償いの書(54)
ぼくは、仕事を終えて家に帰る。ほとんどの時間を地道に家の中で翻訳をしたりしている裕紀には、そうドラマティックなことは起こらないのだろうと考えている自分がいた。でも、それは人生の取り組み方の問題で、実際はどこにいてもさまざまなことが起こり得た。
「今日ね、美紀ちゃんと電話で話した」裕紀は、ぼくの妹の名を告げ、何かを伝えたい意思のようなものに溢れていた。「山下クンのね、学校にバスケット・ボールのうまい女の子がいるんだって。誰だか分かる?」山下は教鞭を取りながら、ラグビーを教えはじめていた。
「え、分かるわけないじゃん」ぼくに、その年代の知り合いなどいるはずもなかった。
「それが、ひろし君も知ってるよ。まゆみちゃんだって」
「え、もう高校生」彼女は、ぼくが大学生の時代にバイトをしていたスポーツ・ショップの店長のひとり娘だった。何年か前にうちに一度、泊まったことがある。「そう。あのころから利発で、活発な子だったもんな」
「山下クンも生徒に声をかけられ、普通に応対してたらしいけど、ひろし君のことにやたらと詳しいので訊いてみたら、あの子だったんだって」
「ええ、嬉しいな」
ぼくらは、食事をしながらもそのことを話し続けた。そして、時間の流れと、やはり、人間に対してきちんと接すると報いのようなものが、いつか、表れるのだということを知った。だが、ぼくのこころのなかには、あの小さな女の子の姿も居座り続けた。バイトが終わり、よく食事の時間も一緒に過ごした。彼女はよく喋り、よく笑った。困ったことがあると拗ね、口を利かない時間もあった。
「彼女がスポーツしている姿も見てみたいね」と、裕紀は言う。それを与えられるのは、短い時間であり、それが可能かどうかも考えている。
「そうすると、もう、ぼくが裕紀と会った年頃と同じなんだ」
「そうだね」そう言いながらも、それを不思議なことのように折り合いのつかないような表情を裕紀はした。「じゃあ、ひろし君のようなひとにも巡り合うかもしれない」
「彼女に似合うような子は、一体、どんなひとなんだろう」その成長の一部を山下は知っているということを、ぼくは羨望の気持ちをいだいていた。そして、間違った成長をしていない彼女自身を応援したくなる。もちろん、店長や奥さんに対してもだ。そのような機会が裕紀にも与えられるべきだと思うが、ぼくらにはその運命が寄り付かなかった。そして、関連のあることとないことの境目がつかなくなる。まゆみちゃんは、ぼくの甥っ子の成長を、ぼくがまゆみちゃんに対して感じたように暖かく見守ってくれるだろうかと思い、人間の縁の不可思議さも感じた。
ぼくらは食事を済ませ、ソファに座りテレビを見ている。ニュースで少しだけ流れる高校生や大学生のスポーツの話題が身近になっていることに気付いた。いままでは、ラグビーやサッカー以外の話題を注意しなかったけれども、いまは、青春を謳歌するすべての若者に愛着をもった。そこには、夢と挫折があったとしても、すべて貴いものなのだ。
「まゆみちゃん、また、東京に遊びに来れるかな? もう一人で何でもしていい年代だよね」裕紀はそのような希望を語り、裕紀が自分に与えられていた範囲のことをぼくは想像する。彼女の家族は厳しいしつけをしていた。それが自由というものを知り始める年代にとって、いささか不便なものだろうとぼくは思う。だが、彼女はその不自由さを実感してもいないようだった。それゆえに、ぼくは彼女を大切に思っていたのだが、結果としてはぼくの自由を追い求める気持ちが彼女の何年かを奪った形になった。まゆみちゃんには、ぼくみたいな理不尽な振る舞いをした人間が現れなければ良いと想像する。傷ついて大人になるというものも本当だろうが、それを越えられるだけの芯の強さがその年代にあるとも思えない。裕紀は、いまでも奇跡的にぼくを恨んでいない。それは、ぼくにとって必要以上の幸福だった。ぼくは恨みを恐れ、何年かを過ごした。しかし、その恨みに対しての報いの果実も大きなものであったことは、事実だった。
「わたしも、あの年代に戻ったら、何をするだろう」想像する生き物である人間は、さまざまなことを考える。「ひろし君は?」
「また、同じようにラグビーをする。そして、上田さんのような先輩に会い、友人を作り、山下のような後輩の成長を見守る」
「じゃあ、満足いった人生なんだ」
「もちろんだよ。裕紀は?」ぼくは、いくつかの答えをイメージするが、それが嬉しい答えなのかは聞くまで分からない。
「どっかに留学をしたと思う。遅かれ、早かれ。運動する能力は残念ながらないと思うけど」
ぼくと彼女は最初の男女のように永続するお互いの関係を続けられたかもしれない。だが、ぼくの前には、ひとりの女性がいた。そのひとの人生の一部になったことも、ぼくの人生での喜びの瞬間の数々になったのは間違いのないことだった。ぼくらは話し足りない気持ちもあったが夜の入り口はそれを許さず、明日への活力のためにベッドに入った。
