。

それが上記引用の記事である。

この記事は12面のトップを徳嵩氏の写真つきで大きく飾り。徳嵩氏の写真には「故赤松氏からの当時の手紙を見ながら住民虐殺について語る徳嵩氏」というクレジットが付いている。

沖縄タイムスの記事を見て、沖縄戦当時渡嘉敷島の駐在巡査を勤め集団自決の一部始終を目撃した比嘉(旧姓安里)喜順氏が記事のあまりにも酷い歪曲された内容に悲憤慷慨し、その日のうちに抗議の手紙を徳嵩氏に送った。

手紙の日付が沖縄タイムスの記事と同じなのは、それだけ比嘉氏が当時の生き証人として居ても立ってもおれなかった比嘉氏の心境を表している。比嘉氏はその日の午後3時頃記事を読み、すぐ沖縄タイムスに抗議すると同時に徳嵩氏の連絡先を問いただし、その日のうちに手紙をしたため郵送している。

その手紙はご子息から公開の許しを得ているので、集団自決の真相解明の歴史的資料として下記に公開する。

その前にタイムス記事が触れている「同時に(赤松氏が)沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議」について事実を説明しておく。

当時の新聞には、沖縄県民や渡嘉敷住民が、赤松氏を空港に出迎えた抗議した、と報道している。(※【おまけ】に詳述

だが、実際に空港で抗議したのは僅か十数名の那覇市の市職労の組合員であり、渡嘉敷住民は慰霊祭に赤松氏が参加するのをむしろ歓迎していた。

1970(昭和45年)3月26日、赤松氏が那覇空港で、左翼集団に取り囲まれて渡嘉敷島には渡ることを阻止されたことは過去にも再三書いたが、親族関係者の話で次のことも判明した。

赤松氏は、空港で、抗議集団にもみくちゃにされ、背広のボタンも引きちぎられる酷い有様だった。

赤松氏はこのような激しい抗議に遭っては、普通の定期船ではとても渡嘉敷島に渡ることができないと判断し、渡嘉敷行きは諦めかけていた。

翌慰霊祭当日、伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵、戦時中、渡嘉敷村女子青年団長)のご主人が、迎えに来てくれ舟を出してくれた。

たが、結局、赤松氏はさらなる騒動を避け、島には渡ることはせず、島の入り口まで行って、慰霊祭への花束だけを託したという。

渡嘉敷の住民は赤松氏の来島を大変歓迎していたが、マスコミや抗議集団との混乱を避けるため渡嘉敷上陸は断念した。

なお、伊礼蓉子氏の娘さんは、赤松氏宅にも訪問したことがあり、赤松氏の家族と今も交流が続いているという。 
     
この事件を、沖縄タイムスをはじめ全国の新聞、雑誌が騒ぎ立てて、これを機に赤松氏の悪評が一気に広がった。

赤松氏の地元では、地元紙である神戸新聞の記事を見た人が多く、赤松氏の長女は後にクラスメートからこのことを教えられたという。 

なお、赤松氏を渡嘉敷に送る舟を手配した伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵)は、星雅彦氏の手記「沖縄は日本兵に何をされたか」(雑誌「潮」1971年11月号に掲載)の中で証言者として登場している。

《村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた。(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言。その点、米田惟好は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている)(雑誌「潮」1971年11月号・星雅彦)》

 

赤松氏は当時の渡嘉敷村長の了解の下に沖縄訪問をしたわけだから「“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している」という赤松氏の心情は事実であった。

赤松氏に罵声を浴びせる組合員の中には、歓迎のため赤松氏を出迎えにきた玉井喜八渡嘉敷村長がいた。

組合員の暴力的な実力行使で、結局赤松氏は慰霊祭に参加を断念するが、玉井村長は次のようなコメントを沖縄タイムスに伝えている。

「赤松氏は三年ほど前から慰霊祭に出席したいと連絡していた。ことしも村から慰霊祭のスケジュールを送ったらぜひ行きたいという返事があり、喜んでいたところだ。」 

集団自決論争が問題解決を困難にしている理由は次の点にある。

①「事件」が60数年前のことであり、体験者はほとんどが物故している。

②数少ない証言も、当時子供だった証人の曖昧な証言に頼らざるを得ない。

③物的証拠は一つもなく、証言あるいは証言記録のみを証拠としているの。

④意識的嘘の証言は論外としても、証言の「思い違い、記憶違い」等も考慮に入れなければならぬ。

これらに親族、地域社会などの人間関係、経済的要素の呪縛や、イデオロギーの呪縛が絡むと証言の信憑性の検証はますます難しくなる。

2007年の「11万人集会」の前後、沖縄紙は夥しい数の証言者を紙面に登場させ、連日「体験者証言」と大々的に報じたが、そのほとんどが、「毒おにぎり証言」の例のように客観的検証に耐える証言ではなかった。

卑近な例で、意図せざる「記録の過ち」を一つ例示しておこう。

玉井喜八渡嘉敷村村長がミニコミ誌に寄稿した『遺族会発足当時を想う』と題する手記の中に、玉井村長の記憶違いが見られる。

手記はここ⇒沖縄戦を歪曲した沖縄タイムスの大罪

同手記には昭和53年赤松夫人が三十三回忌の慰霊祭に渡嘉敷訪問したとある

だが、これは玉井村長の記憶違いで、赤松夫人が慰霊祭に参加したのは昭和53年ではなく、正確には昭和59年に戦隊員や遺族の方々に同行し、赤松氏の遺品を寄贈したという。

これは赤松氏の遺族関係者からご指摘を受けた。

玉井村長のような重要人物でさえこのような記憶違いを手記に書くくらいだから、故人が残した証言の記録が全て正しいとは限らず検証が必要なことは言うまでも無い。

実際に赤松夫人が渡嘉敷島を訪れたのは、手記にある昭和53年ではなく、昭和59年であるというから、赤松夫人は次の記念写真のどこかに写っているものと思われる。

渡嘉敷港で住民たちと和やかに記念撮影に収まる元赤松隊の一行

■比嘉喜順氏の手紙

 徳嵩様 謹んで申しあげます。

あなた様の東京支局によせられた故赤松大尉直筆の手紙を届けるの記事を読み、お便りを差し上げます。
私、当時(沖縄戦)昭和20年2月より昭和20年8月14日まで渡嘉敷村の巡査駐在所で勤務しておりました者であります。
それであなた様が「12年前より(まま)赤松大尉直筆の手紙」を届ける記事を6月8日の午後3時ごろ読みまして、早速沖縄タイムスに電話で貴殿の調査室の住所を知らして下さいと頼みまして、このお便りを差し上げます。 それで私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論自決場所のことも一部始終わかっております。 あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。
責任者として天地神明に誓ひ真実を申しあげます。 今までの戦争は満州、支那大陸で戦い、私達もその体験者の1人であります。 それが而も一番(不明)島、沖縄県、離島の自国内で連合軍の包囲を受け家族とも共戦争体験をしたのは、その人でなければ実際を語ることは出来ません。
「鉄の暴風」が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せてくれて驚いた程であります。 その時には既に遅く、全国に販売されていたようです。
それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した責任ある私達に調査もされず刊行されたことは私の一生涯の痛恨の極みであります。
沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べたことは今もって一度もございません。
私も戦い終わって昭和二十年八月二十七日、捕虜で金武村屋嘉の収容所に収容され、同年十一月三日そこを出て、家族をさがしあてたのが昭和二十年十一月十五日でした。 それで戦争の話、友軍の行動等を分かりました。 
それに比較して赤松隊長のとった行動は本当に良かったと思われました。 戦争中而も敵の海、空よりの砲撃のさ中で軍の食料(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さったあの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。 あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚りません。 徳嵩さんがどう云う理由で十二年保存されて、然も赤松さんが故人となられた今頃にから沖縄タイムスに掲載されたか、私には理解に苦しむものです。
赤松隊の生存者もをられるし、当時の村民も尚健在者が多数残っています。 それでお願いですが曽野綾子著「ある神話の背景」沖縄、渡嘉敷の集団自決、文藝春秋社刊をお読みにお読みになられたらと思います。
真実と云ふのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一歩的に出してそれで何も知らない人々がそれを信じることになり、大方はそんなものではございません。 私はそう思います。
歴史の事実も本当はそうであったかと、両方の調査をし、綿密に調べられてから、正しく報らすのが真の在り方と思われます。 私も貴方が出された「タイムス」の記事を見て、当時の沖縄戦の生々しい実態が甦り、本当に何とも言ひようのない悲憤慷慨と申しましょうか痛恨の念が一極です。
只々書かなければ止まない衝動にかられてこのお便りを書きました。
徳嵩様の重要な部所にお勤め鳴られてをり幸いと思います。
益々ご健康で、ご繁栄でありますと併せて我が国の繁栄に寄与なされますようご御祈りいたします。 乱筆で御免下さい。

                                                        敬具

昭和五十八年六月八日午後十一時三十分

沖縄県北中城字大城の自宅にて

旧姓 安里  比嘉喜順拝

徳嵩力 様

【おまけ】

タイムスの沖縄戦歪曲を象徴する報道が二つある。

一つは1950年(昭和25年)に出版された『鉄の暴風』。

もう一つは『鉄の暴風』発刊の20年後、1970年3月27日付沖縄タイムス社会面を飾った衝撃的記事である。

■梅澤・赤松両隊長が怒った沖タイ記事

戦後一貫して沈黙を守っていた渡嘉敷島、座間味島の両隊長が、「自決命令をしていない」と積極的に発言し始めるのは、実はこの1970年の記事以降のことである。

勿論梅澤氏は「鉄の暴風」の1980年改訂版発刊までは、死亡とされていたので、梅澤氏の発言と赤松氏の発言には凡そ10年のタイムラグがある。

『鉄の暴風』については、多くの研究者がそのデタラメな内容を論じ尽くしているのでここでは省略し、今から約40年前の沖縄タイムス記事について触れる。

1970年3月27日といえば、大江健三郎氏の『沖縄ノート』も曽野綾子氏の『ある神話の背景』もまだ発刊されておらず、『鉄の暴風』が沖縄戦のバイブルのようにいわれて時期である。

その日は渡嘉敷島で25回目の戦没者慰霊祭の当日で、沖縄タイムスは、前日の26日、慰霊祭に参列のため那覇空港に降り立った渡嘉敷島の元戦隊長赤松嘉次氏と空港で待ち受けた約40名の「抗議団」とのトラブルを大きく報じている。

その日の沖縄タイムス社会面トップを飾った大見出しはこうだ。

忘れられぬ戦争の悪夢

<赤松元海軍大尉が来島>

空港に“怒りの声”

”非難したくない”

出迎えの玉井村長語る

抗議のプラカードを掲げた抗議団。 それに取り囲まれた赤松氏の写真と共に、タイムスは約40名の抗議団の赤松氏に対する「怒りの声」を報じている。

I「忘れられぬ戦争の悪夢  <赤松元海軍大尉が来島>  空港に“怒りの声”」の画像検索結果

赤松元陸軍大尉のことを、「元海軍大尉」と大見出しで事実誤認で報じる沖縄タイムスの無知(実際は陸軍大尉)はさておき、その記事から「県民の声」を一部拾うとこうなる。

「赤松帰れ」

「今頃沖縄に来てなんになる」

「県民に謝罪しろ」

「300人の住民を死に追いやった責任をどうする」

慰霊祭には出てもらいたくない。 あなたが来島すること自体県民にとっては耐えがたいのだし、軍国主義を全く忘れてしまったとしか思えない。 現在の日本の右傾化を見ろ

この紙面構成を見ると、読者は「鬼の赤松の来県に抗議する渡嘉敷島の住民」という印象を刷り込まれてしまう。

わずか40名の左翼団体の抗議を、あたかも県民代表あるいは渡嘉敷住民であるかのように報じた沖縄タイムスは沖縄戦を歪めた首謀者であり、その罪はきわめて重い。

実際の抗議団は那覇市職労を中心にした左翼団体であった。

赤松氏に抗議文を突きつけたのも渡嘉敷村民ではなく那覇市職労の山田義時氏であった。

肝心の渡嘉敷村は赤松氏の慰霊祭出席を歓迎しており村民を代表して玉井喜八村長が出迎えのため空港に出向いていたくらいだ。

先ず記事の見出しに躍る”怒りの声”と”非難したくない”と言う玉井村長の矛盾を沖タイはどう説明するのか。

 

「うらそえ文藝」編集長の星雅彦氏は、偶々そのときの那覇空港の「騒動」の一部始終を目撃していた。

結局赤松氏は那覇に足止めを食い、赤松氏と同行の元部下たち一行は那覇市松山の大門閣ホテルに一泊し、翌27日、船で渡嘉敷に向かうことになるが、星氏は同じ船に便乗し慰霊祭にも参加したという。

星氏は偶然目撃した前日の空港での左翼団体の暴挙と、これを県民の意志であるかのように報道する地元マスコミの姿勢をみて、沖縄で流布する集団自決の「定説」にますます疑問を持つようになったという。

星氏は元赤松隊一行と共に渡嘉敷に向かうが、船の中で赤松隊一行は持参の経文の書かれたお札のようなものを広げてずっとお経を唱え続け、渡嘉敷港が近づくと持参の花束とお経のお札を海に撒いていたという。

慰霊祭の最中に「赤松が上陸する」との知らせを受け、マスコミと「民主団体」が現場に飛んで行った。

だが、赤松氏は個人で舟をチャーターして島に接岸し、結局島民に弔文と花束を託して上陸することなく、島を去ったという。

■沖縄戦史を歪曲した記事■

1970年3月27日のタイムス記事は、以後沖縄戦史を「タイムス史観」ともいえる歪な方向へ県民を扇動ていくマイルストーン的役割りを果たすことになる。

先ず、この記事を見た県民は、こう印象つけられた。

住民に自決を命じ、自分はおめおめと生き残った卑劣な鬼の赤松隊長を追い返す渡嘉敷住民

赤松元隊長は「鬼の赤松」といった印象を強烈に刷り込まれることになる。

またこの記事を見た大江健三郎氏は作家としての想像力を強く刺激され、本人の述懐によると『鉄の暴雨風』などによる沖縄戦の即席勉強と共に、新川明氏らタイムス記者のブリーフィングで得たにわか仕込みの知識で、現地取材もすることなく、作家としての想像力を駆使して「沖縄ノート」を書くことになる。

戦後起きた沖縄戦のセカンドレイプともいえる第二の悲劇は、まさに『鉄の暴風』に始まり、「1970年3月27日付タイムス記事」によって決定的になったいっても過言ではない。

そのときの記事には、金城重明氏が首里教会の牧師という肩書きでマスコミに初登場して証言しているが、

金城氏はその後、集団自決の証言者の象徴として、マスコミ出演や著書出版、そして全国各地の講演会などで八面六臂の活躍をするのは周知のことである。

■渡嘉敷村民の真意は?

それでは、当時の渡嘉敷村民の真意はどうだったのか。

そのとき赤松氏を迎えるため空港で待ち受けていた玉井渡嘉敷村長は、後にその心境を渡嘉敷村のミニコミ誌で吐露している。

以下は、『終戦50周年祈念「いそとせ」』(沖縄県遺族連合会 平成7年12月30日発行)に寄稿された玉井元渡嘉敷村長の随想の一部抜粋である。

遺族会発足当時を想ふ  

渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八

(略)
 遺族会発足当時は主として戦没者の援護法適用について、県当局や遺族連合会との連携をはかることが主な活動であった。
 幸いにして、国は島における戦闘状況に特殊事情があったとして理解を示し、戦没者全員が戦闘協力者として法の適用が認められたことは唯一の慰めであった。(略)
 渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるのみである。
 おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。
 後で聞いた話では別の船をチャーターして渡嘉敷港の軍桟橋で弔花を届けて引返したとのことである。本人は既に故人となり、今にして思えばその当時、故人の望みをかなえてやれなかった事に心残りもあるが、時の社会状況からして止むを得ないことであった。
 昭和53年の33回忌は隊員との合同で行われた。慰霊祭に隊長夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことが何よりの慰めになったことと思われる。
 3戦隊戦友会は、本村に駐留した復員者で組織された会で、村や遺族会と緊密な連携がなされ村民との融和がはかられている。学校の記念事業等に積極的に協力すると共に戦跡碑の設置塔を実施し、村との信頼関係を確立している。(略)
 昨年、戦友会員や隊員の遺族が大挙して島を訪れ50回忌の慰霊祭が行われた。その際に会を代表して皆本義博会長から永代供養基金として一金三百万円が村遺族会へ送られた、想えば当時紅顔の少年たちも既に70の坂を越しており会員は減少するのみである。この基金の果実により戦友会として今後の供花費用に充て永久に弔って行きたいといふ心づかいである。

引用者注
玉井喜八⇒1921年10月生まれ1953年12月17日33歳で渡嘉敷村長就任。以後32年間1985年12月まで村長の職にあった。2000年8月79歳で没

3戦隊戦友会⇒赤松隊戦友会

赤松氏の慰霊祭参加を歓迎する村民を代表して、那覇空港に出迎えた玉井村長は「村民外の『民主団体』」が来島を阻止したことに驚きを隠せないようだが、33回忌には赤松夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことを喜んでいるようである。

沖縄タイムスは村民と元隊員とは敵同士であるかのような報道をしたが、赤松隊員と村民の信頼関係が深いことが記述されているし、手榴弾証言の富山眞順氏は別のミニコミ誌で、本土旅行の際は元赤松隊員に連絡し、空港等に迎えに来てもらい、一緒に観光するといった元赤松隊員との和気あいあいとした交流の模様を寄稿している。

これらは沖縄タイムスには決して載ることのない村民の本音であり、村内で読まれるミニコミ誌にのみ掲載されている。

赤松氏がマスコミに初登場するのは、上記1970年の沖縄タイムス記事の二年前の1968年発行の週刊新潮4月6日号誌上であるが、

そのときは「部下を戦死させたのに生き残った卑怯な隊長」、あるいは「スパイ容疑で住民虐殺した残虐な隊長」という主旨の追及に答えている。

「住民虐殺」については、意外にもその事実をあっさり認めている。 

だが「集団自決の隊長命令」については記者の質問もなければ、当然赤松氏の言及もない。

ところが週刊新潮の記事を見た琉球新報の関西支局が、赤松氏を神戸市加古川の自宅を訪れ、そのインタビュー記事を同年4月6日付けで掲載した。

その琉球新報記事で、記者の「集団自決は命令したのか」との質問を受け、

赤松氏は「絶対に命令したものではない。自決のあったあとで報告を受けた」と答えている

ところが、前記1970年の那覇空港における「鬼の赤松vs渡嘉敷村民」という印象操作記事以降、赤松氏は「軍命は出していない」と自ら積極的に発言するようになる。

その後、奇しくも『鉄の暴風』が梅澤氏の「死亡記事」を密かに削除した1980年(昭和55年)の初頭、赤松氏は無念のまま没する。

実弟の赤松秀一氏がその意志を継いで梅澤氏と共に、「集団自決訴訟」を起こしたことは周知のことである。

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集団自決、「早く殺して」母は願った 棒で家族を殴り始めた叔父 75年前の悲しみ「誰も責められんさ…」

2021-06-24 08:21:10 | ★改定版集団自決

沖縄タイムス+プラス ニュース

「早く殺して」母は願った 棒で家族を殴り始めた叔父 75年前の悲しみ「誰も責められんさ…」

2020年3月29日 06:24有料

 米軍が渡嘉敷島に上陸した翌日の1945年3月28日、住民らは旧日本軍の命令で島北部の北山(ニシヤマ)に集まり、「集団自決(強制集団死)」で330人が犠牲になった。当時11歳で渡嘉敷国民学校6年生だった大城政連(せいれん)さん(86)も大けがを負い、幼い弟を失った。母は家族の死を懇願し、叔父は自分の家族の命を奪った後、大城さん一家にも手を掛け、「自決」した。(社会部・新垣玲央)

◆玉砕場

 米軍が沖縄上陸に向けて大空襲をかけたのは3月23日。沖縄本島攻略の足掛かりにするため、26日に阿嘉島、慶留間島、座間味島、そして27日には渡嘉敷島の渡嘉志久海岸と阿波連海岸に上陸した。

 阿波連に住む大城さんは空襲の日から、母と2人の幼い弟と共に山中へ避難した。大雨の中、山裾の恩納河原(ウンナガーラ)から北山に移り、たどり着いた「玉砕場」では泣き声や悲鳴が響いていた。

 「米軍に捕まれば、鼻と耳をそがれ、いたずらされ殺されると聞いていた。もうみんな、最後の場所を選んでいた」。

 家族ら数人で手りゅう弾を囲んで「自決」を図ったが、不発。母は「やっちー、わったーやーにんじゅー、へーくくるして!(兄さん、私たち家族を早く殺して)」と叔父にせがんだ。叔父は「まっちょーけ(待って)」と言って棒を手に取り、まず自らの家族を殴り始めた。

