快気分析

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仕組みとアプローチ -  本能寺の変 毛利氏が秀吉よりも早く信長襲撃実行を知っていた可能性は高い

2017-11-26 11:02:19 | 地震 津波
 旧足利幕府奉公衆である伊勢貞興、諏訪盛直、御牧景重らが織田信長襲撃の機会を常日頃から伺っていたとすれば、襲撃実行の直前に足利義昭への伝令を送っていた事は十分に考えられます。
 その場合は織田方が制圧していた近畿、中国エリアの検問も当然、本能寺の変の事を知らないわけで、「秀吉への援軍を考えている信長や、援軍を予定している光秀らからの使者」という名目で早馬などで楽々検問所を通過出来たと考えられます。
 検問所が知る前に通過してしまえば逃げ切れるわけです。
 その使者が秀吉の所に行ったのかと言えばそうでは無く、足利義昭の所へ急にコースを変えてもそれを阻止する事は秀吉方も不可能だったと見て良いかと思われます。
 本能寺の変は発生直前に既に伝令が送られ、起きた直後には足利義昭経由で毛利氏に「信長襲撃実行」と言う形で情報が届いていた可能性が有り、その場合は秀吉よりも早かった事も十分に有り得ます。
 そうであったなら当時毛利氏の4万とも言われる軍勢に対しつつあったたかだか2万の軍勢の秀吉が織田方からの情報で本能寺の変を知ったのではなく、逆に毛利氏から「こんな話があるんだけどね」と脅されて、後ろ盾を失った事に気が付いて慌てて姫路城まで逃げ帰った、と言う見方もできるわけです。
 本能寺の変の一報では信長が生きているかどうかもわからなかったわけですから、変の起きる前に放たれた伝令による信長襲撃実行の情報であってもさして違いはなかった、と見て良いかも知れません。
 旧足利幕府奉公衆が信長襲撃実行日と場所決定の事を、予め決められていた合言葉(暗号化された表現)で表現した書状を持った伝令が、新月かその前後期間であっても日中の早馬で楽々と足利義昭や毛利氏の所へ届けていた可能性は十分に有る、と筆者は考えています。

仕組みとアプローチ -  本能寺の変 秀吉を追撃しなかった毛利氏のアルゴリズムは正しかった

2017-11-25 10:42:41 | 地震 津波
 本能寺の変の一報を受けた秀吉の軍勢は毛利氏と和睦し、中国大返しで京都に向かうわけですが、毛利氏にしてみればこのような秀吉の和睦は信長やその代理となる織田氏の了解を得たものではなく、当時としては言わば勝手に結んだ密約に近いものとも言えるわけで、このような協定は例え毛利氏が反故にした所で秀吉も協定破りを口にはしにくいはずだったとも考えられるのです。
 では「毛利氏が何故秀吉の軍勢を追撃しなかったか?」となると、当然、よく言われる通り、そして筆者もそう思いますが、毛利氏と秀吉が当時既に相当な共謀関係になっていたと考えられ、本能寺の変も或いは、明智家臣団の一部でもある旧足利幕府奉公衆経由などで変の決行数時間前あたりから伝令が発せられていた可能性も十分に考えられます。
 仮ににそうであるとした場合、実は秀吉や毛利氏、足利義昭らが変の発生が有るのを6月3日の昼ごろには知っていたとなり、それならば高松城周辺から姫路城に移動するスピードが異常に速い、と言うのも十分に裏付けられるわけです。
 中国大返しの速さが異常な事から秀吉黒幕説なども多いわけですが、以前にも記事にした通り、当時は未だ征夷大将軍であった足利義昭が常日頃から旧足利幕府奉公衆であった伊勢貞興らに信長襲撃命令を下していたならば、変の決行数時間前には伝令を送っていた可能性は高いと考えられます。
 しかし筆者は毛利氏や秀吉、そして足利義昭らが仮に共謀していなかったとしても、毛利氏は秀吉を追撃しなかったと考えています。
 理由は次の通りです。
 秀吉も毛利氏も本能寺の変について最初に情報を得たのは「第一報」に過ぎません。
 変の直前、直後での状況しかわからず、しかも信長や信忠の遺体は確認されていないのです。
 毛利氏が本能寺の変で信長が本当に実質討たれ、信忠も二条城で実質討たれたのがわkるのは、変の数日後ではないでしょうか。
 仮に変の数日後である6月8日あたりに毛利氏がほぼ正確な情報を得たとしても秀吉は既に遠くに行ってしまっており、その時点で秀吉の軍勢を追撃してもあまり意味は無いという事になるわけです。
 変からまだ日が浅い6月4日あたりに毛利氏が掴んだ不確かな情報で、毛利氏が秀吉との和睦を反故にして秀吉の軍勢を追撃、討伐にかかったとして、仮に信長が生きていた場合はかなりのペナルティーとなり、後の駆引きで相当なハンディを負う事になります。
 そして秀吉からの信頼も失う事になります。
 反対に仮に信長が生き残っておらず。本当に抹殺されたならば、織田方は跡目争い、家臣同士の争いなどで内紛状態になり、上杉氏、北条氏、長宗我部氏などが一斉に織田方に反撃の攻勢をかけて来るわけで、織田方の各武将が残っていたとしても逃げ帰る、或いはやっと防戦一方で、とても毛利氏攻めなど出来ない事となるわけで、結果として実際にそうなりました。
 更に毛利氏が本能寺の変の一報では「信長がまだ生きていると言う可能性」を考えた理由について、筆者はもう一つ有ると考えています。
 それは以前にも書きましたが、信長が仮病を装って弟の織田信行を清須城に誘き出し、暗殺した事実が有るからです。 
 この事を毛利氏が知っていれば、或いは知らなくても当時の戦乱ではこうした謀略が頻繁に行われていたはずと思われ、「いくら信長の弟でも敵対していたならば信行でも仮病を使ってでも暗殺すると言うなら、敵対している毛利氏が同じ様にして仮病のクーデターで誘き出されると言うのは十分に考えられる。本能寺の変というクーデターも信長と光秀が共謀した仮病であり毛利氏を秀吉追撃に誘き出して迎撃するはず。」とリスクを想定したのではないか、と筆者は考えています。

