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償いの書(53)

2011年05月06日 | 償いの書
償いの書(53)

 斉藤さんという女性の友人が大学時代にいた。彼女がチームとしてだが設計した建物が世の中にいくつか存在するようになる。ぼくは、休日の散歩コースにそれを含め、感嘆しながら眺めている。

「ぼくの友人だったんだ」と、隣の裕紀に自慢するように言う。
「大学時代のひろし君を詳しく、知っているんだね」彼女は、いつもそれにこだわった。ぼくは、少なからず胸が痛む。彼女は、ぼくの数年間を知らない。男性が男性として機能する前の少年を脱皮するときの頃だ。
「知ってるよ。お互い、社会で働いたことはなかったけど、彼女が優れた才能を持っていることは直ぐに分かった」
「そうなんだ。大切な友人だね」

「ラグビーを辞めたことや理由をいろいろなひとに訊かれたけど、彼女にだけは真剣に答えたような気もする」
「どんなふうに?」

「過去に成し遂げようとしたことに対して、若者を縛るな、という青い意見だけどね」
 それでいながら、自分はなにも成し遂げることはできなかった。高校時代に頑張ったラグビーを将来の仕事にしたのは後輩の山下であり、建築学科というものを卒業したことを誇りに思っているのは、斉藤さんだった。ぼくは、ただ彼らの仕事を見惚れ、認めるしかなかった。それを屈辱だとも思わずに、ただただ感心した。それぞれが、もっているものを生かしているという感心なのだろう。

 ぼくらは歩きつかれ、お茶を飲む。

「裕紀は、結局のところ、何になりたかった?」他意もないただの質問だ。

「若いお母さんか、優しいお祖母ちゃん」それを、笑顔で彼女は言う。そして、理由を付け足した。「わたしの母は、いろんな用事で忙しく、いつも出歩いていた。それは仕方がないことだけど、兄たちにはもっと優しかったかもしれないと、考えてしまう。それを補うようにお祖母ちゃんがいた。わたしもああいう無限の愛情を与えられるようなひとになりたかった」

「多分、なれるし、もう、なってるよ。優しさは」しかし、それには確固たる愛情を注ぐ対象が必要なのかもしれない。そう考えていると、ロイ・オービソンが歌った映画の主題曲が店内に流れた。彼女は、それを一緒に口ずさみ、
「留学中に何回か、友人とこの映画をみた。あの娘、どうしてるかな?」と思い出をたどるように彼女は言った。ぼくの青年時代を彼女が知らなければ、ぼくも、同様に彼女のその時期を知らなかった。ぼくは、その映画を雪代と見たのを思い出している。彼女のそのときの服装や、口紅の色すらまざまざと思い出せるようだった。「どうかした?」

「いや、外国で映画を見るって、どんな感じなのかなと考えていた」それは、本当に考えていたことだが、思いのほとんどは別のところに行っていた。

 それから、店を出て、裕紀の知り合いに誘われた小さなコンサートに行った。お客さんが100人も入れば満員になるような小さなホールだった。だが、狭いという印象はなく、手頃な広さだった。それぞれの顔が分かるほどで昔のサロンというのは、このような雰囲気なのだろうかと感じさせる大きさだった。

 ぼくらは座り静かに耳を澄ます。フルートの音は流麗にぼくの耳に響き、ぼくを昔の時代に連れ戻した。それも、音楽の効用かもしれない。

 ぼくは、大学生だ。斉藤さんと食堂で向き合っている。いま、学んだことを振り返りながらも、話は往々にして逸れた。それを呼び戻すほど、ぼくらは勉強だけに集中している訳ではなかった。たくさんの寄り道をする会話が、友人としての証のようだった。

 ぼくは、一年だけ雪代と一緒に大学に通った。ぼくが2年になれば、彼女は社会に出なければならない。進む道は決まっており、ぼくらの漠然とした希望とはそれは違うものだった。

 ぼくらが、話しているところに講義を終えた雪代が入ってくる。ぼくは目の端で彼女を認め、「本当にこのひとは、ぼくを選んだのだろうか?」という気持ちをそのときも持った。

「こんにちは、斉藤さん」と雪代は言って、隣にすわった。斉藤さんは、雪代のようなきれいな存在にいつまでも馴れないらしく、その後、用を思いついて席を外した。雪代はパスタのようなものを頼んだと思う。若かった彼女の食欲は、それをまたたくまに平らげる。その後、東京で撮影のバイトが入ったというようなことを言った。ぼくは、周りの目を意識しながら、(3年先輩のきれいな女性がぼくの彼女なのだ)丁寧に相槌をして、また食事とノートへの視線に戻った。

 いつの間にか曲は変わり、別のイメージにつながる。

 山下が相手の豪快なタックルを浴び、脳震盪を起こしている。ぼくは、倒れている彼の上から名前を呼び、目を開いた彼の幼さの残る顔を見つめている。審判も心配そうにいっしょにのぞいている。だが、山下は立ち上がり、そのようなことが一切なかったように、猛進した。ぼくらは勝ち、ぼくはスタンドにいるであろう裕紀の存在を感じている。ぼくは、彼女の白い肌と黒い目のコントラストを探す。それは秋になりかけたまだまだ暑い陽光のなかでかげろうのようになってぼくに映る。

 すべての曲が終わり、ぼくの頭のなかのイメージだけは執拗に残っていた。ぼくは、裕紀の黒い目が幻想ではないようにしっかりと見つめる。彼女が曲の間にどのようなことを考えていたかは分からない。だが、ぼくは時空を越え、やりたかったことや、また、やれなかったことの修復を考えているような時間をさすらっていた。
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