◆川の水

 「何が何だか分からない。まさか自分もそうなると思わなかった」。大城さん一家もうつぶせに寝かされ、大城さんは後頭部を打たれて意識を失った。気が付いた時には薄暗く、辺りを見渡すと、4歳だった三男邦夫さんは息絶えていた。叔父は首をつって自殺し、母と次男は大けがを負っていた。

 翌日、水が欲しくなり、近くの川の水を飲んだ。「自決で皆が死んだ血」だった。近くに落ちた艦砲の破片で足もやられたその日、米軍に捕まった。米兵の印象は、聞いた話とは違っていた。「全部うそだった」

 母は戦後、亡くなった邦夫さんが「子どもの中で一番頭が良かった」と繰り返した。それでも、あの「自決」を語ろうとはしなかった。

 「誰も責められんさ…」と大城さんは言葉を詰まらせる。「二度とあんなことはない方がいい。考えるのはそれだけよ」。75年前の悲しみを、静かに胸に抱え続ける。

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集団自決、星雅彦氏の証言、捏造された公的刊行物

2021-06-24 00:44:33 | ★改定版集団自決

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貶められた日本兵、捏造された公的刊行物

2013-07-22

              ☆

世界日報に連載された『「援護法」に隠された沖縄戦の真実』シリーズは、援護法を拡大解釈して沖縄住民に適用させようとする国側の「善意」に目をつけた反日左翼勢力の陰謀を暴くことが目的である。

遺族が、国の指導に従って方便として記入した「軍命」を、あたかも「残虐な日本兵」が実際に軍命で壕を追い出したり、軍命で集団自決を命令したなどと歪曲して報道されてきた。これらの歪曲・捏造された沖縄戦史を正すことにある。

日本兵を貶めるためには聞き取り調査を捏造してまで、歴史を歪曲した例を、過去記事から紹介する。

                 ☆

集団自決、捏造された公的刊行物

沖縄縄戦を記した出版物が、一般刊行物から公的刊行物にいたるまで、虚偽の記述にあふれている事を再三指摘してきた。

 市中に出回っている雑多の出版物に記載してある証言より、公的刊行物にある証言の方が正しいと考える人は多い。

ところが一般的に信憑性があるといわれる公的刊行物が歪曲と捏造に満ちているのだ。

沖縄戦を綴った公的出版物の編纂・監修に、安仁屋沖国大教授やその弟子の宮城晴美氏といった「大江・岩波手段自決訴訟」の被告側応援団が加わっており、意図的に証言を歪曲・捏造していた事実が判明している。

集団自決訴訟の第2弾ともいえる「パンドラの箱掲載拒否訴訟」では、公的刊行物を歪曲・編集した左翼学者の犯罪も白日の下に晒らされることになるだろう。

日本兵と米兵を入れ替えた捏造の沖縄戦史

「残虐非道の日本兵」と「人道精神に満ちたアメリカ兵」というイデオロギーを強調するあまり、聞き取りした執筆者の主観で想像を交えた作文をした例は珍しくない。

だが、「日本兵」と「アメリカ兵」、つまり敵対した当事者そのものを、意図的に入れ替えて「残虐非道な日本兵」を作り上げた例は前代未聞である。

証言者が「(自分の父を射殺したのはアメリカ兵」であると二度も念を押したにもかかわらず、元琉球新報の記者の取材者は、公的刊行物である『那覇市史』に「射殺したのは日本兵」として記録しているのだ。

ことほどさように沖縄で発刊されている沖縄戦史はすべて眉につばして読む必要がある。

                           *

 沖縄県文化協会会長の星雅彦氏は、県の依頼を受けて県内の知識人として初めて、『鉄の暴風』の著者よりも早い時期に、集団自決の行われた座間味、渡嘉敷両村の現地取材をした人物である。

沖縄の文芸誌『うらそえ文藝』(15号)が、同誌編集長星雅彦氏の執筆による「『集団自決』 その真相を墓場まで」と題する論文でこの公的刊行物の捏造記事を紹介している。

例えば、次のような氏独特の婉曲な表現で、従来の沖縄戦史を批判し、集団自決の核心に迫っている。(引用文の太字強調は引用者)

隊長命令や軍命の有無について考えてみる。 すると思い付くことは、根拠がないのに当然あるかのような形を示し得るスタイルで、うまく誤魔化している場合があるということだ。また根拠や理由は不明瞭でも当然起きた筈だと言うような、妥当性の範疇の推量でもって真実性を想像させ得る背景もある。 たとえば軍命令の有無が裁判で争点になっていようとも、その背景や根本問題に真摯にむきあっていると受け取られることによって、賛同が得られる場合もある。 そしてそれらの間隙に、「捏造」が挿入され得るのである。

公的刊行物の記述に疑念を持った星氏は、その中から御存命の証言者を精力的に追跡調査し、改めてその証言を採録し、公的刊行物と実際の証言との矛盾点を指摘している。 

ということは、ほとんどの証言者が、自分の証言が捏造されている事実を知らないままに長年過ごしてきたことになる。 

そして今回の星氏の指摘によって初めてその事実を知ったというから驚きである。

本文中の「避難壕の自決とその謎」という章から例を挙げてみる。

去年(2009年)12月中旬に、筆者は那覇市の繁多川図書館で同地在住の知念勇(76歳)からミー壕(新壕)にまつわる話を聴かせてもらった。 そのいろいろ含みのある話の中には驚くべき事実が隠されていた

このような書き出しで始まるこの章には、当時国民学校6年生であった知念勇さんが、学校の授業はほとんどない毎日を壕掘り狩り出された様子が記されている。

そして昭和19年のいわゆる10・10空襲の時、警察署員と一緒に住民が逃げ込んだ壕に日本軍の将校が現れ、この壕は軍が使用するから民間人は移動せよと命ぜられた話を次のように記している。

将校たちが去ったあと、壕内は打ちひしがれたように悄然となったが、それでも住民たちの多くは、身の回りの品をまとめはじめた。 署長代理は「今出て行くと危険だから、様子を見てから署員の誘導に従ってください」と告げた。
数時間後にはミー壕から次々と住民は出て行き、民間人は具志堅夫婦とその息子の古康さんと勇さん(証言者・引用者注)と父親の五名が残った。(略)

突然、歩哨が駆け込んで来た。 とすぐ、那覇署員たちは移動し始めた。 その後、日本軍も間もなく撤退して出て行った。 米軍が押し寄せてくる予報があったのだろう。 小一時間後に、数人の米兵がどかどかと入ってきた。 彼らはすぐ合図しあって、具志堅古康さんと勇さんの父親を黙って引っぱって壕から外へ連れ出した。 
一人の米兵は残って勇さんたちを見張っていたかと思うと、2、3分もたたぬうちにカービン銃の音がバラバラと外から聞こえた。 すぐに米兵が立ち去った後、少し間をおいて勇さんたちは父親たちを探しに外へ出た。 一面瓦礫の空間には人影らしきものは見当たらず誰もいなかった。 勇さんの父親は50歳くらいで一般住民の姿をしていたが、古康さんの父親は軍服を着ていたからまぎれもなく日本兵に見られたのだろう。 二人は抵抗しようとしたのか分からないが、何かトラブルで射殺されたに違いない。 連れていかれた二人はその後永久に姿を見せなかった
・・・年老いた知念さんの話はここまでである。

■日本兵と米兵を故意に入れ替える悪質な歴史捏造■

この面談の後、星氏は公的史料である『那覇市史」に掲載された知念さんの聞き取り調査の記述に明らかな作為的捏造部分を発見し、確認のため再度知念さんに面談することになる。

その驚きに満ちた経緯を上記文に続けてを星氏はこう記述している。

ところが、筆者は『那覇市史 資料編弟3巻7』の中に「子どもと沖縄 繁多川の警察壕で」と題して知念勇さんの手記が載っているのを見つけた。 「《前略》父親はある日突然日本兵に連れ出された。 父親が連れ出された後、2、3発の銃声がしたが、父と共に連れ出された20歳くらいの青年と共に、再び壕には帰ってこなかった(後略)」(410頁)と記されている。 末尾に採話者「嘉手川重喜」とある。 筆者の知人であるがすでに鬼籍の人である。 
後日、再び知念勇さんに会って確かめてみた。 「自分も不思議に思っている。なぜ、米兵に連れ出されたということを、取材する人に2度も3度も言ったのに、どうして日本兵に入れ替わったのだろう?」と本人はいぶかしがるのであった

この部分を読んだ時、星氏が昨年、雑誌『正論』12月号に寄稿した『「鉄の暴風」はGHQの宣撫工作だった』と題する論文の次のくだりを、とっさに連想した。

沖縄戦の証言者がほとんど物故された現在、知念勇さんの例のようにご存命の方に証言を再確認して公的刊行物の意識的捏造を発見するのは奇跡に近い。

もし星氏の再調査が遅きに失し、不幸にして知念さんがなくなられていたら「知念さんの父親ら二人が、日本兵に壕から連れ出され射殺された」ということが、歴史の真実として刻まれることになる。

危うく沖縄タイムスが目論む「残虐非道な日本兵」の捏造の歴史に新たな頁が加わるところであった。

星氏はさらに、集団自決の史料として研究者なら一度は目を通したはずの『座間味村史』下巻の「村民の戦争体験記」を取り上げ、そこに記された20数名の体験記を「それらすべては伝聞であるが、隊長命令があったと記された証言が多い」として、各証言者の動きを検証している。 ここでその内容は省略するが、沖縄で集団自決を研究するに当たり異論を述べることが、いかに困難であるかを自分の経験を基に次のように述べて、論を結んでいる。

ここで、沖縄の新聞を代表する世相を端的に言えば、沖縄では一般的に、二人の隊長の命令によって、集団自決が決行され、惨たらしく多数の住民が犠牲になったという見解だ。 それでは、もっともらしいが、よく考えると奇々怪々にさえ思えてくる。 今や軍命に意を唱えて探求すると、変人扱いされるか、他人の傷跡を暴く悪趣味に過ぎないと批判されるのだろう。 しかし沖縄戦の真実は、隠蔽されない限り、見えてこないのであろうし、そのような視線にこそ重要な意味があるような気がしてならない。(了)

星氏は、沖縄で沖縄紙を代表する論壇に異論をそえ文芸』14号で沖縄タイムスと琉球新報を真っ向から批判して以来、それまで両紙から定期的にあった原稿依頼も全く途絶えたと聞く。 これは同時に沖縄二紙に反旗を翻した上原正稔氏についても同じことが言える。

全体主義の沖縄で軍命に異論を唱えるのは変人扱いされるに止まらず、文筆で糧を求める人にとっては死活に関わる大問題でもあるのだ。

集団自決といえば沖縄タイムスやサヨク出版社の高文研や岩波書店によって発刊された本しか読まない人々にとって、星氏の今回の論文は是非とも一読を薦めたい最新の「集団自決研究」の書である。

■安仁屋教授の歴史捏造■

私が同書に疑問を持つようになったのは、県資料編纂所が刊行する『沖縄県史第九巻 沖縄戦記録ー』の執筆のため、北谷村から南部・中部の集落を回って聞き取り調査をしたことがきっかけだった。

あれは確か1970年の暮れのことだった。 私は県資料編纂所の職員のAとBの訪問を受けた。 Aは私の書いた原稿について「なぜ日本兵の善行などを書き入れるのか」と詰問してきたのである。 取材は各区長の家に集まってもらい、これを記録するという形で行った。 取材は私一人ではなく資料編纂所の名嘉正八郎と一緒であった。 

この取材で日本兵が住民を助ける話も幾つか出たので「そういうものも記録すべきだと思った」とだけ答えた。 県資料編纂所のA職員は県史編纂時の検閲の役割りを担っていたことになる。

因みにAはマルクス主義で、一つのイデオロギーに全ての物事をはめて判断しようとする傾向があったのだ。
この取材を通して私は『鉄の暴風』は、日本軍を「悪」とするために創作された、ノンフィクションを巧みに交えた推理小説風読み物ではないかと考えるようになった。 そこには日本軍部と国民、また日本軍と沖縄住民を二極に分離させ対立させる仕掛けが巧みに織り込まれているのである。 まさしく江藤淳が『閉ざされた言語空間』で指摘したように、日本と米国の戦いを、日本の「軍国主義者」と「国民」との戦いにすり替えようとする米軍の底意が秘められているのである。(190~191頁)

これについて筆者はA氏の正体を続々・星氏が『鉄の暴風』を批判!県資料編纂所職員の正体のなかで次のように暴露しておいた。

1970年の暮れに星氏を訪問し、氏が提出した原稿に「なぜ日本兵の善行など書き入れるのか」と詰問したマルクス主義者の県資料編纂所のA職員のことである。

ご本人の星氏は「A氏はまだ元気で沖縄で活躍されている方なので・・・」と実名を語るのを憚っておられるが、沖縄は狭いところで調べればすぐ正体はばれるもの。

1970年当時に県資料編纂所の職員であり、しかもこのような過激な発言で星氏に詰問する人物は自ずと限られてくる。

安仁屋政昭沖国大名誉教授は、沖国大の前は1967年から5年間、沖縄県資料編纂所の職員であり、そのマルクス主義的発言は現在も衰えてはいない。

なお、安仁屋教授は「集団自決」訴訟の被告側応援団の理論的中心人物であり、宮城晴美氏の恩師であることは夙に知られたことである。

その後、星氏が聞き取りした「日本兵の善行」は、安仁屋氏により「沖縄県史」から削除された。

                        ◇

【おまけ】

「繁多川の新壕でも威張っていたのは、警察だった」

以下は琉球新報に掲載された知念 勇さん証言

[23 たった一人の生還(6)]昼は壕、夜食料探し

“収穫”たたり、地雷踏む

  昼は壕内に隠れ、夜は食料探し、時には浜辺で語らう瀬底正賢さんらの共同生活が1カ月余たった7月下旬のことだ。海岸を中心に求めていた食料も、そのころには戦闘もなくなったこともあり、かなり遠くまで行っていた。米軍のキャンプからの“戦果”や近くの畑からの“収穫”があり、食料事情もよくなっていた。

 その日も6人でイモ畑まで出かけ、袋に詰められるだけの“収穫”を得た。瀬底さんは月に照らされたみんなの顔に白い歯が浮かんでいたことを今でも覚えている。だが、“収穫”が大きなことが不幸につながった。重いので帰りは近道を選んだ。そこは敗残兵が出没するということで地雷が埋められている。

 地雷に知識のあるという知念1等兵が先端になった。「次に私、当間、上前、夫婦連れと続いた」。10メートル間隔で進むことにした。慎重にしばらく進んだ瞬間、ものすごい爆発音。瀬底さんがおぼえているのはそこまでだ。

 爆風で5メートルほど吹っ飛ばされ意識を失った。知念1等兵は即死、肉片しか残らなかった。夫婦連れの女性の方も死んだ。腹わたがはみ出していたという。

 意識不明の瀬底さんを左足に傷を負った学友が30メートル余の断がいを背負って下まで運んでくれた。「当間嗣冠が背負ったが、今見ても1人で上り下りするのも難しい場所を、よく運んでくれたと感謝している」。

 その当間さんも、地雷で受けた左足の傷がもとで亡くなる。死ぬ間際は顔が硬直、言葉もでない。体全体がけいれんする。けいれんを全員で押さえることぐらいしかできなかった。「生き残れば遺骨は渡してやるから」と瀬底さんが話しかけた時、目が安心した表情に変わったように思えた。

 遺体は米軍の毛布で二重三重に包み、壕内の割れ目に葬った。瀬底さんはすぐに、移動が割と自由だったCP(民警)を志願、遺骨を親元に手渡した。それとともにCPもやめてしまった。

 具志堅という工業生も8月上旬ごろ亡くなった。共同生活が始まって間もなく、傷を受けた腹部を三角布で巻き、さ迷っているのを瀬底さんが見つけ、一緒に行動するようになった。

 「140センチぐらいと小さく、目がパッチリしてかわいかった。首里の人で言葉もはっきりしており、親せきに議員だったか偉い人がいると話していた」。

 小さな工業生は「子どもと思って米軍は撃たない」と昼間から水くみに走った。しかし、3度目の昼間の水くみの時、丘の上の機関銃から狙われた。波打ち際に少年は倒れ、沖へ沖へとさらわれていく死体を目の前に見ながら、だれも壕から出ることはできなかった。瀬底さんは工業学校の戦没者名簿から具志堅という名を探してみたが見つからない。

   ◇   ◇

 瀬底さんらが捕虜になったのは終戦からかなりたった10月3日だ。6月下旬の司令部壕の落盤で負傷した上前寛市さんも、かなり弱っていた。瀬底さんも地雷に吹き飛ばされた時、30カ所に大小の傷を負い元気はなかった。

 南部の収容所に着いた時、元警察署長だった責任者に「上前君は弱っており、早く医者に見せてもらいたい」とたのんだ。だが、返って来た言葉は「学徒兵でも陸軍2等兵は陸軍2等兵。そんな言い訳は聞けない」と断られ、トラックで屋嘉収容所に運ばれた。2、3日して上前さんは傷口が悪化、死亡した。

 「軍部とともに威張り、私たちを戦場へ駆り立てていた警察幹部が、そのころには米軍の下で威張っている。たった1人生き残った学友も彼が奪った。今でも彼に対して怒り、うらみは消えない」―純心であるがゆえに、戦場での犠牲も大きかった学徒だけに、変わり身の早い大人たちの身勝手さは許せなかった。

(「戦禍を掘る」取材班) 1984年12月19日掲載

 

【追記】

沖縄戦記『鉄の暴風』、慶良間諸島の記述は嘘

 世界日報 2020/8/05  

終戦から75年 沖縄戦の真実を語る(上)

 今年は終戦から75年。戦争の生き残りや当時を知る証言者が少なくなり、歴史の風化も懸念される。中でも、沖縄戦については、沖縄の復帰前後から自虐的な論調が目立ち、軍の命令による集団自決という事実と異なる概念が定着した。集団自決が起きた慶良間諸島で戦争聞き取り調査をした作家の星雅彦氏と沖縄戦ノンフィクション作家の上原正稔氏に沖縄戦の真実について語ってもらった。2回に分けて掲載する。(聞き手・豊田 剛)

沖縄県文化協会顧問 星 雅彦氏
ノンフィクション作家 上原 正稔氏

記者は現地取材せず、左翼が広めた造語「集団自決」

 ――星さんは沖縄戦の聞き取り調査をしているが、どういういきさつで仕事を引き受けたのか。

沖縄県文化協会顧問 星 雅彦氏(豊田 剛撮影)

――星さんは沖縄戦の聞き取り調査をしているが、どういういきさつで仕事を引き受けたのか。

沖縄県文化協会顧問 星 雅彦氏(豊田 剛撮影)

  自分は那覇で生まれ育ったが、戦争で熊本に疎開し、その後、東京で暮らした。1965年に沖縄に戻り、美術の仕事をしている時、沖縄県史編纂(へんさん)所の名嘉(なか)正八郎所長に頼まれ、68年から1年半ほど聞き取り調査をした。

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新(4)貶められた旧日本兵、遺族会証言⇒集団自決者も準軍属に、

2021-06-23 09:19:46 | ★改定版集団自決

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集団自決者も準軍属に、貶められた旧日本兵(4)2013-07-11 

 

【連載】貶められた旧日本兵-「援護法」に隠された沖縄戦の真実 (4)

遺族会幹部証言/集団自決者も準軍属に

 沖縄県遺族連合会のある役員は、同会が内部向けに発行した記念誌を提供してくれた。

 同誌に掲載されている座談会では、援護法の申請・適用に従事した遺族会幹部の苦労話がつづられている。その中で戦没者の処遇に関する発言のみを抜粋、引用する。ある幹部は語る。

 <就職十日目に「厚生省から係官が来るから座間味と渡嘉敷の集団自決を調べて来なさい」と言われて慶良間に行きました。援護法が出来たばかりで勉強もしていなかったので驚きながら、すぐ船で座間味に行き二泊して村役所で集団自決の話を聞き、船を用意してもらい渡嘉敷に渡り、渡嘉敷に二泊して集団自決の状況を聞き取り、事務所に戻ってレポートを提出しました。「大変な仕事を仰せつかったなあ」と思いましたが、のちに集団自決も戦闘協力で「準軍属扱い」処遇につながったのでいいことをした、と今ではおもいます。
 これが私の遺族会での初仕事です。>

 一人でも多くの県民に援護法を適用させるよう努力をしたことが証言で分かる。

 <戦没学徒の身分確定は、「十七歳以上は軍人」という規定があって四、五年生は十七歳以上で軍人なのですが「十七歳以下は軍属、女子は軍属」つまり一番戦死者が多い通信隊は二、三年生で十七歳未満で、肩章をつけていたのに軍属なんです。

 これには納得がいかず昭和三十年に「沖縄戦戦没学徒援護会」を作ってそこを中心に陳情や街頭での署名運動を展開しました。

 一万名の署名が集り、日本遺族会事務局長だった徳永正利先生が来沖された時にこれをお預けして、本土に持ち帰られ、国会で激論されて五年位かかって「男子学徒の戦没者は年齢を問わず全員陸軍上等兵にする」「女子は軍属とする」と身分が確定されました。