 

仕組みとアプローチ -  本能寺の変 毛利氏もかなり早く知っていた可能性

2017-11-24 12:21:36 | 地震 津波
 本能寺の変が有ったのは6月2日の朝。
 その一報が秀吉に届いたのが6月3日の夜から6月4日の朝にかけてと言うのが通説のようですが、これが異常に早いとする考え方も有るようです。
 早馬ならば不可能ではないのかも知れませんが、以前の記事に書いた通り、6月1日は新月で真っ暗ですから夜間は松明を掲げて速度を遅くするしか有りません。
 更に本能寺の変で有る程度の情報がわかるのはおそらく6月2日の昼頃と考えた場合、当日日中の6時間で仮に平均時速20km/hとした場合で120km。
 夜間は10km/hとして90km。
 翌日である6月3日に全道のりと言われる240kmのうちの残された距離30kmを移動するのは確かに無理ではないかも知れないと思われます。
 ただ毛利氏が6月4日に変の情報を得たと言うのは、途中の街道を秀吉が既に管理下に置いた状況では無理なのではないか?とすく見方も有るようです。
 これに対して筆者は次の様に考えています。
 6月1日が新月という事は本能寺の変が発生した6月2日、3日は大潮、6月4日は大潮かそうでなかったしてもやはり干満差が大きく、瀬戸内海は潮流が激しかったはずです。
 ならば少なくとも一部は海上ルートで潮流に乗って移動すれば秀吉の配下の検問を経由せずに移動が可能。
 夜間は新月に近くほぼ真っ暗になっていたはずなので、当時の夜間航行が可能だったかどうかはわかりません。
 ただ毛利氏が瀬戸内海で残っていた内々の毛利氏方水軍や漁民などを使って陸上拠点での松明などを利用し海上ルートの通報システムを構築できていれば有る程度の航行は夜間でもできたかも知れません。
 仮に6月2日の14時に大阪湾か明石あたりで馬から船に乗り換えて6月4日の14時に毛利氏の所領に到着とした場合、所要時間は48時間。
 平均時速5km/hで240kmですから或いは可能だったかも知れないばかりか、潮流などの状況次第では秀吉よりも早く変の一報、特に織田信忠をほぼ討取った事が間違いない事を、旧足利幕府奉公衆である伊勢貞興ら二条城襲撃部隊からの伝令で確認できていた可能性もあると思われます。
 

仕組みとアプローチ -  ユーラシアプレート関連エリアとNZでM5以上の地震発生

2017-11-23 23:29:10 | 地震 津波
 UTCで11月22日以降に発生したM5以上の地震は次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

https://www.emsc-csem.org/Earthquake/?filter=yes

2017-11-22 20:22:52.5 37.14 N 28.59 E 5 5.0 WESTERN TURKEY
2017-11-22 14:20:10.8 23.59 N 120.73 E 18 5.1 TAIWAN
2017-11-22 07:42:58.3 36.35 S 177.44 E 20 5.5 OFF E. COAST OF N. ISLAND, N.Z.
2017-11-22 01:11:23.4 0.38 N 124.50 E 116 5.1 MINAHASA, SULAWESI, INDONESIA

