償いの書(58)
「上田さんって、会社ではどんなひと?」
ぼくらは共通の会話を探す。その糸口は、共通の知人の話題だ。
「あのままのひとです。非常におもしろい」笠原さんは、おいしそうにご飯を食べていた。「これ、おいしいですね。お腹空いてたからなのかな」と、自分の腹部を見た。それは、まっ平らなものだった。
「そうなんだ」
「近藤さんは、ラグビー部の後輩だった?」
「そうだよ。練習が終われば、とてもきつい練習だけど、彼はその辛さをぼくらに忘れさせてしまうほど、おもしろい話をしてくれた」
「自分も辛いのにね」
「そうだね。そういう観点からは見たことがなかったけど」
「東京には来たくなかった、と近藤さんのことを上田さんは言ってました」
「そうだよ。大切なものは全部、あっちにあった」
「女性とかも?」
「うん。女性とかも。すべてだけど」
「この前の奥さん?」
「違う」そのときに、ぼくは別の人間のことを考えている。「その前のひと」
「ふうん」彼女は、視線をテーブルの料理に向けている。「これ、どうやって作るんでしょうかね」
ぼくもそれを見る。しかし、答えは分からない。
「どうだろうね。あとで訊く?」
「いいえ。その前のひとと大恋愛した。上田さんがいつか言ってました」
「そんなことまで言うんだ」
「開けっ広げのひとですから。私にもそんな熱意をもってくれるひとができるでしょうかね?」
「できるでしょう。きれいだもん」
「別れたばっかりなのに?」
「ぼくのその前のひとも、別れたばっかりなのに突然、前の男性と縒りを戻した」
「ずるいと思っている?」
「さあ。少しは思ってるんだろうね」
「自分もそうなのに?」彼女はアルコールで、少し酔いはじめたようだった。それで境界線というか初対面の垣根が消えていくようだった。
「そういう観点で見たことはなかった」
「そればっかり。自分のことを知らなすぎるみたい」彼女の目は、いくらか潤いを帯びている。裕紀はそういう表情をすることはなかった。考えれば、雪代もだった。ぼくは、それで新鮮なこととして笠原さんを見つめた。「奥さんは誰の結婚式に行ったんですか?」
「幼い頃からの友だち」
「近藤さんも知ってる?」その質問は不意で、ぼくにはなぜか痛いものとして突き刺さった。「知ってる? どう?」
「知ってるよ。ぼくの妹の友だちでもある」
「じゃあ、妹さんの友だちも家に遊びに来た?」
「普通に来るよね」
「可愛い子もいました? なかには?」
「どうだろう。やっぱり、妹の友だちだよって感じ」
「上田さんの奥さんも友人なんですよね」
「ぼくのが先に知ってた。幼馴染みだから」
「しかし、上田さんと結婚した」
「彼で良かったよ。ぼくらの愛する先輩だからね」ぼくは、そのことを考えている。自分の世界が広いようで狭いこととして認識もしている。ぼくの妹と結婚したのも愛すべき後輩だった。それらのひとを見つけるため、ぼくは学生時代に運動に励んだのだろうか? それは、謎だった。誰が分かるだろう。
「だけど、近藤さんは東京に出て来た」彼女は話を戻した。ぼくは東京に出て来た。「大切なものを置いて来てしまった」
「大切なものだと思っていたけど、それは、もう分からない。こっちにも大切なものが増えてしまったから」
「いまの奥さんも?」
「そうだろうね。彼女がいなければ東京の価値も減ったかもしれない」
「かっこういい」そう言って、彼女はトイレに立った。バックからきれいなブルーのハンカチを取り出した。歩く後ろ姿を見ると、すこしよろめいた。そして、すれ違う男性とすこしぶつかった。ぼくは、そろそろ帰ることを考える。その合間に携帯電話を見ると、裕紀の着信があり、電話をすると楽しいので帰りが遅れる、ということを伝えてきた。笠原さんは、まっすぐになった身体で戻ってきた。酔いをトイレに流してきてしまったようだった。「奥さんに?」
「帰りが遅くなるって、なんだか、とても楽しそうだった」
「心配?」
「とくには」ぼくは、本当に心配などしていなかった。そのような感情が入り込む余地などぼくにはなかった。なぜだろう? そう思っていると、彼女は別の店に行きたがった。ぼくも、一人で家に居る気分ではなかったので付き合うことにした。会計を済ませ、夜になった町にでた。電気が作るイルミネーションは、ぼくを結婚前のような気持ちにさせた。いつか、ゆり江ちゃんもそういう気持ちになるのか考えた。また、ふとぼくのことを考えてくれるような瞬間が訪れるのか想像した。笠原さんが言ったように、ぼくは本能的に利己的な人間なのか。
「わたしの知ってる店があるんです。そこでいいですか?」
「いいよ」ぼくの頭からゆり江ちゃんが消え、裕紀の姿も遠退いた。ぼくは、まだ若いころの自分がそこに居るような気がした。自分が放つ魅力の半分も認識していない女性(それが、若いということなのだろうか?)が隣にいて、そのハイヒールの音が闇のなかで響いた。ぼくはその微妙に揺らいでいく音が、自分の耳に到着する前に予想する自分のこころの音と重ねた。