 17歳以下の学徒は誇りを持って日本軍と一緒に戦ったのであるから、「軍人」「軍属」として扱われるべきだとする遺族会の主張が認められた。戦後盛んに言われたように、沖縄県民、その中でも、学徒隊は「被害者」でも「哀れな乙女」でもないのである

 また、軍人軍属の戦死を証明する「死亡公報」も重要な事務処理のひとつだった。遺族の申し出を元に、戦没日時、場所、死亡時の状況、発見者を添えることが必要とされていた。

 <「沖縄戦で亡くなった軍人・軍属の死没処理」がありました。

 沖縄戦で戦没した沖縄本籍の軍人・軍属の数は約二万五千名なんですが、昭和二十九年の時点で死没処理された戦死公報の受領者は六千八百名。まだ約一万八千名が戸籍上は生きていて、「援護金の請求が出来ない遺族」が大勢いました。それで「戦死公報をとる」ため各市町村を回り、学徒は「現認書」(現認書類)、軍人・軍属は「申立書」を、遺族から聞いて代筆して書きあげました。>

(「沖縄戦の真実」取材班)

渡嘉敷島にある集団自決の碑

 

【おまけ】富村順一氏の独白

将校と自決した慰安婦

 実は私は約五年間、大阪の高島屋の前で路上生活をしながら沖縄戦を訴えてました。梅沢隊長は何十回も私の所へ来て下さいました。

 一番悲しいのは、慰安婦から従軍看護婦になった女性のことです。一人の将校が重傷を負い、慰安婦だった朝鮮人女性が野戦看護婦となり、看病に当たった。重傷の将校は意識が朦朧としたのか、「お母さん、お母さん」と叫ぶので、その看護婦は自分の乳房を将校の口に含ませたようです。すると二、三分は唸り声も治まるが、また繰り返す。その野戦看護婦はそばに居た衛生兵達に「外へ出て下さい。わたしがお伴します」と云って、自分の乳房を将校に含ませた儘、手榴弾を爆破させ、自爆したということです。この朝鮮人慰安婦は当時朝鮮は日本だったので、日本の皇民化教育を受け、日本の女性として誇りを以て、負傷した将校と共に自決したのだと思います。

沖縄人の見た沖縄戦② -座間味に咲けよ桜と木槿-      

 昭和史研究会会報130号 沖縄人の見た沖縄戦 ② 富村順一

 

 オモニーが語る木槿さん

 話は違いますが、私が高島屋の前の軒下で五年以上、雨の日も風の日も路上生活していた頃、月に二、三回私の所にホルモン焼きやキムチの漬物を持ってくるお婆ちゃんがいました。時々私が訴える話をじっと聞いていましたが、ある日のこと「実は座間味島に木槿の木を植えたい」という話がありました。「何故あなたは座間味島に木槿の木を植えたいのですか」と訊いたところ、「一年足らずであったが座間味に居りました。金木槿という友達が座間味島で戦死をしました。実は私は木槿さんと一緒にお仕事をしていました」と話されたのです。木槿と同じ釜山の出身で、座間味島に来たようです。金木槿さんとは隣近所で、朝鮮人に騙されて日本に来てくれと云われ、慰安婦にさせられたと云うことです。「木槿の家もよく知ってますが、名前と同じような木槿の木を彼女のお父さんが庭に植えていて、毎年その花は咲いてます。私はその木槿の花を見るのが辛くて、また日本にやって来ました。」

 余り詳しくは語りませんでしたが、座間味島で日本兵と共に自決した金木槿さんの友であり、戦場の慰安婦でもあり、また看護婦でもあった女性でした。

 朝鮮人に騙され慰安婦に 

 その女は釜山の中学校を卒業してます。木槿さんは大正生まれで、日本人として生まれて日本人として学校に行ったそうです。そうして朝鮮の病院で見習い看護婦をやっていたのですが、同じ朝鮮人に、日本に病院の仕事があるからと騙されて日本に連れて来られたのです。強制連行されたのではありません。これはそのオモニーの話です。

 そのオモニーは奥さんを亡くした韓国人の後妻になってホルモン焼き屋をしていたんです。難波にお店があったようで、一週間に一遍来てくれました。そして私が梅沢さんと相談して書いた座間味の看板を見て話しかけてきたのです。私はあんな達筆の看板は書けない。私が頼んで梅沢さんが公園で書いたんです。

 私が高島屋の正面玄関の前でそんなことが出来たのは、野村秋介さんのお蔭でもあるんです。野村秋介さんが山口組の南一家のヘンジャンテさんに頼んでくれたんです。東京でも野村秋介さんが、やくざ者に妨害されないように紹介状を書いてくれ、木刀まで貰いました。

 桜と木槿を座間味の島に

 私はその女性と約束したことがあります。いずれ一緒に力を合わせてあの座間味の島に木槿だけではなくて、日本の桜も植えようではないか。一緒に自決した軍人は桜に譬え、木槿は韓国の花であるから、二つ一緒に並べて植えれば、天国の二人も喜ぶのではないか、というような話をしたこともあります。 だがそれから私は高島屋の前に出られなくなって、その小母さんと会うことが出来なくなりましたが、たしか大阪の生野区にいらっしゃるという風に話してました。

 もし自決した慰安婦が日本人であったならば、大和撫子として誉め称えられたと思う。

 今度の裁判(集団自決冤罪訴訟―中村)は元部隊長を支援するだけではありません。元部隊長の無実を明らかにすることで教科書を正しく直すことも私の目的の一つです。

 また仮え朝鮮人慰安婦であっても、戦場で従軍看護婦となり、負傷した日本軍人のお供をして自決したとなれば、放っておいてはいけません。日本人として日本の教育を受け、少くとも大和魂があったからこそ、自決したと私は思ってます。私は大和魂には余り賛成しませんが、彼女はそう信じて日本軍人のお供をした訳ですから、私は日本政府だけでなく国民もその慰安婦に感謝すべきだと思います。

 自決した沖縄出身の大城明さんにとっては六十年経ってもまだ戦争は終っていなかった訳です。その自決に追い込んだのは『沖縄タイムス』、沖教組、関係者が捏造した本が原因です。これでは大城明君も報われない。また野戦看護婦として自決した金木槿さんも浮ばれない。いま私は、いずれ体が回復すればあの座間味島に木槿の木と桜の木を植えたいのが願望です。そのことについて協力して下さるという方々もいらっしゃいます。私は一日も早くそれが実現出来るようにいま努力しています。彼女は日本の教育を受け、私の想像では大和撫子の魂をもって自決し、お供したと思います。(完)

              ★

 沖縄タイムスなど沖縄メディアが担ぐ神輿にに乗った富村順一氏。

沖縄タイムス御用達の識者でいる限りは、沖縄メディアに文章を書いたり、講演活動などで、それなりの生活が出来たはず。

だが、富村氏が独特の動物的嗅覚で「集団自決の真相」を知ってしまってからは、それまでの生活は一変、極貧生活になる。 

富村氏の経済的基盤を支えていたサヨク勢力との付き合いを一切断ったからだ。

そしてサヨク活動家の暴力で、車椅子生活を余儀なくされても「大江・岩波集団自決訴訟」では不自由な体をおして原告応援に駆けつけた。

「人間、死ぬ前には嘘はつかない」という話しは、どうやら本当のようだ。

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笛吹けど踊らず!慰霊の日「知らない」75.5% タイムス・ヤフー 全国調査

2021-06-23 05:26:51 | ★改定版集団自決

慰霊の日「知らない」75.5% タイムス・ヤフー 全国調査 沖縄戦の知識 低い認知度

2021年6月23日 05:00有料

 戦後76年の「慰霊の日」に合わせ、沖縄タイムス社とヤフーは全国の人を対象に、沖縄戦の認識を問うアンケートを実施した。回答者2千人のうち、75・5%にあたる1509人が慰霊の日を「知らなかった」と回答した。

 「沖縄戦」について聞いたことがある人に誰から聞いたか、または何で知ったか(複数選択可)を聞いた質問では、全体の60・8%にあたる1216人が「テレビや新聞のニュース」と回答。「テレビドラマや映画」が43・3%(866人)、「沖縄戦について聞いたり見たりしたことがない」が18・3%(365人)と続いた。

 沖縄戦を学校で学んだ記憶については全体の28・2%(564人)が「学んだ記憶がない」と回答。「学んだかどうか分からない」が24・7%(494人)、「中学校で学んだ」が19・9%(398人)だった。

 今回のアンケートでは沖縄戦の体験者や、家族や親族、友人・知人から聞いたことがある人ほど、慰霊の日を「知っていた」と回答した人が多かった。また、沖縄戦関連の書籍で沖縄戦について知ったという人もいた。テレビや新聞のニュース、テレビドラマや映画で沖縄戦に触れていても、「慰霊の日」の認知度との関連性は低かった。

 沖縄大客員教授の新城俊昭さんは「(75・5%は)残念というほかない。沖縄戦に関する報道も沖縄と全国では差がある。全国の人たちが沖縄戦のことを目にしたり、耳にしたりする機会は少ないため、『知らなかった』という数字が大きくなったのだろう」と指摘した。

 沖縄タイムスは今回、ヤフーとの共同調査を実施。7~8日、10代以上のヤフーユーザーを対象にインターネット上で回答を募った。調査の詳細はQRコードから確認できる(23日午前5時10分から公開)。(デジタル部・比嘉桃乃)

(写図説明)慰霊の日だと知っていたか

(写図説明)学校で学んだ記憶はあるか

 

【おまけ】

沖縄タイムス紙面掲載記事

軍強制の記述 復活要求/教科書問題 11年目の報告集会

2018年10月7日 00:00有料

 沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」を巡り、高校の歴史教科書から削除された「日本軍の強制」や「軍命」の記述復活を求める「9・29県民大会決議を実現させる会」が6日、那覇市内で11年目の報告集会を開いた。教科書問題の経緯を振り返ったほか、沖縄戦で子どもがゲリラ戦に駆り出された「護郷隊」について学び、2007年の県民大会で決議した教科書検定意見の撤回と「強制」の記述復活を要求し続けることを確認した。

 教科書執筆者で、歴史教育者協議会副委員長の小松克己さんは「教科書検定の実態と沖縄」と題して講演。教科書検定基準などの改定以降、「政権の歴史認識に沿った内容を書かせる狙いが露骨になっていると感じる」と指摘した。

 教科書執筆者による琉球・沖縄史の研究が不十分である可能性に触れ、検定審議会の委員に沖縄近現代史の研究者を任命することなど、文部科学省への要請を強化することを提言した。

 名護市市史編さん室の川満彰さんは、北部地域を中心に10代の少年をゲリラ部隊に組織した護郷隊について、生き残りの元隊員から聞き取った戦争体験を紹介した。隊長がスパイと決めつけた隊員を殺すように別の隊員に命じたり、けがをして歩けなくなった隊員を軍医が殺したりといった証言を挙げ、日本軍による命令や虐殺があったことを説明した。

 琉球大学の高嶋伸欣名誉教授は、教科書から「日本軍による住民殺害」が全面削除されたことに県民が抗議し記述を復活させた1982年の出来事など、教科書問題の経緯を振り返り、要請を続けていくことの重要性を強調した。

(写図説明)県民大会決議の実現を求め、ガンバロー三唱する参加者=6日、那覇市古島

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手りゅう弾軍命説の破綻、日本兵に手りゅう弾渡す、 [戦後76年]秘した沖縄戦 

2021-06-23 05:02:44 | ★改定版集団自決

沖縄タイムス紙面掲載記事

戦後76年]秘した沖縄戦 今こそ 渡口彦信さん(94)読谷村

2021年6月22日 05:00有料

 【読谷】県内外で沖縄戦体験を語ってきた読谷村の渡口彦信さん(94)は21日、本紙の取材で、自責の念に駆られてこれまで語ってこなかった戦争体験を明かした。旧日本軍の同じ部隊の負傷兵に手りゅう弾を渡したこと、水を求めて懇願する女性の前を素通りしたこと。「人が人でなくなる戦争は二度としてはいけない」と言葉をつなぐ。

 1945年3月、当時18歳の渡口さんは高射砲隊に配属され、戦地で砲弾運びや水くみをしていた。米軍の機銃掃射や艦砲射撃などの攻撃に、上官や兵士が次々と死傷した。

 同じ隊員で奄美大島出身の桜田1等兵もけがを負った。「ほぼ毎夜、別の壕にいる彼におにぎり一つ渡しに行って元気づけた」。ある日、上官から命じられ、おにぎりの代わりに手りゅう弾を渡した。「自決用の手りゅう弾。渡す時はお互い、何も言わなかった」

 圧倒的な米軍の戦力を目の当たりにし、皆死ぬと思っていた。皇民化教育で「国のために死ぬもの」と信じ込んでいた。

 「私だけ生き残ってしまった」。胸につかえる思いを抱えながら、65年に奄美大島で桜田さんの兄弟を捜して訪ね、桜田さんの戦死を知った。自決したかどうかは定かではないが、遺族には「何と言っていいか分からなかった」。

 腰に水筒を掛けながら本島南部へ後退する道中、「水を下さい」と手を差し伸べてきた女性も忘れられない。視線は合ったが、そのまま通り過ぎた。なぜ、あのとき水を分けなかったのか。南部の道を通ると、女性のか細い声が聞こえてくるような気がする。

 戦後76年を迎え、戦争体験を語れる人が減る中、風化を懸念する渡口さん。生き残った者の宿命として「地獄よりひどい戦争を、後世に伝えていく」と誓った。(中部報道部・宮里美紀)

(写図説明)これまで語ってこなかった沖縄戦体験を語る渡口彦信さん=21日、読谷村内の自宅

                 ★

「手りゅう弾軍命説」の破綻!兵事主任富山真順の悲しい嘘2008-03-27

悲劇の日、「集団自決」犠牲者に史実継承誓う/座間味

 「集団自決(強制集団死)」訴訟の判決を前に、「沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会」が二十五日、那覇市の教育福祉会館で集会を開いた。
 集会では、訴訟の経過や双方の主張、争点を分かりやすく伝えようと、模擬裁判が開かれた。同会会員が裁判官や原告、被告双方の弁護士に扮し、当時の戦隊長による直接の軍命の有無とその根拠、「集団自決」に使われた手榴弾の配布の事実や戦隊長の関与などをめぐり、法廷さながらの緊迫したやりとりを演じた。

 裁判官役が「なぜ『集団自決』が起きたと考えるのか」と問い掛けると、原告側役は「『戦隊長命令、軍命があったから死んだ』というのはあまりにも軽率だ。米軍に対する恐怖心や家族愛、狭い島での同調圧力が働いた」と主張した。

 被告側役は「当時は、戦陣訓や三二軍による『軍官民共生共死』の方針が徹底されていた。大変に貴重な武器だった手榴弾が戦隊長の許可なしに住民に渡されることは考えられない」と反論した。

 最後に、裁判官役が「沖縄戦では軍と住民の関係が如実に現れた。この教訓をどう学び、どう生かすかが問われている」と呼び掛けた。

                                                ◇

判決日(28日)直前になってこんなクダラナイ猿芝居をもっともらしく報じるところに沖縄タイムスの焦りが垣間見れる。

タイムスのベテラン記者が筆者の知人にふと漏らしたという一言が脳裏をよぎる。

「この裁判に負けたらタイムスは大変なことになる」。

大変に貴重な武器だった手榴弾が戦隊長の許可なしに住民に渡されることは考えられない

そう、「考えられない」のも道理で、「手りゅう弾交付説」自体が真っ赤な嘘だったのだ。

 

裁判の訴因は「名誉毀損」だが、最も注目を浴びるのは「集団自決」における「軍命の有無」だ。

これまで被告側がどこをひねくり回しても「軍の命令があった」という証拠は出てこなかった。

その結果出てきたのが、

「軍命の有無は問題ではない」、「タテの構造云々・・・」等の詭弁の数々。

これでは話にならない。

そこで被告側が唯一しがみつくのが上記記事でも出てくる「手りゅう弾軍命説」。⇒「大変に貴重な武器だった手榴弾が戦隊長の許可なしに住民に渡されることは考えられない」

「手りゅう弾配布」を証言したのが当時の役場の兵事主任をしていた富山真順氏(故人)。

この証言は裏づけの無いまま一人歩きして各メディアを流布し被告側唯一の物的証拠といわれた。

だが裏付け検証の結果富山証言は虚偽であることが立証されている。
   
富山証言の破綻の詳細は以下に引用。

3 富山(新城)真順
村兵事主任当時29歳。家永訴訟にのぞみ、《3月20日手榴弾交付説》を証言。(Ⅱ)
(1) 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』(昭和28年)(乙10)
富山真順が、文献上初めて登場する。ここでは、《3月20日手榴弾交付説》に何ら言及していない。
(2) 『生き残った沖縄県民100人の証言』【昭和46年11月発行】(甲B21)
「3月23日夜、島は大空襲を受け・・・いよいよ決戦だという実感がこみあげてきたのはこのときでした(要旨)。特別幹部候補生も各船舶で特攻する準備を始めていた。顔見知りの学生に会うと、涙を流して『あなたがたは生きのびてください。米軍も民間人までは殺さないから』というのですな。若いのにしっかりした人でした。(中略)自決のときのことは、話したくないんですがね・・・いざとなれば敵を殺してから自分も死のうと・・・いつも二個の手榴弾をぶらさげていた。ところがイザ玉砕というとき、私の手榴弾は爆発しない。」
  ※ 《3月20日手榴弾交付説》は、この時点でも証言されていない
(3) 『ある神話の背景』曽野綾子著【昭和48年5月発行】(甲B18)
   『ある神話の背景』には、富山真順の話は出ていない。
    《3月20日手榴弾交付説》の証言は、《赤松命令説》とは何ら関係がないのである。
(4) 『渡嘉敷村史 資料編』【昭和62年3月31日発行】(甲B39)p369~372
   「兵事主任」の役割
「昭和十八年秋に、師団動員事務規程が改正になって、防衛召集は、市町村長に委任され、あっち(軍)から赤紙が来ていて、市町村長が、それを本人(召集者)に伝えて、それで市町村長の兵事主任との前打ち合わせがあって連隊区司令部の担当者(足立大尉)と、誰それは次の召集者と定めたりした。」(p369)
    しかし、《3月20日手榴弾交付説》にまつわる話は一切ない
(5) 小括
富山真順の《3月20日手榴弾交付説》は、金城重明の「誰も貰っていない」旨の証言、手榴弾の交付対象となる吉川勇助の陳述書においても何ら証言されていないこと等から、破綻していると言わざるを得ない。(沖縄集団自決冤罪訴訟最終準備書面http://osj.jugem.jp/?eid=28


                     ◇

このほかにも富山証言の「手りゅう弾交付説」が嘘であることは思わぬところから馬脚を現している。

「軍命あり派」側の「論客」である渡嘉敷島住民の源哲彦氏(61歳)の新聞投稿から発覚したのだ。

源氏とは、終始「軍命あり」の証人として沖縄紙のオピニオン面に活発に投稿している人物。

年齢から源氏は戦争体験はないようだが、重要証言者富山眞順氏から生前次の言葉を直接聞いていたというのだ。

「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持って行く」

以下に源氏の沖縄タイムス「論壇」投稿分を抜粋引用する。 

「論壇」

「真実」は消せない  軍命による集団自決

源哲彦 (渡嘉敷村、61歳)

(前略)

住民の「集団的な殺し合い」は一夜明けた3月28日に起こっている。
この事件について重大な事実が明らかになっている。 すでに米軍上陸前に、兵事主任新城真順(戦後改正して富山)を通じて「玉砕(自決)命令」が出されていたのである。 島の住民と軍との関係を知る重要な立場にいたのが兵事主任である。 兵事主任は徴兵事務を取り扱う専任の役場職員である。 
戦後、富山眞順(故人)は、軍から「自決命令」が出されていたことを明確に証言している(以下『渡嘉敷村史・通史編』。
①1945年3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任に対し渡嘉敷の住民を村役場に集めるよ命令した。 兵事主任は、軍の指示に従って、「17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に召集した」。
②その時、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手りゅう弾を2箱持って来させた。 兵器軍曹は集まった20数人の者に手りゅう弾を2個ずつ配り、「訓示」をした。 「米軍と渡嘉敷島の玉砕は必至である。 敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのあるときは、残りの1発で自決せよ!」。 このことを「軍の命令」、「軍の強制あるいは関与」がなかったとはいえまい。 当時の村長や兵事主任はすでに故人となり、生の声で、「証言」を聞くことはできないが、富山氏は生前「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持って行く」と言ったのを直接聞いた事がある。(沖縄タイムス 2007年9月2日)

 

わざわざ説明すまでもないが「真実を墓場まで持って行く」とは「死ぬまで真実を語らない」ということ。

富山氏は生前、同郷の後輩源哲彦氏に生の声で「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持って行く」と語っていたのだ

