償いの書(49)
仕事に戻る。ぼくの位も次第に上がり、ぼくの指示で動く後輩たちも増えていく。そもそもが、まだ若い会社なのだ。社長が、いまのような業種に手を広げてからのものなので、先例を蓄えているひともいなかった。手探りでやってきたのもが、ようやく軌道に乗り始め、安定した航路を進み始めている。それが、30代の前半のぼくの位置だった。
それでも、自分が子どものときに考えている大人とは随分と印象が違かった。いろいろなものについていまでも葛藤し、相変わらず悩み、進歩が遅いことをなげき、幾人かの女性の亡霊と戦っていた。それを好んでいたのかもしれなかったが、もうそういう場所からは足を洗いたいと思っていたのも本音なのだ。
裕紀は家で文字を凝視している。他の言語を使える日本語にしている。化粧をしていない肌は、もうぼくが知っている高校生の彼女ではなかった。ぼくはそれを追い求めてもいないがその変化を感じ、自分も同様なのだろうと考える。その変化を嫌うこともなかった。逆にそのひとつひとつがぼくとの生活の長さを感じさせた。それをずっとぼくは知ることになるのだろうと思う。ぼくは、カーテンの日射しを眺め、移ろい往く一日の変化すら愛おしく感じた。
「ごめんね。締め切りが近いもので。気分転換にどっか寄ってきたら」
「そうしようっか」ぼくは、カーテンを閉め、スニーカーを履き、家の近くを散歩した。本屋に立ち寄り、雑誌を手にする。自分の好奇心がすこし減っていくのをそこで確認する。映画やそこに出ているひとたちの一挙手一投足を知る必要もなく、もちろん、ゴシップも必要なかった。最終的には料理の本を手に取り、裕紀の作るものと比べた。それをなぜだかレジまで持って行き、袋にしまわれるのを見詰めた。
次にサッカーをしているグラウンドを眺めた。趣味で大人たちが身体を躍動させていたが、若さの最盛期を過ぎている彼らのもどかしさを自分のように感じていた。彼らの試合が終わり、自動販売機でジュースを買い、戻ってくると、少年たちの試合に変わっていた。それは、もどかしさもない代わりに、チームとしてのバランスに欠けていた。みな、バラバラと自分の思いだけで動いている気がした。そして、穴がいくつもでき、ピンチをたくさん作ってしまう。もう少し、統率が取れたゲームをしなければならない、とぼくは考えている。統率と言った以前のラグビー部の口調をぼくはこころの中で真似ていた。
そうしていると電話がかかってきた。個人でも電話を持ち歩く時代になったのだ。それは、自宅からの電話だった。
「どこに居るの?」
「サッカーを見てた。いい天気だし」
「わたしも行ってもいい? 疲れた」
「うん、待ってるよ」
ぼくの思考は統率の取れていないサッカーのチームから裕紀の存在に変わった。彼女は、さっきどのようなスカートを履いていたのかを思い出そうとしている。どのような靴を履き、その歩数やここに到達するまでの時間を考えた。それより少し遅れて彼女はやってきた。手には袋がぶら下がっていた。
「お腹、すいちゃって」彼女は、袋からサンドイッチを取り出した。ひとつを自分に、もうひとつをぼくに呉れた。それは、色鮮やかな野菜が挟まれ、食欲を誘った。
「自分でも、やってみたい?」前方を見ながら、彼女は言った。口を動かす音がきこえる。
「まあ、多少はね」だが、ぼくはこのスタンスにいることを望んでいる。傍観者。仕事以外は疲れるようなことをしたくないという若さが消え往く身体を思った。
「なんか買ったの? 雑誌?」ぼくの横に置いてある袋に目を留め、裕紀は質問する。
「参考になるかなと思って」ぼくは、袋からそれを取り出した。「自分は、もう自分だけの趣味を追及することができなくなったみたいだよ。悪い意味じゃなくて。本屋に入っても裕紀のことを考えていた」
彼女は、それをどのようなことかと考えているようだった。だが、もっと正確な言葉を付け足されないことには理解しないという頑固な表情もそこにはあった。
「悲しい?」
「いや、ラグビーの雑誌を見ても、山下はもう話題にされていない。それはある面ではぼくが消えることだった」
「辛かったの?」
「どうなんだろう。熱中できるものをまた探さないといけないのかな」
「仕事を頑張りすぎたのかもね」
ぼくは、そのこころの空白ができたことを、そのグラウンドが見える座席で見つけたのだ。彼女はそっと、自分の両手で、ぼくの左手を握った。そうすれば、その空白が埋まると彼女は考えたのだろうか。
試合が終わり、子供たちは疲れた身体を引き摺りながらも友人たちとじゃれ合っていた。何人かは自分の両親のもとに寄って、タオルや飲み物を受け取っていた。その無私の信頼関係をぼくは見詰める。ぼくの左手にもそれはあり、彼女も同様の気持ちでいてくれたらいいと考えていた。
「わたし、妊娠したって、いつか言ってみたかった」
「まだ、分からないじゃない?」
「うん、なんでだろうね」彼女は当惑した様子を見せる。
ぼくは、子どもたちが運動をするのを眺めるのが好きだった。だが、それを裕紀は別の意味で感じているなら、それを避けようとも思った。ぼくに、何の意図ももちろん悪意もなかった。だが、彼女の感じやすいこころは、自分への責めとして、その様子を見ていたのかもしれない。
「気にすることないよ。裕紀に似ている子なら、とっても可愛いだろうな」と安心させるようなことを言った。実際にその映像が一瞬だけぼくにも見えるような気がした。だが、それは一瞬だけで直ぐに、別の子どもの顔に入れ替わった。それは、甥っ子だったり、雪代の小さなころの子どもだったりした。