引用終了

 ユーラシアプレート関連エリアの比率が目立っている事がわかります。
 そしてNZの地震はケルマディック諸島エリアより南ではありますが、やや近いという点。
 そして以前から記事に書いている通り、M7以上の地震が去年4月の熊本地震を最後にその後発生していないあの空白エリア(太平洋西側でフィリピン、グアムから北、カムチャッカより南のエリア)に台湾が該当しています。
 どれもM6に至らない規模の地震という点でそれ程気にする事では無いような気もしますが、一方でプレートや地殻のバランスが地球規模で変わって来ているかどうかと言う点なども含め今後の推移を見守ると言う所でしょうか。
 
 

仕組みとアプローチ -  本能寺の変 足利義昭から伊勢貞興、諏訪盛直、御牧景重らへ直接命令が出されていた可能性

2017-11-21 08:55:33 | 地震 津波
 本能寺の変に関して前回までの記事で書いた事、そして更に説明を追加してまとめてみたいと思います。
 信長を討ち取る命令は当時毛利氏の所領で擁護を受けていた征夷大将軍 足利義昭から旧室町幕府奉公衆へ、明智光秀を通さずに直接命令が出ていた可能性が十分に有る。 
 足利義昭が旧室町幕府奉公衆である細川藤孝らへの同様の命令は有ったかどうかはわからないが、有った可能性は十分に有り、その場合、細川藤孝らは事前に信長襲撃がいつかは起きるであろう事はわかっていた事になる。
 そして明智光秀が以前は細川藤孝の足軽に過ぎなかったにもかかわらず、信長にさっさち鞍替えして細川藤孝の上に立つ身分になったのを細川藤孝はあまり良く思っていなかった可能性も有る。仮にそうだとすれば柴田勝家と豊臣秀吉の仲が良くなかったのと似ている。
 足利義昭も追放される直前まで家臣でいた細川藤孝らに比べて早めに信長へ鞍替えして出世した明智光秀の事はあまり信用していなかったと見られる。
 それは本能寺の変の後、山崎の戦いとなる時に光秀が援軍要請したにもかかわらず細川藤孝らが援軍せずに様子見に徹した事で裏付けられる。
 信長を討つ場合は当然、後継者が決定していた織田信忠も討たなければ直ぐに家臣がまとまって織田勢がまとまってしまう可能性が有り、後継者争いで織田方が弱体化するのを目論むなら京都にいた織田信忠も討つのは当然である。
 加えて織田信忠は征夷大将軍に就任、足利義昭は解任と言う事が決まりつつ有り、それは前日の茶会でも話が出た。
 信長がこの茶会で所有する茶器の名品をほぼ総動員したのは、信長の右大臣留任か或いは関白、太政大臣への就任だけでなく、織田信忠の征夷大将軍就任を進めるべく公家衆に工作するつもりだったと言う事になり、また徳川家康が何故かこの茶会にいなかったのは、こうした交渉をするのに家康はいて欲しくないので、堺で接待して実質席を外させたと考えられる。
 織田信忠もこの茶会にいなかったのは公家達や茶人から、征夷大将軍に織田信孝、織田信雄などを就任させた方が良いなどの意見が出た時に信忠がいると面倒になるからとも考えられる。
 実際に茶人としては島井宗室が来ているが、この茶人は大友氏に関係が深く、キリシタン大名であった大友氏はかなりキリシタン武将に近かった織田信孝を(イエズス会の指令で)推する可能性が有ったとも考えられなくはない。
 京都には信長と信忠がいて、しかも主な兵力は明智軍だけ、織田信孝とに丹羽長秀の軍は堺にいて離れている。
 前日の茶会で公家か茶人経由で本物の信長が手薄な警護で宿泊しているの情報が伊勢貞興、諏訪盛直、御牧景重らへ入り、織田信忠の征夷大将軍就任発表前は今しか無い。
 中国攻めで明智軍の遠征の準備で慌しいのは当然で有り、信長、信忠を迎える為に京都へ兵を進めてもそれ程異様には見られにくいし、異変を察知した者が信長へ知らせにいく場合は新月の夜である以上、松明を持って移動するのでそれを討取れば良い。
 それらの事を追い詰められていた斉藤利三に相談し、更に明智軍を動かす以上明智秀光にも斉藤利三に相談、結果、信長と信忠を襲撃する事が決定し、斉藤利三と明智秀光本本隊、伊勢貞興、諏訪盛直らは信忠襲撃部隊となり、変は決行された。