という事は戦後、重要証言として「軍命あり派」の唯一の証拠といわれた「手りゅう弾交付説」は富山氏が、何らかの理由でつかなければならなかった「嘘の証言」であった。

戦後、「集団自決」の真相がばれると「年金給付」が止められるという噂が村の長老の間に流れていた。 富山真順氏も宮城初枝氏もこういった噂を背に受けて嘘の証言をしなければならない悲しい立場にあった。

その「嘘と」と「真実」の狭間の心の葛藤が富山氏の「真実を墓場まで持って行く」という言葉に凝縮されている。

富山証言が嘘であることは下記エントリーでも詳述している。

 

「真実」は墓の中まで 「虚偽」と「真実」の戦い 「集団自決」訴訟2007-09-09 

「軍強制」を証言へ 廷岩波「集団自決」訴訟  

 沖縄戦中の1945年3月末、米軍が上陸した渡嘉敷・座間味両島で起きた「集団自決」(強制集団死)をめぐり、日本軍の隊長命令があったとする岩波新書『沖縄ノート』などの記述は誤りで名誉を傷つけられたとして、当時の戦隊長と遺族が出版元の岩波書店と作家の大江健三郎氏を相手に出版差し止めなどを求めている訴訟で、大阪地裁(深見敏正裁判長)は10日午後、福岡高裁那覇支部で出張法廷(所在尋問)を開く。 住民329人が「集団自決」で亡くなった渡嘉敷島で「集団自決」の当事者だった金城重明沖縄キリスト教短期大学名誉教授(78)=当時16歳=が証人として出廷。同島での「集団自決」について軍の強制や関与があったことや当時の状況などを証言する。法廷は非公開。訴訟は今後、11月に大江氏らの尋問、12月に最終弁論を行って結審し、来年3月までに判決が言い渡される見通し。金城氏の出廷で訴訟は大詰めを迎える。
 原告の元戦隊長側は「集団自決は住民の自然な発意によるもの」などと主張してきた。
金城氏は島で起きた「集団自決」に対する日本軍の強制や関与について、体験に基づき具体的に証言。原告側が隊長命令の有無だけを争点として主張しているのに対しては皇民化教育や日本軍の「軍官民共生共死の一体化」の方針など「集団自決」の背景にも触れながら、法廷で「集団自決」の実相を明らかにするとみられる。
 金城氏が「集団自決」の当事者として法廷の証言台に立つのは、1988年の第3次家永教科書訴訟沖縄出張法廷以来、19年ぶり、2度目。97年の最高裁判決は「集団自決」の原因として軍の存在や誘導を認定した。
 9日午後6時からは那覇市古島の教育福祉会館で前日集会、10日は午後一時から那覇地裁前で事前集会、午後4時半からは同市松尾の八汐荘で金城氏や弁護団による報告集会が行われる。

(琉球新報 9/9 9:51)

                     ◇

大阪地裁は10日午後、福岡高裁那覇支部で出張法廷を開き「渡嘉敷島集団自決」の生き残り金城重明氏の法廷尋問を行う。 

この裁判のハイライトとも言える金城氏の法廷証言でこの裁判も愈々大詰めを迎える。

これを受けて9日の琉球新報はまるで開戦前夜のような大騒ぎで紙面を「集団自決」関連記事で埋め尽くしていた。

                    

出張尋問は非公開なので当然証言内容を知ることは出来ないが、金城氏はいろんなメディアで証言しており、その証言の概略は本土新聞の記事から見ることが出来る。

2007年4月1日付の「筆洗」より。

東京新聞:六十二年前、目の前で起きたことが金城(きんじょう)重明さん…:社説・コラム(TOKYO Web)

以下引用。

 六十二年前、目の前で起きたことが金城(きんじょう)重明さんのまぶたには焼き付いている。村長の「天皇陛下万歳」の三唱を合図に、多くの家族が次々と手榴(しゅりゅう)弾を爆発させた。約一週間前、日本軍が一人に二個ずつ配った。一つは敵に備えるため、もう一つは自決用だったという▼沖縄県に属する慶良間(けらま)諸島最大の島、渡嘉敷(とかしき)島での出来事だ。当時十六歳の金城さんには手榴弾が回ってこなかった。だから二つ年上の兄と一緒に泣き叫びながら、石を持った両手を母親の上に打ち下ろした。次に九歳の妹と六歳の弟の命も絶った。どうやったのか記憶はない▼米軍が三月下旬に慶良間諸島、四月一日に沖縄本島に上陸して始まった沖縄戦は「軍民一体」の戦争だった。渡嘉敷島では軍の指示を受けた村長のもと、住民は日本軍の陣地近くに移動させられ「ともに生き、ともに死ぬ」と教えられた。手榴弾の配布は「自決せよという言葉以上の圧力だった」という▼文部科学省による高校教科書の検定では、集団自決を日本軍が強制したという趣旨の記述が修正された。例えば「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいがおこった」と▼同省は「近年の状況を踏まえると、強制したかどうかは明らかではない」と説明している。自由意思とでも言いたいのだろうか。金城さんは「歴史の改ざん。軍の駐留先で集団自決が起きている。本質はそこにある」と訴えている▼金城さんにとって、語りたい過去ではないはずだ。過ちを繰り返さないため、歴史の証言者になっている。耳を傾けたい。

(東京新聞 2007年4月1日付コラム 「筆洗」

                     ◇

偶然にも一週間前の9月2日の沖縄タイムス「論壇」に渡嘉敷在住の源哲彦氏が手りゅう弾に関する重要な発言をしていた。

その該当部分を抜粋次に引用する。

≪・・・戦後、富山真順氏(故人)は、軍から「自決命令」が出されていることを明確に証言している(以下『渡嘉敷村史・通史編』。

①1945年3月20日、赤松隊長から伝令が来て平時主任に対し渡嘉敷の住民を役場に集めるように命令した。 兵事主任は軍の指示に従って「17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に招集した。

②その時、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手りゅう弾を2箱持ってこさせた。 兵器軍曹は集まった20数名の者に手りゅう弾を2個ずつ配り、“訓示”をした。「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。 敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのあるときは、残りの1初で自決せよ!」。

このことを「軍の命令」、「軍の強制あるいは関与」が無かったとは言えまい。 当時の村長や兵事主任はすでに故人となり、生の声で「証言」を聞くことは出来ないが、富山氏は生前「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持っていく」といったのを直接聞いた事がある。≫(沖縄タイムス

長々と源氏の「論壇」を引用したのには金城重明氏の証言に重大な関連があるからだ。

戦後、富山真順氏(故人)は、軍から「自決命令」が出されていることを明確に証言している(以下『渡嘉敷村史・通史編』。

奥茂治氏が実際に『渡嘉敷村史・通史編』の該当部分を確認したら、富山証言のいたるところに「軍命により」との書き込みが挿入され、その部分はインクの色、筆跡からいって後日書き込まれたことが明らかだったという。

>兵事主任は軍の指示に従って「17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に招集した。
・・・兵器軍曹は集まった20数名の者に手りゅう弾を2個ずつ配り、“訓示”をした。「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。 敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのあるときは、残りの1初で自決せよ!」。

しかし、当時16歳の金城重明氏は「手りゅう弾は貰っていない」と証言している。 そのため二つ歳上の(18歳)の兄と二人で母や弟、妹を石で撲殺するという悲惨な体験をすることになる。

手榴弾を貰ってなかったから結果的に生き残ことになったのだ。

当時16歳の少年より、当時の実情を知っていたのは村長や兵事主任の富山氏だろう。

だが、金城氏が実際に手りゅう弾を貰っていない以上、「村史」に書かれた富山氏の証言は嘘ということになる。

源氏が富山氏の生前「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持っていく」という言葉を直接聞いたとすると

富山氏が今まで話してきた証言は嘘だということになる。

富山氏は(何らかの目的の為に)嘘を「村史」に残して真実は墓場の中まで持っていったことになる。

計らずも源氏は富山氏の生前漏らし言葉を直接聞くことにより富山氏の嘘を自ら証言する形になった。

してみると源哲夫氏の「論壇」の、「真実」は消せない 軍命による集団自決

というタイトルが妙に意味深に思える

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集団自決、戦陣訓の神話-マスコミが作った戦後の後知恵

2021-06-22 05:34:53 | ★改定版集団自決

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続・戦陣訓の神話2009-11-02

 

戦陣訓軍命説の神話の続編です。

◆「ビルマの竪琴」という映画を見た。

大戦末期のビルマ。

ビルマからタイへ逃れようとしていた井上部隊は、 そこで戦争の終結を知り、 イギリス軍に降伏し、 捕虜収容所へと送られることになる。

疲れきった隊員達の心を唯一慰めるのは、 水島上等兵の奏でる美しい竪琴の音色。そんな中、 未だに徹底抗戦を続ける友軍を説得する任務を水島が任されることになった。

しかし、 彼の説得は受け入れられず、 友軍部隊は全滅する。

1人生き残った水島はおめおめと原隊に戻る事が出来ず、そのまま姿を消してしまう。

やがて収容所に着いた井上隊は、 そこで水島とよく似た僧侶に出会う。

「水島、一緒に日本に帰ろう」と柵の中から呼びかける戦友達の声に寂しそうに顔をそむけて立ち去る僧衣の水島の姿が印象的。

彼は、 戦死した日本軍の霊を慰めるため故国への帰還を拒絶してビルマに残ったのだ。

彼が帰国を拒否してビルマに残った心境は何だったのか。

投降説得に失敗して友軍を全滅させてしまい、ただ1人生き残ってしまったことだった

そう、「恥ずかしながら」生き残ってしまったのだ。

 

◆横井軍曹や小野田少尉そして水島上等兵は「仲間」が全滅し自分だけが生き残ったことに「恥ずかしながら」或いは「申し訳ない」という心境だったと推測できる。

だが、彼らが一つだけ救われるのは「仲間」が全滅したのは、敵であるアメリカ軍の攻撃による戦死だったことである。

ところが「全滅」から生き残りながらも救われない人々がいた。

◆沖縄慶良間島の「集団自決」を生き残った人達である。

彼らの「仲間」は敵米軍の攻撃による戦死ではない。

敵ではなく、日本人同士お互いの手で親兄弟、或いは知人縁者を「全滅」させたのだ

「恥ずかしながら」生き残ったや「申し訳ない」では済まされない。

深淵な「贖罪意識」を胸に秘めて戦後を生き抜かねばならなかった。

例え戦時中で敵に取り囲まれ無差別攻撃を受けたパニック状態の出来事だとは言え、戦後の贖罪意識は消えることはない。

自分の手にかかって「全滅」した「自決者」のことを考えると、理由はともあれ集団自決体験者が「贖罪意識」に駆られるの当然のことだろう。

「集団自決体験者」の「贖罪意識」に巧妙に入り込んだのが、左翼学者集団の「反日思想」である。

「残虐非道の日本軍」という左翼の扇動に集団自決の生き残りの人々が引き込まれていくのは自然の成り行きであった。

結果として「集団自決軍令説」が形作られていく。

「体験者達」は「軍の命令で仕方なく」親兄弟、知人縁者を手にかけたと主張することで、心の奥に潜む「贖罪意識」は少しは緩和されたのだろう。

これに「援護法」の適用の問題が絡み、更に問題を複雑にしていく。

                      ◇

■戦陣訓に拘束力はなかった―司馬遼太郎

1972年4月、グアム島の生き残りの横井さんが帰国した時、マスコミは「恥ずかしながら生きて帰った」と言う発言に対し、

マスコミは、それまであまり聞かれることがなかった東条英機作「戦陣訓」という「点」と「横井さんの帰還」という点を強引に線で結んで一つの「面」を創造し報道した。

それは「生きて虜囚の辱を受けず」の精神に横井は縛られていたかのような報道だった。

集団自決の「戦陣訓神話」が誕生し瞬間であった。

ところが、自らも陸軍にいた司馬遼太郎氏は戦陣訓について、こうのべている。

戦陣訓という訓令があるとは知っていたが、どんな内容であるかは全く知らなかった。その程度のものだった」と。

司馬氏は、自らが理解できない出来事(横井氏の帰還)に明確な原因と結果を求めたがるマスコミの姿勢を批判した。

では、実際のところ、戦場での「戦陣訓」の拘束力はどうだったのだろうか。

学徒出陣し、戦車兵となった司馬氏が書き残している。

1972年のことだ。当時、元陸軍軍人の横井庄一が、グアム島で「発見」され、帰国した。 

司馬は横井について、いくつかの新聞社からコメントを求められた(大正生まれの『故老』=新潮文庫『歴史と視点』収録)。

同じ元軍人として、敗戦から27年間も潜伏していた兵士の心理を聞こうとしたのか、新聞社の質問者は司馬に「戦陣訓」の影響では、と問いかけた。 

問われた司馬は《なるほどそういうチャチな小冊子があったことを久しぶりで思い出した》。

しかし、それが兵士の意識を拘束したがために、横井のような人物が出たという見方には否定的だった。 《たかだか一省の大臣という役人が、法規を作るならともかく、孔子やキリストもしくは当時の天皇のように道徳をつくりだすような権能を持っていいものであるかどうかについては、これが刊行されたころすでに無言の批判があった》』、「司馬遼太郎」が「《なるほどそういうチャチな小冊子があったことを久しぶりで思い出した》。

しかし、それが兵士の意識を拘束したがために、横井のような人物が出たという見方には否定的だった」、と「戦陣訓」を軽視したようだ。

また司馬氏は戦陣訓について今でいえば生徒手帳の校則の記載があるように当時の軍隊手帳の戦陣訓は載っていたが、ほとんど読まなかったという。

同じく陸軍経験のある山本七平氏も戦陣訓については次のように明言し、戦陣訓の影響は戦争を知らない戦後の人々の後知恵であると喝破している。

たとえば横井さんが出て来たとき、すぐにその原因は戦陣訓ということになり、私自身も取材を受けたが、私は戦陣訓など読んだことはないし、部隊で奉読されたこともないと言っても、その人は信用しない。私は自己の体験を語り、その人は戦後生まれで軍隊を知らないのに信用しない。>(「私の日本軍」より)

陸軍経験のある多くの作家が戦陣訓について、司馬遼太郎氏と同じようなことを書き残しているが、安岡章太郎氏は前記山本氏を補足して次のように解説している。

≪ 戦陣訓に戻っていえば、私自身も一年半の軍隊生活で戦陣訓を強制的に講義されたりしたことは一度もない。それは軍隊内で、いわば体よく無視されていたと言えるだろう。
 しかるに現代のマスコミは、なぜ戦陣訓を重視したがるのか?それは山本氏も言うように、戦陣訓は実は当時のマスコミにかつぎ上げられてマスコミの中だけで拡まっていたものであり、それは現代のマスコミにも体質的に通い合うものがあるからではないか。

ちなみに戦陣訓は東条英機が首相になる前の陸軍大臣のころ公開されており、陸軍に反発する海軍には無視されていた。

戦陣訓を集団自決の「軍命説」の根拠にするのはNHKなど戦争を知らないマスコミが強引にこじつけた戦後の後知恵という山本七平氏の意見が正鵠を射ている。

陸軍や海軍に無視されていた戦陣訓に沖縄の民間人が縛られて集団自決をしたという説は、今では笑い話になっている。

                      ◇

◆「沖縄慶良間島の集団自決は軍の命令或いは強制によるものだ」と、主張する勢力は、これまでの論争の中で「軍命があった」という客観的証拠や、証言が無いと分かると戦術を変更し、「軍命の有無は問題ではない」と論点をすり替え始めた。

その論点すり替えの論拠が、

「軍官民共生共死」、「皇民化教育」、そして「戦陣訓」という三つキーワードであった。

ところが今回文科省が出したとされる指針によると、

日本軍だけが住民に「集団自決」を強制したと読み取れる表現を事実上、禁じている。 一方で「集団自決」が自発的な死ではなく、住民が「『集団自決』せざるを得ない状況に追い込まれた」ことは認め、その「背景・要因」を詳細に記述するよう促している。」(「軍だけが強制」禁止/文科省指針 全容判明 )

つまり、文科省指針は、これまで「軍命あり派」が「命令、強制」の根拠にしていた「軍官民共生共死」や「皇民化教育」といった左翼用語を使用しても(背景・要因)、日本軍だけが「集団自決」を強制したと読み取れる表現を禁じたのだ。

「軍命あり派」にとっては表現上非常に困難な立場に追い込まれたことになる。

>沖縄戦において「戦陣訓」は住民にも浸透していた。

沖縄在住の戦史研究家・奥茂治氏は「沖縄では戦時中といえども戦陣訓の『生きて虜囚の云々』は殆ど知られていなかった」と証言している。

「生きて虜囚の・・・」が初めて沖縄で知られるようになったのは、
昭和19年頃沖縄で放映された戦意高揚のニュース映画のアナウンサーの声で、初めてそんなものがあるのだと知られるようになったと言う。

そういえば、物故した筆者の父も生前、晩酌等などで御機嫌の時、戦時中に「教育勅語」を暗記した例は話していたが「戦陣訓」の話を聞かされた記憶は無い。

                    ◇

■横井庄一さんと共に戦陣訓は蘇った。

戦陣訓の「生きて虜囚の・・・」が亡霊のように甦ってきたのは戦後30年近くたって日本国民を驚かした横井庄一さんや小野田さんの帰還により、主として朝日新聞を筆頭にした左翼マスコミによって作り上げられた「後知恵」であり、捏造された歴史認識である。

そしてひとたびマスコミを通じて一人歩きを始めた「後知恵」は、一つの「歴史認識」として左翼学者の「歴史解釈」に多大な影響を与えた。

沖縄の左翼学者は横井さんや小野田さんの例と同じく、「歴史事実」である「集団自決」(点)と「戦陣訓」(点)の間を強引に線で結び、「沖縄戦において戦陣訓は住民にも浸透していた」という戦後の後知恵で次の結論をひねり出した。

「軍命による集団自決」、

つまり「嘘の歴史」をでっち上げたのである。

 

「付記」

戦陣訓の本訓その二 第八「名を惜しむ」項

恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜の辱を受けず、死して禍の汚名を残すこと勿れ。


【意味】
「恥を知る者は強いものだ。ふるさとの親類や家族の体面を考えて、(軍規に反して略奪や暴行などを行い)(憲兵に)捉えられてて収監されたり、死んでまでも罪人として扱われるような行動をしてはならない。」

「虜囚」は囚人であり、犯罪者の意味を持つ。

「俘虜」は捕虜の意味を持つが犯罪者の意味はない。

虜囚と俘虜という似た意味を持つ言葉を等式で結び、「犯罪を犯すな」と「捕虜になるな」とを同じ意味に捉えるのは捏造である。

確かに、「生きて虜囚・・・」と言ってはいるが「生きて俘虜・・・」とは言っては居ない。

【追記】

■五木寛之は軍人勅諭を暗記した

先日NHKラジオで聞いた作家の五木寛之のインタビュー番組で、戦時中の朝鮮の平壌の想い出話が出た。

その中で「小学校時代、教育勅語と軍人勅諭は必死になって暗記したので、今でも復唱できる」といった談話があったが、「戦陣訓」は話題にもならなかった。

当時の小学校には配属将校が軍事教育をしていたというが、軍人さえ良く知らないという「戦陣訓」が、教練の中にないのも当然だったのだろう。

戦時中の沖縄の学校で、将来軍人を目指す秀才達が必死になって「軍人勅諭」を暗記した逸話が県立ニ中(現在の那覇高校)の卒業生の文集に記録されている。

だが、ここでも戦陣訓の話は出てこない。

そもそも「教育勅語」も「軍人勅諭」も「勅」の字が付くので分かるとおり天皇陛下のお言葉(勅語)を文字化したものである。

従って当時の学生が「勅諭」や「勅語」を暗記しようと努力した気持ちは当時の時代背景から判断してもよく分かる。

ところが一方の「戦陣訓」は臣民である東条英機が発令したもので、軍人ならともかく、これを一般住民が必死に暗記したとは考え難い。

ましてや「戦陣訓」を自決命令と捉える「戦陣訓軍命説」は、戦後マスコミが作り上げた神話にすぎない。

沖縄の場合でも、当時のエリート高であった県立二中(現那覇高校)や県立一中の中でも当時の憧れであった士官学校への進学を希望する秀才達が競って暗記したのは「軍人勅諭」であった。

一般の小学校で「戦陣訓」を叩き込まれたという沖縄マスコミの論調は真っ赤なウソであることが分かる。

 

■那覇高校の大先輩も軍人勅諭を暗記した

以下の文は関東在住の「城岳同窓会(二中・那覇高同窓会)会報」よりの引用である。

城岳同窓会会報 第五号

座談会「素晴らしき青春―吾がニ中時代」を語る
日時:平成14年7月22日 場所:如水会館(東京・神田)

 
(略)

軍人勅諭を全文暗記したつわもの

北村:先生の話が出たところで、宮良(小宮)君関連のエピソードを一つ紹介しましょう。
 四年のとき教練の赤嶺先生(アカンミー)から「一週間以内に軍人勅諭を全文暗記して来い」との指示がありました。覚えてくる奴はまず居るまいと前文と忠節、礼儀の項だけを覚えて授業に臨みました。案の定、覚えきれた者はなくほぼ全員が失格。しかし、ここに居る宮良(小宮)君ただ一人が全文を正確に暗誦し遂げました。
 さすがのアカンミーもそこまでは期待して居なかったのでしょう、宮良君の熱意と頭の良さを口を極めて称賛していました。私は海軍に入ってからも軍人勅諭を全文暗記している人に出会ったことはありませんでした。

