快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  毛利氏は織田方の内紛を想定していたと言う妥当な対応だった

2018-05-24 20:59:55 | 明智光秀
 毛利氏が秀吉を追撃せず、足利義昭を明智方に渡す事もせずにいた対応について再度考えて見ました。
 今月23日の記事で毛利氏のリスク管理について記事にしましたが、ここまで詳細に落とし込まずとも、大きな流れで考えればやは静観が妥当だったと考えられます。
 結論から書きますと、要は織田方の内紛が当然想定される事、特に柴田勝家と秀吉の不仲を知っていたのならそれは必至、更に織田信長と信忠が討たれたのであれば、当然の如く織田信雄と織田信孝の跡目争いの様相、そしてそれに関連した家臣達の勢力争いが激化して内紛状態になる可能性が高い、と想定するのが正しく、現実としてそうなりました。
 このような内紛が発生した場合、それらを観察しながら何処を裏切り、何処に加担するかを後から決めれば良い訳で何も本能寺の変直後十数日内に急いで結論など出す必要などないのです。
 つまり毛利氏は何も急いで秀吉との和睦を反故にするリスクを負う必要はないわけで、反故にするなら秀吉を含む織田勢全体が崩壊する時、或いは秀吉勢が崩壊する時であれば良い、と言う事になります。
 本能寺の変の後、有る程度の時間が経てば北条氏、上杉氏、長宗我部、雑賀衆、高野衆など反織田勢となりうる勢力が同調しながら蜂起し出して織田方には手がつけられない状況になった可能性は少なくなかったはずで、その時になってから毛利氏は秀吉との和睦を反故にして反織田勢に同調して一斉蜂起に加担しても遅くは無くリスクも低いわけです。
 実際には秀吉が速攻で政権を取ったのですが、毛利氏は秀吉との協定を反故にしなかった実績で最悪の事態は免れる事になりました。
 リスク管理も好例かも知れません。
 

仕組みとアプローチ -  福岡県筑後地方で地震発生 M4.0 このエリアの地震をもう少し調べました

2018-05-24 08:17:54 | 地震 津波
 夜に発生したM4.0の地震ですが国内データでは次の通りです。

 2018年5月24日 1時25分ごろ 福岡県筑後地方 M4.0 最大震度2

 M4程度の地震なら国内のいつどこで発生してもおかしくはなく、最大震度も2と別に目立つと言う程のものでは有りませんが、このエリアについてM4以上の地震が過去にどうだったかを2004年以降について見てみると、

2015年5月27日 16時11分ごろ 2015年5月27日 16時15分 福岡県筑後地方 4.0 3

2004年11月4日 3時13分ごろ 2004年11月4日 3時27分 福岡県筑後地方 4.3 4

 2015年の地震は2016年4月の熊本地震の約11ヶ月位前。
 では2004年11月の地震はその後に地震年表でどうなっているかと言うと、

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)#2000%E5%B9%B4%E4%BB%A3

2004年(平成16年)

(中略)

11月29日 釧路沖で地震 - Mj 7.1(Mw 7.0)、北海道弟子屈町、釧路町、別海町で最大震度 5強、深さ48km。最大余震は4分後のMj 6.0。同年12月6日にもほぼ同じ海域でMj 6.9の地震が発生している。一時津波注意報が北海道太平洋沿岸東部に発表。
12月14日 留萌支庁南部で地震 - Mj 6.1(Mw 5.8)、気象庁による観測では北海道苫前町で最大震度 5強[4]。防災科学技術研究所による強震観測網では北海道小平町で震度 6弱を観測[140][141]。

2005年(平成17年)

3月20日 福岡県西方沖地震 - Mj 7.0(Mw 6.7)、福岡県福岡市・糸島市、佐賀県みやき町で最大震度 6弱[注 20]、死者1人。
8月16日 宮城県沖で地震 - Mj 7.2(Mw 7.1)、宮城県川崎町で最大震度 6弱。宮城県沖地震の1つとみられる[116]。
11月15日 三陸沖で地震 - Mj 7.2(Mw 7.0)、北海道から関東にかけて最大震度 3。大船渡市で最大50cmの津波観測。アウターライズ地震。

引用終了

 約4ヵ月後に福岡県西方沖地震 Mj 7.0(Mw 6.7)ですか。
 しかしたかだか2回だけのサンプルデータで傾向を言うのは無理があるかも知れず、今後どうなるかはわかりません。
 もう一つ、今回も含めて、このエリアの地震でM4以上の地震が発生した時は何故か上弦か下弦に近い月齢でした。

 2018年5月24日  月齢 8.6
 2015年5月27日   月齢 8.9
 2004年11月4日  月齢 21

3回中3回共、上弦か下弦に近い月齢と言うのは傾向として「有意な差」で有る可能性がゼロではないのかも知れません。

仕組みとアプローチ -  明智光秀は信長にかなり忠実だったから命を落とした、とする見方

2018-05-23 20:43:10 | 明智光秀
 これまでに書いた記事もわかるのですが、信長はキリシタンと距離を置くスタンスだったようであり、明智光秀もキリシタン大名ではなくルイス・フロイスの記述から見ても親キリシタンではなかったようです。
 そして御料所(御料地)である石見銀山の制圧に関して、公家衆らの反発が有った可能性は高いはずだったのに、信長の命で中国進攻の準備に従順に取りかかっていた、と筆者は見ています。
 つまり通説による光秀に関する見方とは反対に、実は光秀は信長にかなり忠実だった、と見ています。
 仮に光秀が信長の意に反してキリシタン武将であったならば、山崎の戦いでイエズス会をより味方にできた可能性はより高く、敗北は免れたかもしれず、仮に石見銀山攻略と言う信長からの命をいくらかでも拒否していれば、公家衆らからの敵意は免れていた可能性が高く、本能寺の変は有ったかどうかもわからず、仮に有ったとしても光秀が関与していないようになプロセスになっていたかも知れないと個人的には考えています。
 
