この絵は、ベニヤ板にアクリル絵具で彩色されたもの。
裏に、「夏、海へ 2017」と記してありました。
私には、3人の人が描かれているように見えました。
手前に2人、後ろに1人いるように感じます。
家にベニア板を見つけると、その木切れを切って絵を描く。
家には、木切れに描かれた絵が多く存在する。
時々、ゴミ箱の中で見つけることがあって、
手にとってみると、「けっこう好きかも・・・。」という絵を見つけると、
拾い上げます。
そんな木切れをいくつか持っています。
武内は、今現在は、色鉛筆を使って、ほとんどの絵を描いていますが、
鉛筆、アクリル絵具、油絵、インク、水彩、ボールペン、顔彩、ポスターカラー、クレヨンと、
様々な絵具を使って絵を描いてきています。
始めは、洋画家、そして現代美術、ロック喫茶経営の頃は8mmフィルムで映像、
次に色鉛筆画に。
この色鉛筆で絵を描き始めたときと同時に、色々な画材を試して絵を描いています。
私は、3番目の妻なので、色鉛筆画に絞った時に登場しています。
私自身も美術大学卒(嵯峨美)なのですが、絵具の使い方が独特で驚きの毎日でした。
理論的には破綻しそうな絵具の使い方をするのですが、
これがけっこう良い効果を生んでいるので、目から鱗でした。
例えば例を上げると、鉛筆、色鉛筆画では、
「消しゴムで消す」ということを何度も繰り返します。
何度も、なのです。
色鉛筆と共に、多量の消しゴムがいつもあります。
私のような合理的というか、普通に絵を描く程度の人には、
「それって、どういうこと?」
「それって、無駄な徒労のような?」
と思えることをします。
しかし、出来上がってみると良い効果というか、味わいというか、不思議になる。
インクに和紙の作品を始めて見た時は、
「インクに和紙って、ペン先が引っかかったら、
そこにインクが広がって終わりじゃないか・・。」と思い、
「ペンには、ケント紙や水彩紙でないと・・。」と、無味乾燥なことを思ったものです。
家には、紙に塗りつけた「色見本」のような紙切れが壁に貼ってあったり、
実験したような絵具の絵も貼ってあったりします。
この紙をよく眺めるうちに、大学で小手先の理論を知るより、
ヒロクニさんの行為自体の方が貴重に思いました。
その絵の具のつけ方にも美意識があるようで、
それを見るのは楽しいのです。
それで、じゃあ、わたしも見習って、いい絵を描いてみようとは簡単にならないようなのです。
根本的に、元の発想がないし、同じように絵の具を塗りつけたって、
わたしには意味をなさないから。
それに、手先から出るポエジーが、わたしにはないので、
すぐにやめてしまう。
嫌な感じに塗りつけられてしまう。
やっているうちに嫌になり、放り投げてしまいます。
壁に貼ってあるヒロクニさんの紙切れは、
自身にとって意味がある大切なものなのだなぁ~と思って見ています。
しっかり、絵の具の染みのようなものも鑑賞しています。
ポエジーは、漢字で書くと「詩情」です。
この「詩情」を持つというのは、とても難しいことだと思う。
ヒロクニさんの何気ない線を見ていても、やはり建築の設計図の線とは程遠く、
線や形に詩情があります。
そういうものを鑑賞するのはたやすいのですが、
そういうものを獲得するのは、難しいと思います。
ピカソの線にも詩情があります。
(後半の作品の方が見て分り易い)
わたしは、ポエジーがある芸術家と、
そうでない芸術家という分け方をして、自分の中で分類することがあります。
どちらもそれぞれに成り立っていて、対比すると面白い。
違いを認識するのが興味深いのです。
この「詩情(ポエジー)」というのも分り難いと思いますが、
こういう説明を見つけました。
『詩情(ポエジー)とは、結果である。
それは鑑賞者の中に眠っているものを目覚めさせるものでなくてはならない。』
この解説は、いいと思います。
いつも思うことですが、ヒロクニさんは、独学なのでユニークなのでしょうね。
時々、はみ出しすぎなような気もしますが・・・・・・。
この絵のタイトルを見て、長く海を見ていないなぁ~と思いました。
そして、海を見たくなりました。
(絵を見て、海に行きたくなったわけではない)
庭の方は。
↑やっと、朝顔が咲いてきました。
雨つづきで、咲いていても分らない状態がつづいていました。
今からが、朝顔の見時ということに。
もう、いったい何時咲くのか?と、言うくらい待ちました。
雨のせいで、ペチュニアやカーネーション、菊はボロボロ。
トマトは、連作障害で収穫、小さいの1個。
しばらくは、トマト以外のものを植えることにします。
そして、何故か、いんげんは実を付けませんでした。
いんげんは、ポットから植え替える時、