司会:皆さんの中には軍人学校に進学された方もおられますが、どう言う動機で受験されたのか。北村さんの場合はどうだったのですか。

北村:私の場合は、海軍の佐久間艇長殉職の記録に感銘を受け,どうしても潜水艦に乗りたいと思って、海軍兵学校を志望したのですが視力が0.3で駄目、結局は海軍経理学校を選択しました。入校して驚いたのは中学四年修了の"坊や"から3浪の"おじさん"までが混在しており、5歳の年齢差があったことです。訓育の標準は概ね一浪に合わせてあったので身体未成熟の四年修了や五年修了の連中は付いていけず随分苦労していました。幸い私は二中時代に柔道と「まちまー町廻い」で鍛えてあったので、カッター、陸戦、遠泳など、激しい訓練もそう辛いとは思いませんでした。

金城重栄氏をNHKが無理やり引っ張り出した印象の番組に関する過去記事NHK特番の感想 【重要付記】あり!を、補筆して以下に引用する。

2009年6月22日放映のNHK、「“集団自決”戦後64年の告白~沖縄 渡嘉敷島から」を途中からしか観てなかったので、コメントを避けていたが、知人の録画を見せてもらった。

予想通りとはいえ、過去に何度も登場した金城重栄、重明兄弟の手垢のついた「証言」を繰りかえしただけの陳腐かつ安易なな番組構成にコメンの必要もないと思ったのだが・・・。

保存記録として感想を記しておく。

全編を通じて、昨年8月29日放映の≪九州沖縄スペシャル“集団自決”~沖縄渡嘉敷島 兄弟の告白~≫の焼き直し番組で、唯一の変化は、兄の重栄氏が認知症になりかけて、現在は一人渡嘉敷を離れて那覇で入院生活を送っていること。

証言の主役は兄・重栄氏であったが、認知症で記憶を失いかけた重栄氏に、NHK担当者が無理やり用意した証言を言わそうとしているという印象であった。

同じ年の2月1日19時30分に放映されたNHK「渡嘉敷島の集団自決」も、金城重栄、重明兄弟が証言者として登場している。

実はNHKが渡嘉敷島の集団自決特集の為取材を始めた頃、渡嘉敷出身の知人から次のような連絡が入っていた。

NHK取材班は渡嘉敷島在住でで軍命があったと証言するのは、金城重栄氏と吉川嘉勝氏と数人の取り巻きしかいないが、また金城兄弟ではないだろうね>と。

予想は的中し、重栄氏が口にしていない文言も、ナレーションで勝手に「補作」していたし、戦陣訓の文章を画面にアップで映して「生きて虜囚の云々」の部分に光を当てて、アナウンサーが朗読し「これが重栄さんにとっての軍命だった」とナレーションを入れていたが、吉川嘉勝氏は何故か登場しなかった。

何のことはない。 これでは認知症の老人をNHKスタッフが取り囲んで予定した証言を言わそうとしているのが画面からミエミエではないか。 

それも上手くいかないので、戦陣訓の文言を画面に映し、「これが彼にとっての軍命だった」とは、NHKもとんだ猿芝居演出したものだ。

 

参考までに昨年6月放映ののNHK番組を見た感想引用するとこうなっている。

<同番組を見た感想ですが、特に目新しい証言はなかったが、

次の2点は、既知の事実とはいえ、天下のNHKが放映したということで重要な意味を持つ。

①父親殺害の告白

これまで金城重明氏は「親兄弟」という表現で母親と弟、妹を殺害したことは繰り返し告白してきたが、父親のことは逃避行中はぐれてしまい、どこかで不明死したと述べていた。

それが雑誌『WILL』増刊号でジャーナリストの鴨野守氏が、父親も殺害した事実をレポートしたため、隠せないと思ったのか今回の番組では父親殺しもカミングアウトした。

数ある集団自決の証言では、一家の主が年寄りや女子供を殺害したという例はあるが、壮年の父親をその子供が殺害したという例は未だないし、少なくとも筆者は知らない。

金城兄弟が、「親兄弟を手にかけた」といいながら、長いこと「父親殺し」を隠していた理由は一体なんだったのか。

勿論、番組ではこれには触れていない。

更に兄弟は、自分の親弟妹だけではなく、他の村人も数多く殺害している。

②金城重明氏は島で毎年行われる戦没者慰霊祭には一度も参加したことはなく、
島に住む兄の重栄氏は慰霊祭の日を避けて一人でそっと参拝していた

これも知る人ぞ知る事実ではあったが、今回NHKが本人たちに取材した結果、確実な情報となった。

この事実から、二人が渡嘉敷島では村八分状態であることがわかる。

遺族としては、敵である米軍の攻撃で死んだのなら諦めもつくが、同じ村の兄弟に自分の肉親が殺害され、しかも加害者が揃って生きている事実には耐えられないのであろう。

村人の突き刺さるような怨嗟の視線を背に受けると、金城兄弟としては、何が何でも「軍の命令だった」と言い続けなければ、戦後生きてはおれなかったのだろう。

すくなくとも、6人家族のうち、兄弟二人で、残りの四人を皆殺しにしたのなら、計算上は四人分の「援護金」が遺族である兄弟二人に支給されていることになる。(未確認)

自分の手で殺害した父母弟妹の「遺族援護金」を金城兄弟が受けているとしたら・・・・・・・・、

どんなことがあっても、軍に責任転嫁しなければ生きてはいけなかったのだ。

 
                    ◇
 
金城兄弟の「軍命あり論」は裁判でも否定されているので、ここでは詳しく述べないが、その破綻した「軍命あり論」を繰り返し放映しなければならないほど、軍命あり論派は追い詰められてきたのかと感じるような中身の無い番組だった・・・これが番組を見ての偽らざる感想である。
 
【付記】
 
渡嘉敷出身の知人から「NHK特番」を観た感想をいただきましたので、紹介します。
 
数少ない「軍命あり派」のなかでも出たがり屋といわれる元教師の吉川嘉勝氏が画面に出なかったのが不思議なようです。
 
やはり、早い時期に現地聞き取り調査をした星雅彦氏の告発が影響したのであろうか。
 
太字強調は引用者。
 
兄弟の周りにいる殺された人たちの親族、あるいは殺されかけた人たちが、あえて口からださなかったこと「惻隠の情」を加害者の側が無視して、呪縛から逃避し自己を正当化するためマスコミに登場(利用)したことは、地域においては受け入れられないと思います。
那覇で暮らす弟の方は創り上げた環境の中で生活できるからまだ良い方で、
島で暮らす兄の方は自己主張すればするほど、地域の人たちから離れていくことになると思います。

NHKはかなり前から2週間に1度程度は来島していたようですが、何をしていたのでしょうか?
あれだけ力を入れてあの程度の内容では、逆に驚きです。証言で登場した方達もでたがりで理由ありの人だけで、「あの人だったら言うだろう」と思います。
それにしても、吉川弟が画面に出なかったこと、あれだけの取材で彼らに都合の良い新しい証言が一つとして無かったことは、やはり命令なんて聞いた人はいなかったことの究極の
証明だと思います。

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捏造された「残虐な日本兵」、我が子を殺した母の贖罪意識

2021-06-21 07:46:36 | ★改定版集団自決

 

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「慰霊の日」、集団発狂の沖縄メディア!2013-06-23 

毎年、6月23日の「慰霊の日」前後には、沖縄メディアが恒例行事として集団発狂する。

沖縄戦の記憶の継承と称する沖縄戦キャンペーンだ。

沖縄戦の記憶の継承という建前に異論はないが、沖縄メディアが戦争を語るとき、他県には見られない特徴がある。

あたかも沖縄戦は日本軍と沖縄住民の戦いだったかのような論調で「残虐非道な日本軍」を執拗に告発するのだ。

その一方で敵の米軍は、沖縄住民を解放するため沖縄戦に臨んだという印象報道だ。

きょうの沖縄タイムスは「沖縄戦関連」記事で一面トップと社会面トップを飾った。

 

ところが、執筆者の山中由睦記者は、証言者のコメントをうっかりそのまま掲載するという大ポカやらかしてしまった。

大笑いである。

本来なら戦火を避け潜んでいたガマで、泣きだした幼子を「(日本兵が)泣かすな、出ていけ」と命令した。このように歪曲して書くべきだった。

先輩記者の捏造報道を継承して。

最近、沖タイも心を入れ替えて、これまで歪曲してきた沖縄戦の大嘘を訂正する気になったのか。

読者「そんな筈はない。沖タイにそんな殊勝な気がある筈がない」

「単なるポカ記事です」

[証を求めて 戦後76年遺骨収集](1) 弟の姿 シダに重ね 遺骨「諦められぬ」 上原美智子さん(85) 那覇市

沖縄タイムス紙面掲載記事

[証を求めて 戦後76年遺骨収集](1) 弟の姿 シダに重ね 遺骨「諦められぬ」 上原美智子さん(85) 那覇市

2021年6月21日 05:00

 自宅の庭の鉢には、きれいな緑色のタマシダが生い茂っている。この家に住む上原美智子さん(85)=那覇市=が、恩納村の山中から小さな一株を持ち帰ったものだ。

 5~6年がたち、シダは10倍以上に成長した。「こんなに元気に育ってくれたね」。上原さんは葉先をなでるように触り、柔和な表情でシダに語り掛けた。

 シダが生えていたのは76年前、沖縄戦で本島南部から逃げる途中に息絶えた8カ月の末弟を埋めた場所。戦後、姉が遺骨の回収に来たが見つからず、仕方なく近くの石を拾い、家の墓に入れた。

 戦後70年がたち、上原さんは自らこの場所を訪れ、遺骨を探した。遺骨は見つからなかったが、何かを持って帰らずにはいられなかった。近くに生えていた、ほんの5センチほどのシダを抜いた。「遺骨の代わり。これで弟を感じられる」 

□   □

 1945年3月23日朝、米軍機から雨あられのように銃弾が降り注ぐ中、9歳の上原さんは、自宅から少し離れた糸満市のガマ「アマンソウ」に向かった。母と姉は家畜の世話があったため、上原さんは妹と弟を連れ、8カ月の末弟を背負い無我夢中で走った。

 ガマにはすでに約250人が避難し、暗闇に排せつ物の臭いが充満していた。末弟が泣き出すと、ガマの奥から「マーヌクヮガ、ナカサンケー(どこの子か、泣かすな)」、「ンジティイケー(出ていけ)」と高齢女性の罵声が聞こえた。

 弟の口を手のひらで覆うと、声が小さくなった。苦悶(くもん)の表情を見るのが耐え切れず、ガマを出て10メートル前の木の下で震えた。頭上に米軍機が見え、死と隣り合わせの状況が続いた。

 夕方、母姉と合流し北に避難。何日か歩き続け、恩納村の避難場所に着いた。食料は乏しく、5月中旬に米軍の捕虜になったが、弟はその少し前に栄養失調で亡くなった。「弟は今も独り寂しく山中にいる。早く遺骨を拾ってあげたい」

□   □

 遺骨への思いは末弟に対してだけではない。当時38歳だった父・玉城蒲吉さんも見つかっていない。

 色白で“イケメン”だった父。畑仕事がない日は一緒に遊んでくれた優しい人だった。「カマスケ」という毛並みの良い馬を飼い、新品の馬車も持っていた。そんな父が大好きだった。

 父は44年10月ごろ軍に招集された。冬に馬車を取りに一度だけ戻ってきた。出発前、上原さんの頭を優しくなでながら「お母さんの言う通り、お利口にしてね」。これが別れとなった。

 父がその後どこに行き、どこで亡くなったのかは分かっていない。戦争で自宅は燃え、父の写真や遺品は全て焼失。父のぬくもりや思い出を感じられる物は何一つ残っていない。

 万年筆や衣類、馬車の部品、何でもいいから見つけたい-。そんな思いで、20年ほど前から遺骨収集に携わった。同じように沖縄で遺骨を探す人のため、そして父の手掛かりを探すため。自らガマに入った。

 高齢になり、最近は自ら探すことは減ったが、まだ

希望は捨てていない。「戦後76年。難しいのはもちろん分かっているけれど、簡単には諦められないさ」(社会部・山中由睦)

 戦後76年がたった今も、県内では沖縄戦で亡くなった約3千人の遺骨が見つかっていない。大切な人の足跡や生きた証しを求め、いまだ多くの人が遺骨を探している。その思いと遺骨収集の現状や課題に迫った。(21面に関連)

 「証を求めて」では、遺骨を探す人々の思いや遺骨収集現場の動画を制作しています。こちらのQRコードから。

(写図説明)(上)庭のタマシダをなでるように触る上原美智子さん=那覇市

(写図説明)(下)上原さんらが逃げ込んだ糸満市のガマ「アマンソウ」(糸満市教育委員会提供)

■毒おにぎりの大ウソ⇒仲里県議会議長

壕に避難していた幼子に、途中から入ってきた日本兵が毒おにぎりを食わそうとしたので、家族共々壕を逃げ出し命拾いしたと言う証言が派手に掲載された。 

実際に琉球新報に掲載された記事だが、食糧不足に悩む当時はおにぎりは滅多に口にすることのないご馳走。 

その大事なおにぎりに毒を塗って少年の殺害を謀るより、銃剣で脅して壕から追い出したほうが容易であることは誰にでもわかること。

その幼子の兄が当時の仲里利信沖縄県議会議長であることが自身の証言で話題になった。

仲里氏が嘘をついたか、さもなければ当時の厳しい食料事情を知らない若い記者が、聞き取りの際歪曲・捏造したか。

いずれにせよこの記事が嘘であることくらい読者は容易に想像がつく。

 これに関して証言者の仲里氏は以後沈黙を押し通し何も語っていない。

(【おまけ】参照)仲里氏の「毒おにぎり」は「残酷な日本兵」の象徴として朝日新聞を通じてニューヨークタイムズにも掲載された。

 

【おまけ】

「毒おにぎり」が海を渡る  仲里証言をニューヨークタイムズが報道2007-10-18

「県民大会」の実行委員長になり、更には「東京要請団」の団長として、仲里県議会議長の名前と顔はすっかり全国区になった。

地元マスコミでで仲里議長の名が一躍注目されるよったのは琉球新報の衝撃的「毒おにぎり」記事以来である。

 

毒おにぎりで知名度を上げ、その後国会議員になった

仲里利信氏

毒おむすび渡された 県議会議長、沖縄戦体験を語る

 
戦時中の食料事情を知る人なら、折角のご馳走の「白いおにぎり」に毒を入れる状況が理解できないと、この体験談に疑念を抱く人も多い。
 
だが、これがそのまま海外の新聞、それもあのニューヨークタイムズの記事となったとなると、歯止めなく世界中を1人歩きする。
 
「戦地売春婦」が「性奴隷」の名の下に世界中を一人歩きしたように。
 
「11万人」集会がニューヨークタイムズの記事になったことを琉球新報が報じたが、Red Foxさんが元記事を全訳した結果、
 
琉球新報の訳文を原文に無いことを報じる「超訳」と呆れ返っていた。
 
詳しくは「またオーニシか! 沖縄抗議集会 琉球新報報道の怪 (Red Fox) 」でご覧下さい。
 
記事を書いたのは反日記事で有名なオーニシ記者ですが、翻訳者の岩谷文太さんは次のようにコメントしています。
 
≪このNYタイムズの大西記者の記事の情報源となってるのは多くが沖縄タイムズや琉球新報の記事なので、もともとがバイアスがかかってる訳ですが、結果として琉球新報が情報を提供して書かれたNYタイムズの記事を琉球新報が逆輸入して更に誇張して報じるという自作自演のマッチポンプ記事です。NYタイムズ自体はアメリカの朝日新聞みたいなものですから。

沖縄の事は本来は沖縄の民意が決める事ではありますが、問題は本土から乗り込んだ活動家であり、米軍の問題があってもそこには中国の脅威がある訳です。≫
 
≪しかし琉球新報のこれは幾ら何でも酷過ぎますね。まずNYタイムズの記事を報じてると装いながら内容を改変してる点、それから引用表記のルールの基本が全く出来てない点ですが、これは英語読解力など記者の能力の問題なのか、それとも意図的に印象操作をしてるのかは、この記事を見る限りでは何とも言えませんが、ロサンゼルス通信員という方なので恐らく確信犯の後者でしょう。そもそもロス通信員なら宜野湾市の抗議集会で直接取材した訳でないでしょうから、NYタイムズに書かれてる以上の余計な情報が入るのが不自然というものです。

 そういうクリエイティビティ溢れる琉球新報には『創作芸術大賞』を進呈したいと思いますw。≫

 
そのニュークタイムズ記事の中で、多くの証言者が「日本軍の残虐性」を訴えている。
 
特に沖縄出張法廷で証言した金城重明氏は本人の写真つきで紹介されている。
 
だが、金城証言に続く仲里議長の「毒おにぎり」証言が、
 
日本軍の残虐性を示す逸話として、世界中に飛び火していくことを危惧する。
 
以下はニューヨークタイムズ掲載の「毒おにぎり」の仲里議長の証言部分の原文と訳文です。

Okinawans Protest Japan’s Plan to Revise Bitter Chapter of World War II
http://www.nytimes.com/2007/10/07/world/asia/07okinawa.html

 One of the visitors to Tokyo was Toshinobu Nakazato, chairman of Okinawa痴 assembly.

Angered by the revisions, Mr. Nakazato broke a 62-year silence and talked about his own wartime experiences.

Inside a shelter where his family had sought refuge, Japanese soldierhanded his family members two poisoned rice balls and told them to give them to Mr. Nakazato痴 younger sister and a cousin, he said. Instead, his family fled into the mountains, where his younger brother died.

