庭の絵(だと思う)
色鉛筆で描いています。使用しているのは、ガランダッシュの高級色鉛筆の油性のもの。
なんと、1本、500円の色鉛筆。
紙を手でなめしてあって、印刷のような感じに表面がなっています。
中央に描かれているのは、コップか?
沢山描かれている土という文字のようなものは、たぶん記号のようなものだと思います。
私には、漢字で土と描かれているように見えるのですが・・・・。
ヒロクニさんは、キリスト教にも肝心がないので、十字架でもありません。
↓我家の庭は、現在ジャングルのようになってきていて、このような感じです。
庭の中央に、鉢でも栽培可能な、フランス産のイタリアトマトの種から大きくした、ミニトマトが繁茂しています。
大雨が降った時に、丈が大きくなって支柱がいらないと書いてあるのに、支柱が必要になります。
奥の方で、ニューギニアインパチェンスの薄いピンクの花咲いています。
いつも、私が庭に出ている様子の事を、「さほりが、何かやっているな、と思って。」と言います。
「何かやっている。」これ以上のことは、考えないようです。
まあ、園芸は、私の大切な孤独な時間かもしれないので、いいのですが・・・・・。
静かに、花がら摘みをしている時が、1番好きな時間であります。
何か、心が落ち着く。
ある日、朝顔が多く咲きました。
朝、ヒロクニさんから、「朝顔が、今日はいつもより咲いているよ。」と。
見てみると、いつも1つか、2つしか咲いていなかったのに、けっこう花が咲いている。
朝の清々しい空気と、爽やかな朝顔の姿が・・・・・。
猛暑が続く中、贅沢な気分になったものです。
こういうことを書くと、つい思い出すのが、千利休の朝顔の話。豊臣秀吉との。
こういう本を読んだ。「侘び寂び幽玄のこころー西洋哲学を超える上位意識ー」森神逍遥。
ちょっと引用します。
■秀吉が朝顔の花を見に利休の庭を訪れた時の話は有名である。秀吉は、朝顔がとても好きで、
楽しみに足を運んだのである。ところが、秀吉の大好きなその庭中の朝顔の花を全部、利休が
「はらい捨」ていたわけである。不愉快にしている秀吉が茶室へ入るとそこに、ただ一輪だけ、
竹の筒に挿した「あさかほ」が、茶室の床に飾ってあったというわけである。
利休だけはその演出に一人酔っていたが、秀吉には腹正しいものであった。蒸し暑い夏に
面状に咲きほこる朝顔はとても清々しく心を晴れやかにしてくれるからである。その様な心理が
利休は自分のセンスに酔いしれて傲慢を為したのである。そのどこにも「侘び」は有されていなかった。
ただそのセンスは「然び」ていたのである。
秀吉は一面に咲き乱れる朝顔を楽しみに来ているのに、行ってみたら、全部摘み取られていて、無い。
部屋に一輪だけ挿してある。そして、利休はそれを指して、これが侘びでございます。と頭を下げるのである。
秀吉はそこでムカッと来ながらも、自分が教養がないことをよく自覚しているものだから、腹に据えかねながらも、
そこで我慢するというのが実話である。
この一輪挿しというのは華道というよりも、茶道の中から生まれた風情である。それも禅の教えからであった。
この思想は素晴らしいと思う。しかし、何故、せっかく咲き乱れている朝顔の花をすべて取り除く必要が
あるのか、である。ここに利休の境地の低さが垣間見られるのである。彼は「然び」の演出にばかり拘って
全く侘びびてないのである。侘びにはその空間に対する愛がなくてはならないが、その行為はそれを
微塵も感じさせない。この一点のみで、筆者の利休評価は地に落ちるのである。
この文章は、とても大きな問題提起を私にしてくれていて、いつも思い出すのです。
世間では、この朝顔の件を素晴らしいと大抵書いてあるので、「そうなんだ。」と思い込んでしまって
いたが、たくさん咲いている朝顔の美しさに触れた時、また思いだしたという次第。
この作者は、「侘び然びというのは、そのありの儘、その中から感ずる思いなのであって、
過度の演出をすることではない。況してや自然の花はそのままでいい。いづれ枯れ落ち儚い時を
終わらせるのであるから。」と。
そんなことを考えると、生と死という大きな命題に行き着きそうです。
↑ひまわりも咲きだしました。
ロシア種です。ひまわりを見ると、生きる力の方を強く感じます。
ヒロクニさんのいるアトリエの方を向いていて、絵を描いていると「やあ、こんにちは!」と言いそうになると、
ヒロクニさんはいいます。
しかし、暑いですね。
我家のピーちゃんは、冷房が好きらしく、一番風がよく来るところでこんなポーズ。
顔に黒い色が集中しているせいか、目をつぶると顔がわからない。
冷房が好きな猫ちゃんは、初めてです。
手の様子が可愛くて撮りました。
そうか、これも筆者同士の価値観が真逆だからか。まあ詳しく調べないと真偽は定かでは無いのですが。
ただ、大抵は、絶賛している記事が多いように思われます。私も、絶賛している方を受け入れていました。
だから、こちらの本を読んだ時、驚きました。
この本の筆者は、禅から波及したのが「お茶の世界」という認識をもっておられるようで、「禅の精神」としての茶」という観点から、判断しているようです。
仏教思想にとても詳しいようで、一休禅師にも言及しています。著書としては、一般的な観点からではなく、禅の本質から迫っていくという物の見方が、ちょっと風変わりな著書でした。
丁寧に読んでくださりありがとうございます。