ぼくは、仕事を終えて家に帰る。ほとんどの時間を地道に家の中で翻訳をしたりしている裕紀には、そうドラマティックなことは起こらないのだろうと考えている自分がいた。でも、それは人生の取り組み方の問題で、実際はどこにいてもさまざまなことが起こり得た。
「今日ね、美紀ちゃんと電話で話した」裕紀は、ぼくの妹の名を告げ、何かを伝えたい意思のようなものに溢れていた。「山下クンのね、学校にバスケット・ボールのうまい女の子がいるんだって。誰だか分かる?」山下は教鞭を取りながら、ラグビーを教えはじめていた。
「え、分かるわけないじゃん」ぼくに、その年代の知り合いなどいるはずもなかった。
「それが、ひろし君も知ってるよ。まゆみちゃんだって」
「え、もう高校生」彼女は、ぼくが大学生の時代にバイトをしていたスポーツ・ショップの店長のひとり娘だった。何年か前にうちに一度、泊まったことがある。「そう。あのころから利発で、活発な子だったもんな」
「山下クンも生徒に声をかけられ、普通に応対してたらしいけど、ひろし君のことにやたらと詳しいので訊いてみたら、あの子だったんだって」
「ええ、嬉しいな」
ぼくらは、食事をしながらもそのことを話し続けた。そして、時間の流れと、やはり、人間に対してきちんと接すると報いのようなものが、いつか、表れるのだということを知った。だが、ぼくのこころのなかには、あの小さな女の子の姿も居座り続けた。バイトが終わり、よく食事の時間も一緒に過ごした。彼女はよく喋り、よく笑った。困ったことがあると拗ね、口を利かない時間もあった。
「彼女がスポーツしている姿も見てみたいね」と、裕紀は言う。それを与えられるのは、短い時間であり、それが可能かどうかも考えている。
「そうすると、もう、ぼくが裕紀と会った年頃と同じなんだ」
「そうだね」そう言いながらも、それを不思議なことのように折り合いのつかないような表情を裕紀はした。「じゃあ、ひろし君のようなひとにも巡り合うかもしれない」
「彼女に似合うような子は、一体、どんなひとなんだろう」その成長の一部を山下は知っているということを、ぼくは羨望の気持ちをいだいていた。そして、間違った成長をしていない彼女自身を応援したくなる。もちろん、店長や奥さんに対してもだ。そのような機会が裕紀にも与えられるべきだと思うが、ぼくらにはその運命が寄り付かなかった。そして、関連のあることとないことの境目がつかなくなる。まゆみちゃんは、ぼくの甥っ子の成長を、ぼくがまゆみちゃんに対して感じたように暖かく見守ってくれるだろうかと思い、人間の縁の不可思議さも感じた。
ぼくらは食事を済ませ、ソファに座りテレビを見ている。ニュースで少しだけ流れる高校生や大学生のスポーツの話題が身近になっていることに気付いた。いままでは、ラグビーやサッカー以外の話題を注意しなかったけれども、いまは、青春を謳歌するすべての若者に愛着をもった。そこには、夢と挫折があったとしても、すべて貴いものなのだ。
「まゆみちゃん、また、東京に遊びに来れるかな? もう一人で何でもしていい年代だよね」裕紀はそのような希望を語り、裕紀が自分に与えられていた範囲のことをぼくは想像する。彼女の家族は厳しいしつけをしていた。それが自由というものを知り始める年代にとって、いささか不便なものだろうとぼくは思う。だが、彼女はその不自由さを実感してもいないようだった。それゆえに、ぼくは彼女を大切に思っていたのだが、結果としてはぼくの自由を追い求める気持ちが彼女の何年かを奪った形になった。まゆみちゃんには、ぼくみたいな理不尽な振る舞いをした人間が現れなければ良いと想像する。傷ついて大人になるというものも本当だろうが、それを越えられるだけの芯の強さがその年代にあるとも思えない。裕紀は、いまでも奇跡的にぼくを恨んでいない。それは、ぼくにとって必要以上の幸福だった。ぼくは恨みを恐れ、何年かを過ごした。しかし、その恨みに対しての報いの果実も大きなものであったことは、事実だった。
「わたしも、あの年代に戻ったら、何をするだろう」想像する生き物である人間は、さまざまなことを考える。「ひろし君は?」
「また、同じようにラグビーをする。そして、上田さんのような先輩に会い、友人を作り、山下のような後輩の成長を見守る」
「じゃあ、満足いった人生なんだ」
「もちろんだよ。裕紀は?」ぼくは、いくつかの答えをイメージするが、それが嬉しい答えなのかは聞くまで分からない。
「どっかに留学をしたと思う。遅かれ、早かれ。運動する能力は残念ながらないと思うけど」
ぼくと彼女は最初の男女のように永続するお互いの関係を続けられたかもしれない。だが、ぼくの前には、ひとりの女性がいた。そのひとの人生の一部になったことも、ぼくの人生での喜びの瞬間の数々になったのは間違いのないことだった。ぼくらは話し足りない気持ちもあったが夜の入り口はそれを許さず、明日への活力のためにベッドに入った。