的知 already 70,・he said in an interview, 殿nd the memories of those over 80 are already fading. So perhaps this time was the last opportunity for us to resist.・/p>

その一人である沖縄県議会の仲里利信議長は、教科書問題に不快感を示し、62年の沈黙を破って自らの戦争体験を語った。

仲里さんの家族が難を逃れたガマ (濠) では、彼の家族に日本兵が2個の毒入りおにぎりを手渡し、仲里さんの妹といとこに与えるように言った。彼の家族は山に逃れ、そこで弟が亡くなった。

 「私はもう70歳ですが、80歳以上の人達の記憶は薄らいでいます。だから今が私達が抵抗出来る最後のチャンスなのかもしれません」と仲里さんは語った。(Red Foxさん訳)

                     ◇

 

■琉球新報により伏せられた仲里証言の“ある部分”■

毒おむすび渡された 県議会議長、沖縄戦体験を語る

(略)

 海からの艦砲射撃が激しくなった4、5月ごろ、ガマに移動した。200人ほどが入れる大きなガマだった。そこは「スパイがはびこってる」「あの人もそう」とたくさんのうわさが飛び交い、険悪な空気が流れていた。
 その中で3歳の妹と同じ年のいとこが泣きじゃくった。しばらくして3人の日本兵が来て、「この子たちが泣いてると、敵に発見されてみんな殺される。これを食べさせろ」と毒の入った白いおむすびを持ってきた。家族みんなで話し合ったが、すぐに「家族は一緒だ。食べさせられんさー」と全員でガマを出た。
 その後はガマや墓に隠れたが、家族壕を掘るために、弟を背負い、母と3人で山に向かった。ようやく壕が完成し、残りの家族を迎えに行こうと山を下りていくと、2、300メートル先に14、5人の米兵の姿を見つけ、一目散に山へ戻った。(略)
 (琉球新報 6/21 9:50)
 
                    ◇
 
「11万人」集会の実行委員長として、又「上京要請団」の団長としてすっかりテレビ露出の多くなった仲里県議会議長だが、
 
その前に「毒入りおむすび」証言で既にネット上では全国区の有名人になっていた。
 
だが、仲里議長の証言場面を動画で検証すると、琉球新報記事は証言のある重要部分を敢て伏せている。
 
仲里議長は、動画では概ね次のように話しているが、
 
上記新報記事では「壕に退避していたら妹がワーワー泣き出したので、(壕の中にいた)皆さんが出て行きなさいといったが、出て行くわけにも行かない」の部分は省略されている。
 
この部分は「壕から日本兵に追い出された」という巷間流布している定説とはそぐわない。 
 
つまり琉球新報は、壕から出て行けと言ったのは日本兵でなければ今まで造り上げて来た残忍な日本兵のイメージが崩れると困るのである。
 
「壕から追い出した人物」と「毒おにぎりの人物」は同じ日本兵でなければ整合性が無いのだ。
 
そこで、新報は証言のある部分を伏せて報じた。
 
「壕から出て行けといったのは同じ県民だった
 
 
 仲里証言を【動画】で検証してみよう
 
 
文字おこしすると概ね次のようになる。
 
≪壕に退避していたら妹がワーワー泣き出したので、(壕の中にいた)皆さんが出て行きなさいといったが、出て行くわけにも行かない。

ある人突然着剣した銃を持った日本兵が3人壕に入ってきて三才になる従妹に白いおにぎりに毒を入れて食べなさいといった。

家族一緒に死のうと壕を飛び出した。≫

 

「毒おにぎり」の仲里議長の証言もそうだが、それを報じる琉球新報が更に事実を隠蔽するようでは、沖縄の新聞は・・・、

何としてでも「沖縄県平和祈念資料館」に展示されている「銃剣で親子を壕から追い出す日本兵像」のイメージを造りたいのだろう。

 

 

 

 

 

参考エントリー毒入りおにぎりを渡された県議会議長

◆関連ブログ:沖縄集団自決問題 NYタイムズ記事検証

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コメント (4)

戦争マラリヤ 疎開秘話3 大本営の密使

2021-06-21 04:49:54 | ★改定版集団自決

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疎開秘話3 大本営の密 使2012-01-18

沖縄タイムス+プラス プレミアム

日本軍の命令でマラリア蔓延地に強制避難 八重山で3600人病死の悲劇 住民が36人の証言集発刊 

2020年8月28日 14:00有料

 【八重山】八重山戦争マラリアを語り継ぐ会(潮平正道会長)は15日、証言集「命の輝きを求めて-マラリアを生き抜いた人々の証言」を発刊した。ことしは結成10周年で、証言をまとめたのは初めて。戦時中、石垣島を中心にマラリアに侵されて家族を失うなどつらい体験をした36人から聞き取り、手記を含めて38編をつづっている。

 自らも体験者で手記を寄せている潮平会長らが市内で記者会見。軍命でマラリア有病地に避難を強いられ、八重山全体で3600人余が犠牲になったことを挙げて、「証言を集めて残さないと、歴史の中の重要な部分が消えてしまうという危機感がある。後世に残すことを決意し、努力した」と意義を語った。

 当初は2015年の戦後70周年に刊行を目指した記念事業。証言の掘り起こしという課題と向き合って13年に着手したが、思うように計画が進まず7年越しの発刊になった。証言者のうち9人が完成を待たずに他界したという。

 編集長を担った西村幸吉さんは「当事者が戦争体験を語るのはとてもつらかったと思う。しかし後世のためにと頼み込んで話してもらった。再び戦火が起きることがないようにしたい」と引き締めた。

 江川義久副会長は「沖縄本島や県外の人に読んでもらい、戦争マラリアの理解を深めてほしい」と強調。玉城功一前会長は「戦中、戦後を生き抜いた証言者の命の輝きに触れることができる」と活用を呼び掛けた。

 県や市立図書館、市内小中高校に配布するほか、市内書店で1冊千円(税込み)で販売している。

第32軍が沖縄に着任する以前から、大本営は、沖縄住民が戦禍にさらされるのを防ぐため閣議決定により県外疎開を決めていた。 だが県外疎開、実際は思うようにはかどらず、県内のより安全と思われる場所への県内疎開を余儀なくされた。

ただ当時の法体系でも軍が直接住民に疎開命令を出すことは出来ず、第32軍は「南西諸島警備要領」を作成し県知事に協力を要請し、知事は警察の組織力でこれに協力した。

沖縄本島では、島田知事と荒井県警部長が住民疎開に尽力したが、共に殉職し県民の恩人として今でも慕われている。

だが県知事や警察の疎開指導が届かなかった離島地域ではやむなく直接軍が疎開の指導をせざるを得なかった。

同じ疎開でも県が指導した場合は命の恩人と感謝され、軍が直接指導した疎開は「強制疎開」などと、住民を殺戮させるために疎開させたような書き方をするのが沖縄紙の特徴である。

八重山で疎開を指導した山下軍曹は戦後67年経っても、八重山マラリアで住民を虐殺した悪鬼として罵倒され続けている。 

だが山下軍曹も島田県知事も、故郷に家族を残し使命を帯び決死の覚悟で沖縄に赴任した善良な父であり、夫であり兄だった。 彼らは住民を安全地帯に疎開させるという思いは同じで、唯一の違いといえば、軍服を着ていたかどうかの違いに過ぎない。

八重山住民を「日本刀で脅し、マラリアの汚染地域に強制的に疎開させた」と喧伝されている山下軍曹が、1981年にひっそりと島を訪れた時、八重山住民は「・・・戦前の軍国主義の亡霊を呼びもどすように来島したことについて、全住民は満身の怒りをこめて抗議する」と抗議書を突きつけたという

その後山下軍曹は2度八重山を訪れ、その度に罵倒され追い返されたという。 

なぜ山下虎雄軍曹は何度も島を訪れたのか。

山下軍曹が罵倒されるのを覚悟で3度も八重山地区を訪れたのは、自分が指導した疎開で不幸なことに多くのマラリアの犠牲者が出たことに対する贖罪の気持ちの表れではなかったのか。

山下軍曹にとって不幸だったのは、それこそ幸か不幸か、八重山地区は本島のような米軍による「鉄の暴風」に曝されることがなかったことである。

山下軍曹が八重山住民の虐殺を企む「悪鬼」ではなかった。

たまたま不幸にも八重山地区に着任したばかりに、疎開を自ら指導せざるを得なかった善良な日本人だった。

これは戦後3度も八重山地区を訪問した事実から窺い知ることができる。

その一方で同じ疎開でも、島田県知事、荒井県警部長に対する沖縄紙の記述は、彼らが軍人でないという違いだけで比較的まともである。

以下は大本営の密使  沖縄戦秘話3に加筆したものである。

         ☆

沖縄は地元出版の盛んな地域である。

沖縄戦に関する軍側から見た記録や住民側の記録が多数出版されて、地元の本屋の店頭を飾っているが、軍と住民の間に立って県民の安全確保のため奔走した県行政側から見た記録は極めて少ない。

県民の安全確保のため県内外の疎開を実行するため島田知事とコンビを組んで命懸けで尽力した荒井退造警察部長は「県民の恩人」として、島田知事と共に遺骨も無いまま、摩文仁の「島守の塔」に合祀されている。

万年筆県に寄贈へ 那覇市真地の「県庁壕」で発見(2008.7.27)

「万年筆を多くの人に見てもらうことが義務」と語る荒井紀雄さん=東京都日野市
「県庁壕」で発見された万年筆

 【東京】沖縄戦中、県民の県外、北部疎開に尽くした荒井退造・県警察部長の遺品とみられる万年筆が、近く遺族から県に寄贈されることになった。万年筆は昨年12月、那覇市真地の通称・県庁壕(シッポウジヌガマ)で見つかり、6月に東京の遺族に届けられた。
 長男の荒井紀雄さん(75)=東京都=は「この万年筆が父の物だと断定できるわけではないが、大変な犠牲を生んだ沖縄の惨禍の『証言者』だ。多くの人々に見てもらえることが、私の義務だと思う」と話している。
 万年筆を見つけたのは「県庁壕」の発掘・調査を続けている知念賢亀さんと繁多川公民館「壕プロジェクト」のメンバーら。壕内の荒井部長室前の地中から掘り出した。
 戦時中の県職員や遺族らでつくる「島守の会」を通じて送られてきた万年筆を調べたところ「並木製作所」(現・パイロットコーポレーション)が1932年発売の製品と類似。当時の標準品が3円から5円だったのに対し、見つかった万年筆は16円程度で売られていた。元県職員の板良敷朝基さん(「島守の会」顧問)は「部長以上の高官しか持っていない代物」と説明しているという。
 昨年手術を受け、通院を続けている紀雄さんは「父は生前、『家族が私の骨を拾ってくれる』と語っていたという。骨は戻らなかったが、万年筆が息子の元へ戻ってきたと父は思っているかもしれない。私も生きていて良かった」と語っている。
 「県庁壕」は、米軍が沖縄本島に上陸する直前の45年3月末から5月末までに県警察部が避難していた壕。4月から島田叡(あきら)知事も合流した。荒井部長は島田知事とともに5月末に本島南部へ移動。6月26日、知事と摩文仁の軍医部壕を出た後、消息を絶った。(小那覇安剛


                                           ◇

 

■「狂気は個人にあっては稀なことである。しかし集団・民族・時代にあっては通例である」■ (ニーチェ )

この言葉は昨年、沖縄タイムスと琉球新報の沖縄二紙が「11万人集会」で県民を扇動していた頃、何度も当日記で引用させてもらった。

沖縄二紙は、狂気に満ちたキャンペーンを張って、「県民大会」に反対するものは県民にあらず、といった狂気に県民を追い込んでいた。

職場等でも異論を吐くものは、「あいつはヤマトかぶれ」だと後ろ指を指されるような異常事態だったと知人の一人は当時を振り返る。

個人的にはごく常識的な人物が、一旦なんらかのグループに属すると往々にして狂気に走る。

そしてその背後に新聞の扇動がある。

そんな例は歴史を紐解けば枚挙に暇がないほどだ。

軍情報局から日本敗戦間近の情報を得ていたにも関わらず、朝日新聞は、終戦の前日の8月14日の社説で、従来の「国民扇動」の論調を変えることが出来ずに、「敵の非道を撃つ」といった勇ましい記事を垂れ流し続けていた。

 

■昭和19年12月の「県民大会」■

昭和19年の12月8日、「日米戦争決起大会」(県民大会)が沖縄の各地で行われていた。

その当時の沖縄の雰囲気も、今から考えると狂気に満ちたものといえるだろう。

大詔奉戴日といわれたその日の「沖縄新報」には次のような見出しが踊っていた。

けふ大詔奉戴日 軍民一如  叡慮に応え奉らん

一人十殺の闘魂  布かう滅敵待機の陣

終戦の8ヶ月も前の記事なので、「沖縄新報」が、朝日新聞のように、敗戦間近の情報は得ていた筈はないが、見出しと記事がやたらと県民を煽っていることが見て取れる。 

昭和19年12月の大詔奉戴日は、二ヶ月前の「10・10那覇大空襲」の後だけに、県庁、県食料営団、県農業会などの各民間団体が勇み立って、沖縄各地で関連行事(県民大会)を開催しているが様子が伺える。

ちなみに大詔奉戴日とは、日米開戦の日に日本各地の行政機関を中心に行われた開戦記念日のことを指し、真珠湾攻撃の翌月の1942年1月8日から、戦争の目的完遂を国民に浸透させるために、毎月8日が記念日とされた。

そして、同記事では「鬼畜米英」についても、各界のリーダーの談話を交えて、次のような大見出しを使っている。

米獣を衝く  暴戻と物量の敵を撃て

お題目で獣性偽装   野望達成で手段選ばぬ

泉県知事の談話なども記されているが、那覇市の各地で檄を飛ばしているのは軍人ではなく、民間団体の責任者である。

<挺身活動へ  翼壮団長会議

県翼賛壮年団では、各郡団長会議の結果、団の強化を図り下部組織へ浸透を促し活発な挺身活動を開始することとなり幹部並びに団員の整備、部落常会との渾然一体化などを確立することに報道網をはって志気昂揚に全力をそそぐことになり、・・・>(沖縄新報 昭和20年12月8日)

当時の決起大会に参加した人の話によると、興奮して演壇上で「抜刀して」県民を扇動していたのは軍人ではなく民間人であったという。 

例えば座間味島の日本軍はこれに参加しておらず、那覇から帰島した村の三役から、那覇市での決起大会の状況を辛うじて知ることが出来たいう。

では、その頃、沖縄配備の第23軍は一体何をしていたのか。

 

■第32軍は県民疎開をどのように考えたか■

ウソも繰り返せば真実となり、根拠の無いスローガンも繰り返せば歴史となる。

連日沖縄の紙面で踊る、「日本軍は住民を守らない」

という左翼の主張は、昭和19年の夏から大本営と沖縄配備の第32軍が沖縄県民の安全を守るため、県や警察と協力し、県外疎開に必死の努力をしていたという歴史的事実には全く目をつぶった、「反日運動のために捏造されたスローガン」にすぎない。

戦時中といえども法律の下に行動する軍は、当時の日本の法の不備に悩まされていた。

日本は過去の戦争において常に戦場は国外であり、そのために昭和19年の第32軍沖縄配備の時点で、国民を強制的に疎開させる法律を備えていなかった。

ドイツやフランスのように国境が陸続きの大陸国では、戦争といえば国境を越えて侵入する敵軍を想定するが、四面を海に囲まれた海洋国家の日本では、敵の自国内侵入は海上での撃滅を想定しており、地上戦を考えた疎開に関する法律は整備されていなかった。

第32軍が沖縄に着任した昭和19年当時、

何と、戦時中であるにも関わらず当時の日本には、現在の平和な時代でも具備している「国民保護法」(平成16年6月18日 「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」)に相当する法整備がなされていなかったのである。

そのような状況で沖縄防衛を任される第32軍が沖縄着任に先立って最も憂慮したのは、米軍の上陸により沖縄住民が戦火に巻き込まれることであった。

■県民疎開は大本営の発想■

昭和19年7月1日、大本営の後宮参謀次長は、関東軍司令部から参謀本部付きとなっていた長勇少将を特命により沖縄に派遣した。 その特命の目的は食糧不足のための兵糧の研究が表向きであったが、その他にもう一つの重要な任務を命じられていた。

同じ年の8月10日に第32軍司令官、牛島満中将が沖縄に着任するが、その一月前の7月1日に沖縄に着任し、長少将が真っ先に行ったのが住民の県外疎開調査のための県内視察であった。 

既に第32軍の参謀長を拝命していた長少将は、調査結果を第32軍司令官渡辺正夫中将(牛島司令官の前任)に報告し、司令官は陸軍省に県民の県外疎開について具申し、それを受けて7月7日に県民の県外疎開の閣議が決定される。

沖縄配備の第32軍は、長勇参謀長の沖縄着任(正式には昭和19年7月8日 )の一日前には、法整備の不備だった「県民の県外疎開」を着任前に閣議決定させるという素早い動きをしていたのだ。

大本営は米軍の沖縄上陸は必至と予測し、牛島満司令官着任の一ヶ月以上も前の昭和19年7月1日に長参謀長を沖縄に派遣したが、

これと連動した内務省防空総本部も救護課の川嶋三郎事務官を沖縄に派遣し、県民疎開の閣議決定の下準備をさせていたのだ。(「消えた沖縄」浦崎純著・1969年)

緊急閣議決定で法的根拠は得たが、第32軍の県外疎開の実施にはさまざまな困難が伴った。

今の時代で安易に想像し、軍が圧倒的権力で有無を言わせず県外疎開を命令し、実施したわけではなかった。

県民の県外疎開を管轄する政府機関は内務省防空総本部であった。

当時の法律では空襲に備えて県外疎開を強制することは防空法に規定があったが、

沖縄の場合のように地上戦に備えて非戦闘員を強制的に疎開させる法的権限は持っていなかったのだ。

当時の沖縄の状況は新聞の勇ましい扇動報道に乗せられた各民間団体の「軍人より軍人らしい民間人」の狂気が巷にあふれ、

県外疎開の必要性を説いても、それに真面目に耳を傾けるものは少数派で、県外疎開は卑怯者と後ろ指を指される有様だった。

県外疎開を民間人に直接命令する権限の無い第32軍は、民間人の安全を管轄する県に協力を求め、

県は警察の持つ組織力と機動力によることが最適と考え県外疎開の担当部署を警察部と定めた。

現在のような平和な時代の後知恵で、

「軍の命令は自分の親兄弟を殺害する」ほど圧倒的で不可避であったと「沖縄タイムス史観」は主張するが、

実際は軍隊は住民に直接命令をする権限を持たず、住民の安全を確保するための県外疎開にせも県や警察機構の協力を仰がなければ実行できなかったのである。

 

警察部長として県民の県内外の疎開に尽力し、最後は南部で戦死を遂げた荒井退造氏が、冒頭記事の荒井紀雄さん(写真)の父君である

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新・(2)貶められた旧日本兵、壕の提供/「軍の命令」で援護対象に

2021-06-21 00:58:46 | ★改定版集団自決

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「援護法」に隠された沖縄戦の真実(2)2013-07-09

 ■世界日報 7月9日(火)掲載

【連載】貶められた旧日本兵 「援護法」に隠された沖縄戦の真実(2)


壕の提供/「軍の命令」記入で援護対象に

 昭和31年(1956年)、戦闘参加者の範囲を決定するため、厚生省援護課の職員らが沖縄に派遣され、沖縄戦の実態調査を行った。琉球政府社会局が昭和33年に発行した援護法関係出版物「援護のあゆみ」によると、沖縄県遺族連合会が職員と協議会を重ね、集団自決や壕(ごう)の提供などの事例についても援護法が適用されるよう強く求め、厚生省に陳情した。
 戦争の実態調査や要望を踏まえて厚生省援護課は、昭和32年7月、援護法の適用例を20種の分類で示した「沖縄戦の戦闘参加者処理要項」を発表した。これまであいまいだった「戦闘参加者」の定義がこれによって明確になった。「戦闘参加者」の分類は以下の通りだ。

 ①義勇隊②直接戦闘③弾薬・食糧・患者等の輸送④陣地構築、⑤炊事・救護等雑役⑥食糧提供⑦四散部隊への協力⑧壕の提供⑨職域(県庁職員報道)関係⑩区(村)長としての協力⑪海上脱出者の刳船(くりぶね)輸送⑫特殊技術者(鍛冶屋)⑬馬糧蒐集(しゅうしゅう)⑭飛行場破壊⑮集団自決⑯道案内⑰遊撃戦協力⑱スパイ嫌疑による斬殺⑲漁撈(ぎょろう)勤務⑳勤労奉仕作業。

 20項目のいずれかに該当すれば、一般住民であっても軍属・軍人と同様に「戦闘参加者」として認定され「準軍属」に扱われた。その場合、軍命令に従い、「自己の意思」で戦闘に参加・協力したか否かだけが問われることとなった。当初は「小学校適齢年齢6歳以上」とされた。

 しかし、当時の厚生省、琉球政府、市町村、そして、遺族という四者の共同作業により、6歳未満にも援護法が適用されるようになった。

 金城和信遺族連合会会長(当時)は「援護のあゆみ」の中で、「遺族は勿論全住民が一体となってこれら戦没者の報国の精神に充二文(ママ)に応えるべく全機能を上げて一人でも時効失効なき様処理に万全を期さなければならないと強く日本政府及び琉球政府に訴えるものであります」と述べている。

 実際に「戦闘参加者」として援護法の申請をした事例を示す、沖縄県公文書館に保管されている「現認証明書」(請求時の障害が公務上の傷病であることを認めることができる書類)の文面を引用する。

 <右は昭和二十年六月二十日沖縄本島摩文仁村字摩文仁付近の戦闘間に於て球部隊司令部の下士官兵数名に避難壕を立ち退くよう要請され止むなく同壕を戦闘員のため提供して立ち退き、他の壕を求めて移動する際、至近に砲弾炸裂し、全身に砲弾破片創を負い、即死したことを同一行動中に確認致しましたのでその事実を証明します。
一九六〇年二月二十日

 沖縄県遺族連合会のある幹部は「軍に積極的に協力して戦死したという表現でも厚生省から突っ返されました。『軍の命令によって』と書き込んで再送して受理されました」と振り返る。そこで、現認証明書に「軍の命令・要請による」という虚偽事実の記入をしたが、そのうち大半が「壕の提供」に関する内容だったという。

(「沖縄戦の真実」取材班

                                       ☆

> 20項目のいずれかに該当すれば、一般住民であっても軍属・軍人と同様に「戦闘参加者」として認定され「準軍属」に扱われた。その場合、軍命令に従い、「自己の意思」で戦闘に参加・協力したか否かだけが問われることとなった。当初は「小学校適齢年齢6歳以上」とされた。

当時の厚生省は、本来なら民間人には適用されないはずの援護法を、可能な限り、というより「拡大解釈」をしてまで沖縄住民に適用しようとした。

 そこに「軍命捏造」という意図せぬ結果が生じ、後に反日左翼勢力の付け込む隙を与えることになる。

政府(厚生省)は、軍命と明記されていない申請書には「軍命」という不実(嘘)を書くように暗示する「書き換え」の指導をした。

例を挙げると、厚生省の1960年「戦闘参加者に関する書類」に、次のような記載がある。

昭和34年(‘59年)10月12日付け 厚生省引揚援護局未帰還調査部第四調査室長から⇒琉球政府社会局援護課長へ 「戦闘協力により死亡したものの現認証明について」

別紙記載の戦斗協力者に対し、遺族より弔慰金の請求をされましたが、戦斗協力内容が消極的に失すると審査課より返却されたので、死亡者は要請(指示)事項のみに終始したのではなく、当時の戦況から判断して現認証明事項欄記載の如きこともあったものと推定されるのでその旨、審査課に回答した処、死亡の原因が回答のような、積極的な戦斗協力によるものであれば現認証明書を添付されたいとのことですが、現認証明欄の如き事項は、当時何人かが現認していると思われるがそうであったら然るべく御とりはからい願います