「上田さんって、会社ではどんなひと?」
ぼくらは共通の会話を探す。その糸口は、共通の知人の話題だ。
「あのままのひとです。非常におもしろい」笠原さんは、おいしそうにご飯を食べていた。「これ、おいしいですね。お腹空いてたからなのかな」と、自分の腹部を見た。それは、まっ平らなものだった。
「そうなんだ」
「近藤さんは、ラグビー部の後輩だった?」
「そうだよ。練習が終われば、とてもきつい練習だけど、彼はその辛さをぼくらに忘れさせてしまうほど、おもしろい話をしてくれた」
「自分も辛いのにね」
「そうだね。そういう観点からは見たことがなかったけど」
「東京には来たくなかった、と近藤さんのことを上田さんは言ってました」
「そうだよ。大切なものは全部、あっちにあった」
「女性とかも?」
「うん。女性とかも。すべてだけど」
「この前の奥さん?」
「違う」そのときに、ぼくは別の人間のことを考えている。「その前のひと」
「ふうん」彼女は、視線をテーブルの料理に向けている。「これ、どうやって作るんでしょうかね」
ぼくもそれを見る。しかし、答えは分からない。
「どうだろうね。あとで訊く?」
「いいえ。その前のひとと大恋愛した。上田さんがいつか言ってました」
「そんなことまで言うんだ」
「開けっ広げのひとですから。私にもそんな熱意をもってくれるひとができるでしょうかね?」
「できるでしょう。きれいだもん」
「別れたばっかりなのに?」
「ぼくのその前のひとも、別れたばっかりなのに突然、前の男性と縒りを戻した」
「ずるいと思っている?」
「さあ。少しは思ってるんだろうね」
「自分もそうなのに?」彼女はアルコールで、少し酔いはじめたようだった。それで境界線というか初対面の垣根が消えていくようだった。
「そういう観点で見たことはなかった」
「そればっかり。自分のことを知らなすぎるみたい」彼女の目は、いくらか潤いを帯びている。裕紀はそういう表情をすることはなかった。考えれば、雪代もだった。ぼくは、それで新鮮なこととして笠原さんを見つめた。「奥さんは誰の結婚式に行ったんですか?」
「幼い頃からの友だち」
「近藤さんも知ってる?」その質問は不意で、ぼくにはなぜか痛いものとして突き刺さった。「知ってる? どう?」
「知ってるよ。ぼくの妹の友だちでもある」
「じゃあ、妹さんの友だちも家に遊びに来た?」
「普通に来るよね」
「可愛い子もいました? なかには?」
「どうだろう。やっぱり、妹の友だちだよって感じ」
「上田さんの奥さんも友人なんですよね」
「ぼくのが先に知ってた。幼馴染みだから」
「しかし、上田さんと結婚した」
「彼で良かったよ。ぼくらの愛する先輩だからね」ぼくは、そのことを考えている。自分の世界が広いようで狭いこととして認識もしている。ぼくの妹と結婚したのも愛すべき後輩だった。それらのひとを見つけるため、ぼくは学生時代に運動に励んだのだろうか? それは、謎だった。誰が分かるだろう。
「だけど、近藤さんは東京に出て来た」彼女は話を戻した。ぼくは東京に出て来た。「大切なものを置いて来てしまった」
「大切なものだと思っていたけど、それは、もう分からない。こっちにも大切なものが増えてしまったから」
「いまの奥さんも?」
「そうだろうね。彼女がいなければ東京の価値も減ったかもしれない」
「かっこういい」そう言って、彼女はトイレに立った。バックからきれいなブルーのハンカチを取り出した。歩く後ろ姿を見ると、すこしよろめいた。そして、すれ違う男性とすこしぶつかった。ぼくは、そろそろ帰ることを考える。その合間に携帯電話を見ると、裕紀の着信があり、電話をすると楽しいので帰りが遅れる、ということを伝えてきた。笠原さんは、まっすぐになった身体で戻ってきた。酔いをトイレに流してきてしまったようだった。「奥さんに?」
「帰りが遅くなるって、なんだか、とても楽しそうだった」
「心配?」
「とくには」ぼくは、本当に心配などしていなかった。そのような感情が入り込む余地などぼくにはなかった。なぜだろう? そう思っていると、彼女は別の店に行きたがった。ぼくも、一人で家に居る気分ではなかったので付き合うことにした。会計を済ませ、夜になった町にでた。電気が作るイルミネーションは、ぼくを結婚前のような気持ちにさせた。いつか、ゆり江ちゃんもそういう気持ちになるのか考えた。また、ふとぼくのことを考えてくれるような瞬間が訪れるのか想像した。笠原さんが言ったように、ぼくは本能的に利己的な人間なのか。
「わたしの知ってる店があるんです。そこでいいですか?」
「いいよ」ぼくの頭からゆり江ちゃんが消え、裕紀の姿も遠退いた。ぼくは、まだ若いころの自分がそこに居るような気がした。自分が放つ魅力の半分も認識していない女性(それが、若いということなのだろうか?)が隣にいて、そのハイヒールの音が闇のなかで響いた。ぼくはその微妙に揺らいでいく音が、自分の耳に到着する前に予想する自分のこころの音と重ねた。