 

仕組みとアプローチ -  明智光秀に加担しなかった毛利氏のリスク管理

2018-05-23 09:01:16 | 明智光秀
 本能寺の変の後、秀吉が中国おお返しを実行出来たのは、毛利氏の追撃が無かったから、と言うのも大きな要因なのですが、毛利氏がどのようなリスク管理をしていたのかについて考えて見ました。
 以前にも書きましたが、本能寺の変で信長の遺体、特に首が出て来なかったと言う点で、この変そのものが信長の自作自演のインチキクーデターである可能性と思ってしまう人達もいたと思われるのがまず一つ。
 だとすれば明智光秀もその演出で中心的存在だという可能性。
 そして自作自演のクーデターでなくても仮に信長が生きていた場合、多くの家臣はまだ健在であると言う事から軍事的には殆ど弱体化していない、と言う事。(ここが桶狭間の戦いで今川方の有力武将の多くが討ち死にした状況と異なります)。
 そして更に仮に信長が討たれて死亡したとして、毛利氏が明智方に加担した場合、有力な家臣達が力を合わせて明智方に次々と襲い掛かる事となる可能性は高い事。
 当時織田勢と戦っていた上杉氏だけでなく、反信長の勢力になり得る北条氏、長宗我部もいつ織田方と妥協し始めるかは見えず、仮に{一抜けた」で和睦した場合、毛利氏だけが取り残されて織田方と戦う事になってしまう事。
 そして毛利氏から見て、果たして明智光秀が毛利氏の協力と言う恩義にどれだけ見返りをくれるかわからない事。
 仮にそれでも明智方に肩入れして足利義昭を擁立するのに動いても、秀吉があらゆる妨害をする可能性や高く、それで足利義昭が結局京都に戻れず、明智方が惨敗した場合は毛利方のペナルティは大きい、となります。何しろ秀吉との和睦を実質反故にするに等しいからです。
 これだけリスクが多ければ、秀吉を押した方が良いとなったのではないでしょうか。

仕組みとアプローチ -  明智光秀 本能寺の変後に送られた密書をどう見るか

2018-05-22 12:54:57 | 明智光秀
 本能寺の変が起きた後、明智光秀が反信長派へ宛てた密書が去年話題になりました。
 
引用開始(一部抜粋)

https://mainichi.jp/articles/20170912/k00/00m/040/159000c

明智光秀
密書の原本発見 本能寺の変直後、反信長派へ

毎日新聞2017年9月12日 03時00分(最終更新 9月12日 03時00分)

 本能寺の変で織田信長を討った重臣の明智光秀が、反信長勢力とともに室町幕府再興を目指していたことを示す手紙の原本が見つかったと、藤田達生(たつお)・三重大教授(中近世史)が発表した。変の直後、現在の和歌山市を拠点とする紀伊雑賀(さいか)衆で反信長派のリーダー格の土豪、土橋重治(つちはし・しげはる)に宛てた書状で、信長に追放された十五代将軍・足利義昭と光秀が通じているとの内容の密書としている。

引用終了

 この密書の信憑性については特に疑問とは考えていません。十分に有り得る事とは思います。
 ただ知略家と言われた明智光秀が本能寺の変の後に、後手後手で足利義昭を擁立する事など、おかしな話だと考えています。
 毛利氏が足利義昭を手放すわけがないと言う旨は以前に記事にも書いた通りですが、秀吉とて足利義昭を決して明智方に渡さない体制を採っていたと考えるのが普通ではないでしょうか。
 中国大返しがトコロテン方式の部分もかなり有ったと言う可能性については以前にも記事にしましたが、ある程度の将兵は毛利氏領の近辺に残していた、そして足利義昭の上洛阻止、毛利氏が万が一追撃した場合の待ち伏せなど、体制をしいていたのだと考えています。
 何しろ、「信長を討ったとされてしまった明智光秀は逆臣と言うレッテルを貼られてしまう」わけで、それを覆すには征夷大将軍である足利義昭を擁立するしか選択肢は無かった、と言う状況のはずと考えています。
 仮に光秀が計画的に信長を討つ事を考えていたのだとすれば、足利義昭をまず毛利氏や秀吉の力が及ばない、例えば四国の長宗我部氏の下に移動させる準備を周到に十分行ってからしか実行しない、とする見方を個人的にはしています。
 これが何を意味しているかと言うと、「本能寺の変は明智光秀の想定外で発生してしまった。逆臣のレッテルを貼られてしまう可能性が高かった光秀は後手後手ではあっても足利義昭と連携しているジェスチャーで味方を少しでも増やすしか選択肢が無かった。」と言う事かと思います。
 もしそうでなければ、光秀の脳科学の観点から見て判断能力が著しく低下していた、としか考えられないと思っています。