厚生省から琉球政府側への「指導」も1959年ごろまでは、「積極的な戦闘協力」などと曖昧な指導をしているが、沖縄住民の援護金申請は全て受理してあげたい、という善意が働き、厚生省の「指導文書」も1962年になると、以前に比べてあからさまな「軍命捏造」の指導が目立ってくる。

その例がこの文書だ。

 ■1962年1月「戦闘参加者に関する書類綴」(援護課調査係)

「戦闘参加者の申立書」に対して、厚生省から⇒琉球政府へ

≪「要調査事項」昭和20年5月10日食糧を求めるため部隊に行ったのは、軍命令か 申請書の記述ではその点が不明であるから解明されたい

と軍命の有無を重視するよう明確というよりアカラサマに指導している。

さらに具体的に個々の「戦闘協力者」を、「軍命による」と記入するように、その時の状況に至るまで「指導」した例が、次の例である。

これは現在のお役所の常識から考えれば、「越権行為」といわれても仕方がない「指導」である。

 

「現認証明書を要する戦闘協力者氏名」の一覧 

当時50歳の県庁職員についての「指導」

≪壕生活の指導並びに避難誘導のため摩文仁村に派遣されたが、摩文仁村摩文仁で避難誘導任務遂行中砲弾の破片により胸部に受傷戦死したという現認証明に対して、「上記の理由では積極的戦闘協力とは認め難いとの審査課の意見であるが、積極的戦闘協力の事実はないか。 例えば軍命により弾薬運搬又は食糧の輸送の指導若しくは陣地構築の指導等の如きものとか、公務遂行中殉職というが、公務の内容はなにか軍の命令により何か積極的戦闘協力はしたのか・・
などと具体的に書き換えの仕方を指導している。

 
当時9歳の学童についての「指導」

≪艦砲弾が激しいため殆どの壕が破壊されたので作戦上壕を提供せよと命じられたので、軍に協力して他の避難場所を探している際、敵の小銃弾で頭部を撃たれ治療も出来ず出血多量で数時間後に死亡した
という表現パターンで、書き換えが行われている。

 ■1962年1月「戦闘参加者に関する書類綴」

認定保留者=座間味村 明治9年生まれ、昭和20年3月28日「隊長命令による自決」という内容で戦闘参加者として認定されている。   

>「隊長命令による自決」

ここで座間味村の隊長は梅澤裕氏と指名されたことになり、後に反日左翼勢力が「残虐な日本軍」と主張する根拠となる。

 

■1966年「援護関係表彰綴」

宮村幸延座間味村総務課長の功績調書

宮村幸延座間味村総務課長は、1957年8月、慶良間戦に於ける集団自決補償のため上京 1963年10月集団自決6歳未満から0歳児まで(148名)準軍属に決定と記されている。

宮村幸延氏は、連載の第6回目に登場するが、沖縄側は琉球政府社会局援護課のみならず、援護金申請書の直接の窓口である座間味村の援護係の宮村氏が直接上京し、厚生省と掛け合って援護金受給に大きな功績を成し遂げている。座間味村役所には宮村氏の「功績を讃える表彰状があるという。 幸延氏は梅沢氏に「侘び状」を書いた事で、とんだ騒動に巻き込まれることになる。その顛末は連載第6回をご期待下さい。

 国(厚生省)、琉球政府援護課、各市町村の援護係そして遺族会のメンバーの4者が一致協力し、祖国防衛の戦ため、軍人・軍属に負けずとも劣らない戦いをした沖縄の民間人に対する援護金支給の努力をしたのである。

その結果、1981年には6歳未満への援護法の適応が認められることになる。

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新・貶められた旧日本兵-「援護法」に隠された沖縄戦の真実

2021-06-20 09:20:17 | ★改定版集団自決

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貶められた旧日本兵-「援護法」に隠された沖縄戦の真実 (1)2013-07-08 


世界日報に寄稿した連載沖縄戦記「貶められた旧日本兵」の掲載が始まった。

連載第一回は、何と、一面トップの掲載です!

 ■7月8日(月)世界日報掲載記事

【連載】貶められた旧日本兵-「援護法」に隠された沖縄戦の真実 (1)
「残虐な日本軍」は濡れ衣/遺族が長い沈黙破る


 毎年、6月23日の「慰霊の日」前後には、沖縄メディアが一斉に特集を組み、沖縄戦の「記憶の継承」という名目で反軍感情をあおる。
 読者が目にするのは、日本兵に「壕を追い出された」、「食糧を強奪された」、「自決を命令された」など、旧日本軍の悪行を糾弾する記事のオンパレードだ。旧日本軍を糾弾するだけでなく、戦後、米軍基地が置かれている状況に対して政府への不満をむき出しにする。

 果たして日本軍は悪行の数々を重ねていたのだろうか。また、何ゆえ沖縄メディアはこれほど執拗に日本軍の糾弾に狂奔するのか。

 沖縄戦の真実に迫ろうとすると、「援護法」という大きな壁に突き当たる。援護法とは、正式には昭和26年(1951年)に成立、翌年4月に公布された「戦傷病者戦没者遺族等援護法」である。援護法の目的について、第1条にはこう書かれている。

 「軍人・軍属及び準軍属の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し、国家補償の精神に基づき、軍人軍属等であった者又はこれらの者の遺族を援護する目的としている」

(援護法は昭和26年成立のサンフランシスコ平和条約に基づく日本の独立と連動している。同条約は翌年の1952年(昭和27年)4月28日に公布された。⇒【おまけ】参照

 ここで言う「準軍属」とは、旧国家総動員法による徴用者や戦闘参加者、義勇隊、特別未帰還者などを指す。すなわち、軍などから要請を受けて戦闘などに協力した者のことである。

 援護法は昭和28年4月、「南島諸島に現住する者に対し、戦傷者戦没者遺族等援護法を適用する場合の取扱について」と題する通知により、沖縄在住者に適用された。
沖縄県福祉・援護課によると、援護法により救済された戦没者等は、軍人・軍属が2万5千人、一般県民(戦闘協力者)5万5千人で沖縄県民の全戦没者の7割近くに及ぶ。

 昭和34年には、一般住民も「戦闘参加者」として援護法が適用拡大された。本来、軍人・軍属・準軍属にしか適用できないものだが、日本軍の「命令」「要請」があったと申請すれば沖縄の民間人も給付が受けられるようになった。

 当時の厚生省と県や市町村、遺族らとの共同作業に基づく寛大な措置が「残虐非道の日本軍」という神話を生む素地になった。沖縄メディアが機会あるごとにあおる「日本軍の悪行」の記事・報道を忸怩(じくじ)たる思いで眺めながらも、これまで口を固く閉ざす人々がいた。援護法の成立から申請業務に関わり、誰よりもその「民間人への適用」のために強いられた矛盾を承知している遺族会のメンバーだ。

 戦後すでに68年が経過している。遺族会にも援護法成立当時の事情を知る人が少なくなってきた。沖縄県及び各市町村が発行する戦史には、沖縄防衛のために命をささげた日本軍の将兵を悪鬼のごとく罵倒する言葉が並ぶ。沖縄県平和祈念資料館(糸満市)の展示も例外ではない。

 「沖縄戦を捏造されたまま放置してはいけない」「あの世で英霊たちに会っても申し訳が立たない」

 このたび、遺族会の幹部が、長い沈黙を破って、援護法関連の資料を提供してくれた。その中で、援護法を一般住民の遺族に適用させるため、歴史を歪曲してしまったことが、県が作成した極秘文書により明らかになった。

 メディアが喧伝する「残虐非道な日本軍」の象徴が、慶良間島の集団自決だ。「住民を軍命で集団自決に追いやった」とされる梅澤裕、赤松嘉次両隊長は極悪人として糾弾されている。

 沖縄メディア、沖縄教職員組合(沖教組)、自治労などの反日左翼勢力が、援護法のからくりを利用した。「軍命に従い犠牲となった人」を対象とする援護法は、「残虐な日本軍」のイメージを捏造しようとする左翼勢力には都合のよいものだったからだ。

 援護法の拡大適用は、無慈悲で残酷な日本兵像を作り上げた。これが、沖縄の現在にいたるまでの反日感情や自虐史観を形成する一因となっている。援護法の仕組みを明らかにすることにより、濡れ衣を着せられた日本軍将兵の名誉を回復させたいというのが遺族の願いである。

(「沖縄戦の真実」取材班)

 

                    ☆

 

沖縄の地元紙には数多くの沖縄戦の生き証人が登場する。 ほとんどの証言は客観性に乏しく、明らかな嘘とわかるものも多々ある。 

■毒おにぎりの大ウソ⇒仲里県議会議長

壕に避難していた幼子に、途中から入ってきた日本兵が毒おにぎりを食わそうとしたので、家族共々壕を逃げ出し命拾いしたと言う証言が派手に掲載された。 

実際に琉球新報に掲載された記事だが、食糧不足に悩む当時はおにぎりは滅多に口にすることのないご馳走。 

その大事なおにぎりに毒を塗って少年の殺害を謀るより、銃剣で脅して壕から追い出したほうが容易であることは誰にでもわかること。

その幼子の兄が当時の仲里利信沖縄県議会議長のであることが話題になった。

証言者が嘘をついたか、さもなければ当時の厳しい食料事情を知らない若い記者が、聞き取りの際歪曲・捏造したことくらい読者は容易に想像がつく。

 これに関して証言者の仲里氏は以後沈黙を押し通し何も語っていない。(【おまけ】2参照)仲里氏の「毒おにぎり」は「残酷な日本兵」の象徴として朝日新聞を通じてニューヨークタイムズにも掲載された。

今年の6月12日付琉球新報の次のコラムでも、その類のいい加減な証言が、あたかも真実であるかのように語られている。

 自然壕の暗闇の中、赤ん坊が次々に泣き出した。「黙らせろ」。敵に居場所を知られるのを恐れた日本兵が怒鳴った次の瞬間、銃声が響いた。7歳ほどの少女が前へ崩れ落ちた ▼糸満市の仲松庸全さんが沖縄戦で目撃した日本兵による少女銃殺の場面だ。「軍隊は住民を守らない。それどころか住民を殺害したり、死に追いやったりした」。体験から得た最大の教訓という(コラム「金口木舌」より) > 

証言者の名前を記すと全てが真実のように受取られがちだが、 上記コラムの事例が嘘である証拠は、米兵の目を恐れる日本兵が赤ん坊の泣き声は気にするが、銃声が米兵の耳に入るのを気にしていない。 これなどは戦争体験者の証言ではよくでてくる矛盾である。

壕に潜んでいた母親が、赤ん坊の泣き声が気になり、湿ったオムツを赤ん坊の口に当てて窒息させたと言う悲惨な話は今でも密かに語られている。 それが新聞などで証言となって公開されると、そこに「残虐非道な日本兵」が介在し、「日本兵によって殺された」という話に変化していく。 わが子を自分の手にかけた贖罪意識のある母親としては、せめて「残虐非道な日本兵に殺された」とでも証言しなければやりきれなかったのだろう。

この場合日本兵の名前が特定されていないからまだ救いがある。

だが、「座間味島の戦隊長、渡嘉敷島の戦隊長」などと名前を特定されたのが、慶良間島集団自決の神話であり、悲劇である。

そして名前を特定した理由が、当時の厚生省役人の漏らした「軍命があったなら集団自決の遺族も援護法の適用が可能」というひと言だという。

以後「軍命による集団自決」が、集団自決のあった座間味村役場の公式見解になった。

 集団自決の遺族に援護法の適用するための「拡大解釈」という厚生省の善意。 

それが、仇となって2人の軍人に「集団自決を命じた極悪人」という汚名を着せることになる。

 歴史の皮肉である。

 

【おまけ】

きょう「4・28」 沖縄「屈辱の日」を知ってますか?2016年4月28日 05:04

 日本政府は52年7月、米国民政府との連絡を担う那覇日本政府南方連絡事務所(南連)を設置したが、沖縄の住民を「琉球住民」と定義し、沖縄在住で日本本土の国籍を持つ「日本人」とは区別していた。南連の沖縄政策は、「日本人」は保護の対象だが「琉球住民」は対象外としており、識者は「沖縄差別の源流ではないか」と指摘している。
 2013年4月28日には、安倍晋三首相が主権回復の日式典を催し、沖縄からは強い反発の声が上がった。
 28日午後6時15分から、沖縄平和運動センターが県民集会とデモ行進を県庁前で開く。

【おまけ】2

毒入りおにぎりを渡された県議会議長 2007-08-08

沖縄タイムス 2007年8月7日(火) 朝刊 29面  
 
「県議会が主体」期待/「集団自決」修正 県民大会準備委

 高校歴史教科書の検定で、沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」に関する日本軍関与の記述が削除・修正された問題で、「教科書検定意見撤回を求める県民大会準備実行委員会」は六日、県庁で会見を開き、大会への参加を呼び掛けるアピールを発表した。県子ども会育成連絡協議会の玉寄哲永会長は「県民代表の県議会が中心となって超党派の大会を開催してほしい」と述べ、県議会各会派がまとまって大会の主体となるよう期待した。
 玉寄会長は「県議会は検定撤回を求める意見書を二度にわたって可決している。教科書の改ざんを許さないという一点で各会派が一致できるはずだ」とし、県議会が県など各団体に参加を働き掛けていくよう求めた。九月九日に糸満市摩文仁の平和の礎前で開催を予定しているが、「われわれの考えであり、場所や時期は変更もあり得る」としている。
 同準備委員会は七月二十五日に仲里利信県議会議長に協力を要請。県議会は八日の各派代表者会議で協議する
 
呼び掛け団体には沖子連のほか、県婦人会連合会(小渡ハル子会長)、県老人クラブ連合会(花城清善会長)、県PTA連合会(諸見里宏美会長)、県高校PTA連合会(西銘生弘会長)、県遺族連合会(仲宗根義尚会長)の六団体が参加。賛同団体に、沖縄戦を体験した元女子学徒九団体で構成する「青春を語る会」など七団体が加わっている。
 アピールは「日本軍という主語が(検定で)消され、追いつめられて『集団自決』した人、とまるで住民が勝手に死んだとも読める教科書が全国の子どもたちの手に渡ろうとしている」と危機感を表明。「文部科学省は教科書検定制度の『中立・公正』を主張するなら『軍の関与はあった』とする体験者の声をどう認識しているのか」とし、審議会の議論内容を公開するよう求めている。

                        ◇

参院選で敗れた自民党推薦の西銘候補は、集団自決に関する教科書検定問題は撤回せよと主張していた。

当選した極サ候補候補と同じ意見た。

選挙直前、全県市町村議会を始め県議会まで反対決議を出してしまった影響だと考えられる。

選挙前、未確認ながら次のような情報を得ていた。

<沖縄集団自決に関する文科省の検定をめぐって心配な兆候があらわれています。沖縄の検定撤回運動にあおられて、参議院選挙を前に政府・自民党が反対派と何らかの密約をしかねない雲行きなのです>

結果は自民党の惨敗だった。

県議会決議では自民党の良識派が最後ま粘ったが、連日の異常なまでの煽動に押し切られた形で決議した。 それも二度までも。

これ以上の愚行はここで踏み留めるべきだ。

だが、サヨク勢力は9月9日(係争中の裁判の出張証人尋問の前日)に開催予定の「県民大会」に、県議会を引きずりこむ計画のようだ。

同準備委員会は七月二十五日に仲里利信県議会議長に協力を要請。県議会は八日の各派代表者会議で協議する

仲里利信県議会議長、この方の名を見ると次の衝撃的見出しの琉球新報記事がすぐ脳裏に浮かんでくる。

毒おむすび渡された 県議会議長、沖縄戦体験を語る

 

 (略)
 海からの艦砲射撃が激しくなった4、5月ごろ、ガマに移動した。200人ほどが入れる大きなガマだった。そこは「スパイがはびこってる」「あの人もそう」とたくさんのうわさが飛び交い、険悪な空気が流れていた。
 その中で3歳の妹と同じ年のいとこが泣きじゃくった。しばらくして3人の日本兵が来て、「この子たちが泣いてると、敵に発見されてみんな殺される。これを食べさせろ」と毒の入った白いおむすびを持ってきた。家族みんなで話し合ったが、すぐに「家族は一緒だ。食べさせられんさー」と全員でガマを出た。
 その後はガマや墓に隠れたが、家族壕を掘るために、弟を背負い、母と3人で山に向かった。ようやく壕が完成し、残りの家族を迎えに行こうと山を下りていくと、2、300メートル先に14、5人の米兵の姿を見つけ、一目散に山へ戻った。(略)
 (琉球新報 6/21 9:50)

                   ◇

今ではおにぎりは庶民的な食べ物だ。

懐が不如意の場合は「コンビニのおにぎりで済ます」ことは庶民なら一度は経験した感覚だろう。

コンビニでおにぎりを万引きし、店員に追い詰められて自殺した男がいる。

たかがおにぎり泥棒を追い詰めたと店側に非難の電話やメールが殺到したという。

おにぎり万引きして自殺  (8月5日 06:01)

たかがおにぎりと言うが餓死寸前のものにとっておにぎりは宝石にも勝る。

貧しかった戦前の沖縄では米の飯は銀飯(ぎんめし)といって滅多にお目にかかれない貴重品だった。

戦時中は更に食料不足が重なり常食の芋でさえままならなかった。

沖縄戦ではそんな食料が底をついた状況にあって、大事な銀飯のおにぎりに毒を塗して泣く子に食えと言う珍しい日本兵がいたことになる。

現代の感覚で考えると「泣く子に毒入りおにぎり」を与える日本兵は、残虐な日本兵の象徴だが、当時はお茶碗に飯粒一つ残しても怒られた。

この日本兵は日本人の美徳「もったいない」を知らない罰当たりな男だったと言うことになる。

この証言者の仲里利信県議会議長は集団自決の現地調査をした県議・文教厚生委員でもある。

仲里議長は文教厚生委員会でも戦争体験を語っているが沖縄タイムスの記事によると、日本兵が毒入りおにぎりを泣く子に・・・」という衝撃的な一節は無い。

同じ人物が語る戦争体験も報じる新聞社によってこのように違うものなのか。

「毒入りおにぎり」は「沖縄県平和祈念資料館」で沖縄住民に銃を向ける人形と並んで、残酷な日本兵を象徴する双璧となるだろう。

その貴重なはずの戦争体験のハイライトが“あの”沖縄タイムスの記事では語られていない。

 

体験語り歩み寄り 仲里議長(沖縄タイムス)

体験語り歩み寄り 仲里議長

 検定意見の撤回を求める意見書案を全会一致で可決した文教厚生委員会(前島明男委員長)。委員会終了後、与野党の委員は互いに歩み寄り、固い握手を交わした。

 意見書案の取り扱いをめぐっては、与野党の主張がぶつかり合い、何度も暗礁に乗り上げた。しかし、この日の委員会では終始、「同じ気持ちで採決したい」「どうしても意見をまとめよう」との声が上がり、政治対立を超えた「県民の意思」が示された。

 開始から三十分たった午後二時すぎ、着地点が見えないまま議論が進む中、委員の一人で県議会議長の仲里利信氏(自民)が「これまで話したことはないが、参考になれば」と口を開き、自身の沖縄戦体験を語り始めた

 「壕から追い出されたり、飛行機から丸見えの岩穴に一日隠れたりした。撃たれる覚悟もしたが撃たれなかった。何も食べられなかった弟は、満一歳で亡くなった。戦争とはこういうもの」と静かに訴えた。

 午後二時十五分、委員会は終了した。

 各委員の顔には笑顔が浮かび、安堵感が漂った。

 自民の伊波常洋政調会長は、共産党県委の前田政明副委員長や社大の比嘉京子書記長らと握手を交わし、談笑する場面も見られた。

                     ◇

仲井真県知事は辛うじて「県民大会」の主催を県がするのは避けたが、知事本人が参加するかどうかは不透明だ。

毒入りおにぎりのトラウマを証言する議長のいる、県議会の各派代表者会議が今日(8日)行われる予定である。

まさか県議会主催の「県民大会」なんて愚かなことは無いと思うが。

仲里議長さん、県知事の名言を思い出してください。

県議会が『市民運動』を主催或いは、これに深く関わったら禍根を残しますよ。

 

◆参考:県が「市民運動」を主催するわけにはいかないでしょう

 

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慰霊の日に「デタラメ沖縄戦記」、平和の礎 41人追加刻銘 県出身38人 総数24万1632人

2021-06-18 07:46:33 | ★改定版集団自決

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毎年、慰霊の日(6月23日)前後になると沖縄2紙は、沖縄戦特集を組む。

それも、決まって「悪逆非道な日本軍」を印象付けるデタラメ記事だ。

今回は、事実上の沖縄戦は1945年6月23日に終わったはずなのに、平和の礎に刻銘される戦没者が現在でも続いている奇妙な記事だ。

平和の礎の発案者であるドキュメンタリー作家の上原正稔さんによると、戦没者数はデタラメだという。

そりゃーそうだろう。

ゾンビじゃあるまいし、毎年戦没者が現われたらたまったものではない。

 