仕事に戻る。ぼくの位も次第に上がり、ぼくの指示で動く後輩たちも増えていく。そもそもが、まだ若い会社なのだ。社長が、いまのような業種に手を広げてからのものなので、先例を蓄えているひともいなかった。手探りでやってきたのもが、ようやく軌道に乗り始め、安定した航路を進み始めている。それが、30代の前半のぼくの位置だった。
それでも、自分が子どものときに考えている大人とは随分と印象が違かった。いろいろなものについていまでも葛藤し、相変わらず悩み、進歩が遅いことをなげき、幾人かの女性の亡霊と戦っていた。それを好んでいたのかもしれなかったが、もうそういう場所からは足を洗いたいと思っていたのも本音なのだ。
裕紀は家で文字を凝視している。他の言語を使える日本語にしている。化粧をしていない肌は、もうぼくが知っている高校生の彼女ではなかった。ぼくはそれを追い求めてもいないがその変化を感じ、自分も同様なのだろうと考える。その変化を嫌うこともなかった。逆にそのひとつひとつがぼくとの生活の長さを感じさせた。それをずっとぼくは知ることになるのだろうと思う。ぼくは、カーテンの日射しを眺め、移ろい往く一日の変化すら愛おしく感じた。
「ごめんね。締め切りが近いもので。気分転換にどっか寄ってきたら」
「そうしようっか」ぼくは、カーテンを閉め、スニーカーを履き、家の近くを散歩した。本屋に立ち寄り、雑誌を手にする。自分の好奇心がすこし減っていくのをそこで確認する。映画やそこに出ているひとたちの一挙手一投足を知る必要もなく、もちろん、ゴシップも必要なかった。最終的には料理の本を手に取り、裕紀の作るものと比べた。それをなぜだかレジまで持って行き、袋にしまわれるのを見詰めた。
次にサッカーをしているグラウンドを眺めた。趣味で大人たちが身体を躍動させていたが、若さの最盛期を過ぎている彼らのもどかしさを自分のように感じていた。彼らの試合が終わり、自動販売機でジュースを買い、戻ってくると、少年たちの試合に変わっていた。それは、もどかしさもない代わりに、チームとしてのバランスに欠けていた。みな、バラバラと自分の思いだけで動いている気がした。そして、穴がいくつもでき、ピンチをたくさん作ってしまう。もう少し、統率が取れたゲームをしなければならない、とぼくは考えている。統率と言った以前のラグビー部の口調をぼくはこころの中で真似ていた。
そうしていると電話がかかってきた。個人でも電話を持ち歩く時代になったのだ。それは、自宅からの電話だった。
「どこに居るの?」
「サッカーを見てた。いい天気だし」
「わたしも行ってもいい? 疲れた」
「うん、待ってるよ」
ぼくの思考は統率の取れていないサッカーのチームから裕紀の存在に変わった。彼女は、さっきどのようなスカートを履いていたのかを思い出そうとしている。どのような靴を履き、その歩数やここに到達するまでの時間を考えた。それより少し遅れて彼女はやってきた。手には袋がぶら下がっていた。
「お腹、すいちゃって」彼女は、袋からサンドイッチを取り出した。ひとつを自分に、もうひとつをぼくに呉れた。それは、色鮮やかな野菜が挟まれ、食欲を誘った。
「自分でも、やってみたい?」前方を見ながら、彼女は言った。口を動かす音がきこえる。
「まあ、多少はね」だが、ぼくはこのスタンスにいることを望んでいる。傍観者。仕事以外は疲れるようなことをしたくないという若さが消え往く身体を思った。
「なんか買ったの? 雑誌?」ぼくの横に置いてある袋に目を留め、裕紀は質問する。
「参考になるかなと思って」ぼくは、袋からそれを取り出した。「自分は、もう自分だけの趣味を追及することができなくなったみたいだよ。悪い意味じゃなくて。本屋に入っても裕紀のことを考えていた」
彼女は、それをどのようなことかと考えているようだった。だが、もっと正確な言葉を付け足されないことには理解しないという頑固な表情もそこにはあった。
「悲しい?」
「いや、ラグビーの雑誌を見ても、山下はもう話題にされていない。それはある面ではぼくが消えることだった」
「辛かったの?」
「どうなんだろう。熱中できるものをまた探さないといけないのかな」
「仕事を頑張りすぎたのかもね」
ぼくは、そのこころの空白ができたことを、そのグラウンドが見える座席で見つけたのだ。彼女はそっと、自分の両手で、ぼくの左手を握った。そうすれば、その空白が埋まると彼女は考えたのだろうか。
試合が終わり、子供たちは疲れた身体を引き摺りながらも友人たちとじゃれ合っていた。何人かは自分の両親のもとに寄って、タオルや飲み物を受け取っていた。その無私の信頼関係をぼくは見詰める。ぼくの左手にもそれはあり、彼女も同様の気持ちでいてくれたらいいと考えていた。
「わたし、妊娠したって、いつか言ってみたかった」
「まだ、分からないじゃない?」
「うん、なんでだろうね」彼女は当惑した様子を見せる。
ぼくは、子どもたちが運動をするのを眺めるのが好きだった。だが、それを裕紀は別の意味で感じているなら、それを避けようとも思った。ぼくに、何の意図ももちろん悪意もなかった。だが、彼女の感じやすいこころは、自分への責めとして、その様子を見ていたのかもしれない。
「気にすることないよ。裕紀に似ている子なら、とっても可愛いだろうな」と安心させるようなことを言った。実際にその映像が一瞬だけぼくにも見えるような気がした。だが、それは一瞬だけで直ぐに、別の子どもの顔に入れ替わった。それは、甥っ子だったり、雪代の小さなころの子どもだったりした。