本能寺の変が追い詰められていた斉藤利三の暴走である可能性について、その後に旧室町幕府奉公衆もまた追い詰められていた事もは既に以前に記事にしました。
ではどちらが話を持ちかけたのか?と言うのは斉藤利三の可能性が高いと思っていましたがその後に更に調べて行くと、どうも伊勢貞興、諏訪盛直、御牧景重らの旧室町幕府奉公衆の方だったのではないか?とも考えられるようになりました。
この旧室町幕府奉公衆達の多くは、足利義昭が京都から追放される直前まで足利義昭に仕えていた者が多かったようです。
一方の明智光秀は足利義昭が追放される1年前位から実質、信長方に乗り移っていたようです。
つまり足利義昭は明智光秀よりも伊勢貞興、諏訪盛直、御牧景重らの方を信用していた可能性が高い事が考えられます。
その場合、足利義昭は明智光秀ではなく伊勢貞興、諏訪盛直ら旧室町幕府奉公衆の幾人かに「機を見て信長を討つように」と指示命令を出していた事は十分考えらると思っています。
更に公家の中にも足利義昭や毛利氏と利害を同じにするグループも少なからずいたはずと考えられ、それらの一人でも茶会に参加し、本物の信長が本能寺にいて警護も手薄なのを確認し、それを伊勢貞興、諏訪盛直ら旧室町幕府奉公衆に人脈ルートで連絡。
新月の状況で信長が抜け出していないのこれら公家の一部が遠目で監視。
そして秀吉援軍で明智軍として集結した中に、伊勢貞興、諏訪盛直ら旧室町幕府奉公衆の幾人がいて、そこにいた斉藤利三や明智秀光らに話をもちかけ、「襲撃できるこれだけの機会は今回を逃したらもうあまりないだろう」と言う事になり実行が決定。
光秀はこれを知らなかったと考えられなくも有りません。
この仮説によれば多くの疑問点はクリアできるようになって来ます。
例えば山崎の戦いで御牧景重が光秀に退却を進言しつつ、自らは秀吉軍に決死の抵抗をして戦死、と言うのも何故そこまでするのか?と言う疑問が解けてきます。
自分らが決定して強行したからです。
また光秀が準備不足だったのは以前の記事で書きましたが、この謎も解けて来ます。
ではどちらが話を持ちかけたのか?と言うのは斉藤利三の可能性が高いと思っていましたがその後に更に調べて行くと、どうも伊勢貞興、諏訪盛直、御牧景重らの旧室町幕府奉公衆の方だったのではないか?とも考えられるようになりました。
この旧室町幕府奉公衆達の多くは、足利義昭が京都から追放される直前まで足利義昭に仕えていた者が多かったようです。
一方の明智光秀は足利義昭が追放される1年前位から実質、信長方に乗り移っていたようです。
つまり足利義昭は明智光秀よりも伊勢貞興、諏訪盛直、御牧景重らの方を信用していた可能性が高い事が考えられます。
その場合、足利義昭は明智光秀ではなく伊勢貞興、諏訪盛直ら旧室町幕府奉公衆の幾人かに「機を見て信長を討つように」と指示命令を出していた事は十分考えらると思っています。
更に公家の中にも足利義昭や毛利氏と利害を同じにするグループも少なからずいたはずと考えられ、それらの一人でも茶会に参加し、本物の信長が本能寺にいて警護も手薄なのを確認し、それを伊勢貞興、諏訪盛直ら旧室町幕府奉公衆に人脈ルートで連絡。
新月の状況で信長が抜け出していないのこれら公家の一部が遠目で監視。
そして秀吉援軍で明智軍として集結した中に、伊勢貞興、諏訪盛直ら旧室町幕府奉公衆の幾人がいて、そこにいた斉藤利三や明智秀光らに話をもちかけ、「襲撃できるこれだけの機会は今回を逃したらもうあまりないだろう」と言う事になり実行が決定。
光秀はこれを知らなかったと考えられなくも有りません。
この仮説によれば多くの疑問点はクリアできるようになって来ます。
例えば山崎の戦いで御牧景重が光秀に退却を進言しつつ、自らは秀吉軍に決死の抵抗をして戦死、と言うのも何故そこまでするのか?と言う疑問が解けてきます。
自分らが決定して強行したからです。
また光秀が準備不足だったのは以前の記事で書きましたが、この謎も解けて来ます。