もうめんどくさいから、赤玉土を省き、再生した土じゃなくていいかも?と、
思ったのが悪かった。
雨の間に腐っていました。
何事も投げやりになってはいけない・・・のだと思いました。
トホホです。
↑大振りのニューギニアインパチェンスだけが、長雨に耐えました。
鉢は、大きい方がいいようです。
大きいことはいいことだ!と思い、大きい鉢をこれから買う気持ちが芽生えました。
海だけれど、道が続くその先は赤紫の光が見えます。明け方の海?日の出かな?と思いました。
同じような赤紫が手前の人物に描かれていて、光の広がりを感じました。そして、その対の色のせいでしょうか、細長い作品だけれどあまり長辺の長さを感じないように思います。
「小手先の理論を知るより、ヒロクニさんの行為自体の方が貴重に……」この文章の意味を、さほりんの感覚を、ヒロクニ先生の作品を観ながらいろいろ考えました。さほりんはその時どんな感覚だったのかな?その感覚を少しでも私も垣間見てみたいな、と。
おこがましいですが、考えた内容を書いてみます。
ヒロクニ先生は、もちろん、理論も技術もはすべて習得されていて、その先として描かれたものが作品なのだと思います。だから、その作品に理論とか基本とかは全部入っていて、その先は、その先を見たい知りたい人しか作品に入れない。
ヒロクニ先生の作品には、圧倒的な吸引力と「その先」を絵画として具現化しているエネルギーを感じます。
私の感じているそんな感覚が、さほりんの「小手先の理論を……」に少し似ている感覚だったら嬉しいな、と思って書いてみました。
「手先から出るポエジー」は、もっと難しいです、ずっと作品を見てきた、そして、美術の知識をちゃんと持っているさほりんだから表せる言葉なのだな、と、さすがだと思いました。
感覚としてなんとなくわかったように感じられる言葉だと自分では思うのですが、本当の意味はきっと自分にはわかっていないのだろうな、と。
「手先から出るポエジー」すごい感覚だな、と何度も読み返しました。
その言葉の意味を感じたくて、詩を読んだりそれっぽい音楽を聴いたりしましたが、それでわかったつもりになる感覚は、自分の「わかったつもり」っぽいなと思い、結局堂々巡りとなりました。
新しい投げかけをいただきました。まだまだ知らない感覚があるのだなと、考えました。勉強します!ありがとうございます。
朝顔、開花がちょっと遅いでしょうか。でも、秋に向かって咲く朝顔は風情があると思います。花は咲く時期で、本来とは違った美しさを出すことができるのような気がします。
今年は長雨、大雨、酷暑、と天候が草木花には向かなかったようですね。さほりんのせいではないと思います。こんな年もあります。天候は思うようにいかないものですから。
本当に一生懸命、絵を見て下さり、ありがとうございます。ベニア板は、板のまま使用している作品です。
「小手先の理論」というのは、絵具の特質をあらかじめ知識として知ることを言っています。大学では、材料学と言ったと思う。油絵具であれば、透明色(下の色が透ける色)と不透明色(透けなくて皮膜が強い)絵具の使い分けを覚えたりするのですが、「この絵具は、こういう質だから、塗り重ねるのには、不向きか?と判断するのですが、ヒロクニさんは、いろんな絵具の塗り重ねや、色見本をつど作ったりしているようで、その見本とやらが、独特の雰囲気を持って、美意識のようなものを感じることがあるのです。それにもポエジーを感じると思ったのです。線とかも、独特の雰囲気を持って語りかけるというか、いい感じというか、エネルギーのように感じるとか、そういうことを感じさせることがポエジーなのではないか?と思い今回の文章を書きました。こういいう意見は、私が勝手に思ったことなので、他の人がどういうかは、分らないのが本当のところです。いつも、絵画の楽しさ、自分が楽しく面白いと思っていることを、何とか伝えたいと拙いながら思っている事柄なのです。
たぶん、ともりんは言葉に出来てないだけで、掴んでいると思います。以前、野村監督の絵を見て、「ヒロクニさんの線だ!」と書かれたのを読んで、もう線を把握して鑑賞していらしたし、感覚的に分っていると思います。小手先の知識の一部を詳しく書いてみました。意味がわかりやすくなるかな?と思い書きました。
今年は、ほんとうに長雨、大雨、酷暑でしたね。どいうわけか、夏バテしています。頭が真っ白の空白の時があって、お返事遅くなりました。
意外と朝顔は寒くなっても咲くと思うので、爽やかさを楽しみます。多く花をつける様子は、初めてなので、これが嬉しい。また、これから、ビオラの種蒔きです。秋の入り口ですね。
いつも、ありがとう。うまくいかなかったのは、確かに私のせいじゃない!(笑)