沖縄タイムス紙面掲載記事

平和の礎 41人追加刻銘 県出身38人 総数24万1632人に

2021年6月18日 05:00有料

 糸満市摩文仁の平和祈念公園内の「平和の礎」で17日、新たに追加刻銘を終えた石版が設置された。作業員がクレーンでつり上げ、慎重に取り付け作業をした。本年度は県出身38人、県外出身3人の計41人が追加刻銘された。総数は24万1632人。

 戦後50年の1995年に建立された後、毎年追加刻銘が続いている。同公園を管理する県平和祈念財団常務理事兼事務局長の松川満さんは「長いこと待たされたという方もおられるだろう。26年、お待たせしましたという気持ちだ。亡くなった魂に哀悼をささげたい」と話した。

(写図説明)クレーンを使い、刻銘板を設置する作業員=17日、糸満市摩文仁の平和祈念公園

 

きょう慰霊の日 糸満市摩文仁で戦没者追悼式

2019年6月23日 05:00

慰霊の日を前に平和の礎に手を合わせる遺族=22日午後5半ごろ、糸満市摩文仁の平和の礎

 沖縄県は23日、「慰霊の日」を迎えた。おびただしい数の住民を巻き込んだ地上戦となり、多くの尊い命や文化遺産を奪った沖縄戦から74年。激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園では、午前11時50分から県と県議会主催の沖縄全戦没者追悼式が開かれる。20万人以上の戦没者に思いを寄せ、恒久平和を願う。

 追悼式では玉城デニー知事が平和宣言をするほか、糸満市立兼城小6年山内玲奈さん(11)が自作の詩「本当の幸せ」を朗読する。安倍晋三首相や関係閣僚、衆参両院議長も出席する。

 犠牲者の名前を刻んだ「平和の礎」はことし新たに42人が追加され、総数は24万1566人となっている。22日も雨が降りしきる中、花を手向けたり、手を合わせたりする遺族の姿が見られた。

 幼い姉を亡くした会社員の酒屋常男さん(65)=浦添市=は孫と訪れ、姉・フサ子さんの名前の前で手を合わせた。「礎があるだけで姉の思いが残っている気がする。こうして前に立つと伝わってくるものがある」と感慨深そうな表情を見せた。

 子や孫とともに訪れた野原菊枝さん(82)=那覇市=は祖父・西銘宜保さん、父・宜盛さんの刻銘板に水を掛け、冥福を祈った。毎年訪れているという野原さんは、手を合わせながら戦時中の様子を孫に伝えた。

 

                  ★

先ず平和の礎の発案者の上原正稔さん自身にデタラメの戦没者数を」暴いてもらおう。

 

 

嘘にまみれた「平和の礎」刻銘戦没者は水増し、発案者の上原正稔氏が指摘 沖縄、2019-06-23

上記過去ブログの引用です。

 

「平和の礎」刻銘戦没者は水増し、発案者の上原正稔氏が指摘

 23日は組織的な沖縄戦が終結した日。沖縄県は、沖縄戦全戦没者追悼式典を正午、糸満市摩文仁の沖縄県平和祈念公園で開く。戦没者名を刻んだ糸満市摩文仁の「平和の礎」に、2019年度は新たに42人が追加刻銘され、刻銘者総数は24万1566人となった。そのうち、沖縄県出身者は約15万人に上る。

平和の礎

「平和の礎」に沖縄戦などの犠牲者名の刻銘板を取り付ける作業員=17日午前、沖縄県糸満市

 「平和の礎」発案者で戦争ノンフィクション作家の上原正稔氏はこのほど、県庁で記者会見を開き、「平和の礎に刻まれている刻銘者の過半数は沖縄戦と関係のない人々で、沖縄戦で亡くなった県出身者は5万5千人程度。意味もなく、県民の犠牲者を増やす嘘はやめてもらいたい」と訴えた。

 平和の礎は、「世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ記念碑『平和の礎』を太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して建設する」という趣旨で1995年に建設された。

 県出身者の刻銘対象は、①満州事変に始まる15年戦争の期間中に、県内外において戦争が原因で死亡した者②45年9月7日以後、県内外で戦争が原因で1年以内に死亡した者――と規定されている。

 沖縄県生活福祉部は96年、沖縄戦犠牲者は20万656人と発表。総務省もこの数字を採用している。

 戦後、国は、軍人・軍属の遺族を支援するための「戦傷病者戦没者遺族等援護法」で、民間人までも「戦闘参加者」と位置付け、約5万6千人の沖縄県民が援護の対象となった。上原氏は、この数字をもとに、「嘘の申請をした人を差し引けば、県民の犠牲者は5万5千人を上回ることはない」と断言した

 また、戦前の昭和19年の人口と戦後の昭和21年の人口を勘案して、一般県民の約9万4000人が犠牲になったと推計されていることについて、上原氏は「戦前に本土や台湾に疎開してしばらく帰らなかった人が多いことが一切考慮されていない乱暴な数字だ」と批判。離島の粟国村を例に、「満州事変から戦後までの粟国村出身者を刻銘した結果、沖縄戦における20人弱の戦没者が601人に膨れ上がっている」と指摘した。

 上原氏は今年3月、県議会に正しい戦没者数を把握するよう意見書を提出。5月には、政府宛てにも同様の意見書を提出した。

 (沖縄支局 豊田 剛

               ★

 

■デタラメな「戦争マラリア」

戦争マラリアとは誤解を招く左翼の造語だ。

沖縄戦で石垣島が米軍の艦砲射撃の標的のなるのを恐れた日本軍は、少ない輸送船を動員、「血の一滴」と言われた石油燃料を使って石垣市民を西表島に疎開させた。

結果的に、米軍の艦砲射撃は免れたが当時沖縄本島にも生息していたマラリア蚊に刺され、マラリアを発症、治療薬の無い当時、死亡する者もいた。

これを称して沖縄2紙は「戦争マラリア」という造語を逸らせ、あたかもにHん軍がマラリア蚊を培養して石垣市民を罹患させたような印象記事を書く。

ちなみにマラリアは沖縄本島にも患者がいたし、日本全土でマラリアが絶滅するのは米軍が特効薬・キニーネを配給するようになった戦後のことである。

沖縄タイムス紙面掲載記事

戦争マラリア悲劇朗読 石垣出身高橋さん 長野で会企画 「平和の思い伝える」

2021年6月18日 05:00有料

 【八重山】戦時中に波照間島の住民が強制疎開した西表島の岩に刻まれた「忘勿石 ハテルマシキナ」を題材に戦争マラリアの悲劇を伝える少年長編叙事詩「ハテルマシキナ」の朗読会が19日、長野県松本市で開かれる。「忘勿石 ハテルマシキナ」は、60人超の児童の死を見守った波照間国民学校(当時)の識名信升校長が島を引き揚げる際に岩場に刻んだ。朗読会を企画した石垣市出身で同県安曇野市に住む高橋(旧姓・新庄)喜和さん(74)は「戦争マラリアと識名先生が岩場に刻んだ平和希求の思いを、多くの人に伝えたい」と話す。

 高橋さんは移住して20年が過ぎた頃、児童文学作家の故桜井信夫さんの少年長編叙事詩「ハテルマシキナ」で初めて知る史実に驚くとともに「識名校長」の名を確認し、強い衝撃を受けた。

 識名校長は戦後、高橋さんの出身校・石垣中の校長を務めた。卒業後に大阪の自動車整備場で働いていた高橋さんを前触れもなく訪ねてきて、励ましてくれたという。叙事詩には、識名校長が軍の前に立ちはだかる姿も描かれていた。高橋さんは「勇気ある行動と私を励ましてくれた先生と完全に重なった」と話した。

 語り継ぐことを決意した高橋さんは読み聞かせのボランティアをしている妻や知人らの協力を得て朗読会を企画し、開催にこぎ着けた。

 現地に建立された「忘勿石之碑」はおととしの台風で破損被害を受けて現在、修復期成会による募金活動が進む。周知活動を通して朗読会を知った期成会役員で、鑑賞を予定している島村賢正さん(71)は「長野や近隣県に住む友人らに鑑賞を呼び掛けてほしい」と話している。

 朗読会は松本市音楽文化ホールで19日午後1時から。入場料は千円。

(写図説明)岩場に刻まれた「忘勿石」(右)と識名信升校長の慰霊碑の写真パネルを紹介する島村賢正さん=14日、石垣市内

 

沖縄タイムス紙面掲載記事

潮平正道さん死去 88歳 戦争マラリア伝える

2021年4月19日 05:00有料

 八重山戦争マラリアを語り継ぐ会会長で九条の会やえやま共同代表を務めた潮平正道(しおひら・まさみち)さんが18日午後4時5分、病気療養中のところ石垣市内の病院で死去した。88歳。石垣市石垣出身。自宅は石垣市石垣87の3。告別式は21日午前11時~正午、石垣市真栄里570の8、サンレー石垣紫雲閣で。喪主は妻俊(とし)さん。

 1945年4月、旧制県立八重山中学校入学と同時に鉄血勤皇隊に動員され軍作業に従事。小学校などで戦争体験の講話を続けた。

 2010年6月、八重山戦争マラリアを語り継ぐ会の結成に関わり、20年3月に会長に就いた。証言集「命の輝きを求めて-マラリアを生き抜いた人々の証言」のほか、八重山の戦争を記録した自身の絵本「絵が語る八重山の戦争-郷土の眼と記憶」を発刊した

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腐臭を放つ大江健三郎、大江・岩波は裁判には勝ったが真実の法廷では敗れた。

2021-06-18 00:06:59 | ★改定版集団自決

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来週の水曜日(23日)は慰霊の日である。

毎年、この時期になると沖縄2紙が、「悪逆非道な日本軍」をテーマにした沖縄戦特集を掲載する。

過去ブログをサルベージして「大江・岩波集団自決訴訟」について引用する。

腐臭を放つ大江健三郎 2015-06-23

 
本日は「慰霊の日」。
 
今年は終戦70年の節目の年とあって、本日の沖縄タイムスは合計10面を使って沖縄戦の大発狂。
 
沖縄タイムスの発狂見出しにに逐一対応するのはバカバカしいので、一面の見出しのみを紹介する。
 
■一面トップ
 
戦後70年きょう慰霊の日
 
「戦争は人間性奪う」
 
戦争体験者70人のメッセージ
 
(以下省略) ふー、やれやれ。
 
              ☆
 
昨日のエントリーで琉球新報のデタラメな社説を紹介した。

大江・岩波集団自決訴訟の最高裁判決を捻じ曲げて、あたかも最高裁が「集団自決は軍の命令による」と認定したかのように報じるデタラメな社説のことだ。
 
最高裁で被告・大江側の勝訴が確定したのだから、軍命も確定したものと事実誤認していた多くの読者から問い合わせがあった。
 
そして、改めて新聞の影響力の大きさに慨嘆した。
 
たかが新聞、されど新聞である。
 
 
最高裁判決が出た当時の当日記から、サルベージしてみよう。
 

腐臭を放つ大江健三郎氏の自己保身 2011-04-24

 
最高裁判決文を紹介します。
 
判決はたったこれだけです。
上告より2年4ヶ月も待たせて、これだけかとも思うのだが、独自の判断を避けて大阪高裁判決を丸呑みしたのなら、所詮こんなものだろうか。
 
高裁判決が約半年の短期間で判決を下したのに対し、最高裁が2年余も時間をかけたのは、最高裁といえども、いや、むしろ最高裁だからこそ「戦後民主主義」の呪縛からは逃れきれず、いろいろ逡巡した結果だろう。 
 
 今我が国は、国民が選んだ民主党政権の下で未曾有の国難にあえいでいる。 最高裁判が「戦後民主主義」的判断を下すということが、現在の政治状況を見事に象徴している。
 白木勇裁判長以下前裁判官の名前も記しておいたので、次の選挙では不適格裁判官として全員辞職させよう。

 ■最高裁判決文

 

  決定

当事者の表示    別紙当事者目録のとおり。

 

上記当事者間の大阪高等裁判所平成20年(ネ)1226号出版差し止め等請求事件について、同裁判所平成20年10月31日に言い渡した判決に対し、上告人兼申立人らから上告及び上告心理の申し立てがあった。 よって、当裁判所は次のとおり決定する。

主文

本件上告を棄却する。

本件を上告審理として受理しない。

上告費用及び申し立て費用は上告人兼申立人の負担とする。

理由

1上告について

民事事件について、最高裁判所に上告できることが許されるのは、民訴法312条1項又は2項所定の場合に限られるところ、本件上告理由は、違憲及び理由の不備をいうが、その実質は事実誤認又は単なる法令違反を主張しているものであって、明らかに上記各項に規定する自由に該当しない。

2 上告受理申し立てについて

本件申し立ての理由によれば、民訴法318条1項により受理すべきものとは認められない。よって、裁判所官全員一致の意見で、主文の通り決定する。

 

 平成23年4月21日

最高裁判所第一小法廷

裁判長裁判官   白木  勇

     裁判官   宮川  光治

     裁判官   櫻井  龍子

     裁判官   金築  誠志

     裁判官   横田  尤孝

                              ★


喜ぶ大江さん「強い励ましに」
 沖縄タイムス2011年4月23日


   【東京】沖縄戦をテーマにした「沖縄ノート」で「集団自決(強制集団死)」の日本軍強制の記述をめぐり、訴訟を闘い続けたノーベル賞作家の大江健三郎さん(76)は22日、東京地裁の司法記者クラブで会見し、軍の関与を記述した同作は名誉毀損(きそん)にあたらないなどとする一、二審判決の確定を受け、「(沖縄戦の評論は)一生の仕事と考えていたので(裁判は)苦しかった。最高裁の決定は力強い励ましになる」と喜びを語った。

 原告の上告を退ける最高裁の決定は、22日午前に関係者へ郵送で知らされた。同11時半ごろ電話で弁護士から知らせを受けたという大江さんは「ぼんやりして、(係争中の)5年間を考えていた」と突然の知らせを振り返った。

 会見で、大江さんは50年余りの作家活動の中で、沖縄ノートは「広島ノートと併せ、一番大切な本」と表現。沖縄戦や米軍基地などを負担してきた沖縄を、日本人が認識し直すために著作を続けてきたと説明し、「この本のことを覚えていてもらいたい、高校生にも読んでもらいたい。今あるのは、そういう気持ちだけ」と静かに語った。(略)

                ☆

昨日の沖縄2紙の狂乱振りを見ていると、「軍命」「強制」「教科書」と書いた大見出しが躍り、まるで最高裁判決で「軍命」「や「軍の強制」が確定し教科書にもおおっぴらに「軍の命令により集団自決が起きた」とかけるかのような印象を受ける。

歪曲と捏造の記事で溢れた紙面で連日叩かれたケビン・メア氏の心境が理解できるような気がする。

ところが一夜明けた本日の沖縄タイムスにはメア発言はともかく、昨日の狂乱が嘘のように集団自決関連の記事は一行もない。

筆者も複数の知人友人から電話をもらい「残念」の言葉を聞いたが、確かに出版差し止めと被告の謝罪が適わなかったのは残念であるが、両隊長が命令したり強制して集団自決が起きたのではないということは、既に大阪高裁で確定済みだったのでそれほど落胆したわけではないと答えておいた。

事実、負け惜しみではなく、両隊長の名誉回復は既に大阪高裁で確定した、と何度もエントリーしているので古くからの読者ならご存知のことと思う。

(省略)

それで、当日記では沖縄タイムス記事の次の「歪曲」部分を取り上げてみる。

会見で、大江さんは50年余りの作家活動の中で、沖縄ノートは「広島ノートと併せ、一番大切な本」と表現。沖縄戦や米軍基地などを負担してきた沖縄を、日本人が認識し直すために著作を続けてきたと説明し、「この本のことを覚えていてもらいたい、高校生にも読んでもらいたい。今あるのは、そういう気持ちだけ」と静かに語った。

このくだりを見た高校生は、最高裁が大江氏の問題の著書である『沖縄ノート』の内容の真実性を最高裁が認めたと判断し、そのデタラメな本の内容を鵜呑みにしてしまう恐れがある。

最高裁は、むしろ『沖縄ノート』には誤りがあるが、執筆当時の40年前には「軍命があった」という噂が流布し、それが検証も無いまま「定説」となっていたので、大江氏が「軍命」を「真実と思っても仕方が無かった」と、判断しているのである。(「真実実相当性」)

大江氏は最高裁がいかがわしいと判断した「沖縄ノート」を高校生にも読んでほしいと言っているのだ。

この発言を見て、高校生がデタラメを信じることに何ら心の痛痒を感じない保身に汲々とし老作家の腐臭を感じ取る。

 

4年前の「11万人集会」のとき、沖縄2紙に踊らされて参加した県民の大多数は集団自決問題が何であるかを知っていなかった。

「集団自決があった事実を教科書から削除するのはけしからん」といった基本的な事実誤認をしている県民は多く、事実、当日記にもそのような罵声を浴びせるコメントも多数あった。

ところが昨日の琉球新報の「識者評論 岩波・大江勝訴」と題する記事を」見て仰天した。

沖縄平和ネット代表世話人の村上有慶氏が、こんなことを言っているのだ。

裁判は原告の梅澤氏本人が命令を出したかというより、、沖縄戦の「集団自決」の有無を問う訴訟を起こすこと自体が目的で、「集団自決」はなかったとする教科書を書き人たちをバックアップするという政治的な動きの中にあった。」(琉球新報 4月23日)

4年前の沖縄2紙の歪曲報道に踊らされた気の毒な県民ならともかく、顔写真つきで新聞の「識者評論」をお書きになるエラ~イ先生が「『集団自決』の「有無を起こす裁判」があったと信じているのが驚きである。

いや、いや識者の先生がこんな基本的な間違いをするはずはない。

きっと、琉球新報が読者を「原告側は明らかな事実を教科書から消し去ろうと目論む卑劣な集団」という深謀で印象操作したものと考えるが、どうだろうか。

 

以下は池田信夫氏のブログの引用です。

大江健三郎の犯罪

 沖縄の集団自決をめぐって争われた名誉毀損訴訟の最高裁判決で、被告の大江健三郎氏と岩波書店が勝訴した。これまでの経緯を知らない人が、大江氏が正しかったと誤解するのもよくないので、少しコメントしておく。
問題の訴訟は、2007年の記事でも書いたように、赤松嘉次大尉らを集団自決を命じた屠殺者だと罵倒した大江氏の『沖縄ノート』の記述が事実かどうかをめぐって赤松大尉の遺族などが起こしたものだ。これについては曾野綾子氏が現地調査をした上で「事実ではない」と指摘し、大江氏側も問題の記述が伝聞で確認できないことは認めた。

一審の大阪地裁は「軍の命令があったと証拠上は断定できないが、関与はあった」という理由で原告の申し立てを退けた。これは「ノーベル賞作家」に配慮した問題のすり替えである。原告は赤松大尉が集団自決を命令したかどうかを問うているのであって、軍の関与の有無を争ってはいない。軍の関与なしに手榴弾を入手することは不可能である。

二審判決も事実関係を曖昧にし、命令があったかどうかはわからないが大江氏が命令を「真実と信じる相当の理由があった」という理由で、出版を差し止めるほどの事由はないとして控訴を棄却した。たしかに出版差し止めというのは、民主主義国では軽々に認めてはならないが、原告が差し止め訴訟を起こしたのは、大江氏側が記述の修正をしなかったからだ。

裁判を通じて明らかになったのは、赤松大尉は住民を「屠殺」するどころか、集団自決を思いとどまるよう伝えていたということだった。裁判では思わぬ事実も出てきた。大江氏を支援する先頭に立っていた金城重明牧師(元沖縄キリスト教短大学長)が、渡嘉敷島でゴボウ剣で数十人を刺殺したことを法廷で認めたのだ。こうした集団的な狂気が、どうして生まれたのかを追究するのが作家の仕事だろう。

戦争は軍部が暴走して起こしたもので、国民は無垢な被害者だという大江氏の幼稚な歴史観は、軍はすべて悪だという「平和憲法」的な思い込みでしかない。集団自決をもたらしたのは軍ではなく、人々を駆り立てる空気だったのだ。旗を振って戦勝を祝ったのは国民であり、それを積極的に煽動したのは新聞だった。彼らは戦後も解散させられることなく、責任を軍に押しつけてみずからの戦争犯罪に口をぬぐってきた。

大江氏を5年間の訴訟でサポートし、『沖縄ノート』を重版してきた岩波書店も共犯者である。彼らが戦後60年あまり振りまいてきた「非武装中立」の幻想は、きわめて有害なものだった。国民の短絡的な正義感に迎合して結果に責任を負わない万年野党と、既得権を無条件に擁護する与党との不毛な対決の中で政策の対立軸ができず、優先順位をつけて政策を取捨選択しなかった結果が、莫大な政府債務と迷走する危機管理である。

大江氏も岩波書店もわかっているように、

彼らは裁判には勝ったが真実の法廷では敗れた

『沖縄ノート』の大部分は、現地紙の切り抜きを文学的に加工したでっち上げだ。

それは彼の願望とは逆に、事実を直視できない「進歩的知識人」の知的不誠実の証拠として歴史に残るだろう

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