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償いの書(56)

2011年05月14日 | 償いの書
償いの書(56)

「ゆり江ちゃんが結婚するみたいだよ」ポストから郵便物をもってきた裕紀は、ある招待状を手にしている。ぼくは、ソファに座りながら動揺を隠そうとしている。のどかな空気だった日曜の朝が、少しだけ変わる。
「そうなんだ? 相手は誰だろう?」
「何年間か付き合ってたひとでしょう。あら、私だけだ」

「そうだろう。ぼくは、そんなに親しくないもん」それは、明らかに嘘だった。だが、こうした形で事実を知るのは、あまり気持ちの良いものではなかった。ぼくの前には、いつからか裕紀や雪代が表れた。もし、彼女たちがぼくの前にいなければ明らかに、ぼくはゆり江という子が好きだった。しかし、それは失礼に当たることだし、口に出せることでもない。3番目に好きだった、ということが一体、どういうことなのだろうとほかの郵便物を読みながらぼくは考えている。
「彼女、きれいでしょうね」裕紀は、もうその姿が目の前にあるように、うっとりとして言った。
「写真、撮って来てよ」
「見たい?」

「まあ、それは」彼女は20代の終わりであるはずだ。今後、その彼女を独り占めにするのは、どういう男なのだろうとぼくは妄想する。ある期間、ぼくの前で笑ったり、怒ったり、泣いたりした彼女の顔があった。ぼくは、それをいまでも記憶に留めているはずだが、その鮮烈さは当然のことながら薄れている。そして、彼女はまだ若過ぎる年齢だった。成熟するゆり江ちゃんは、どのように変貌を遂げ、どのようにきれいになって行くのだろう?

 ぼくは、それを想像でしか手に入れることができず、しかし、実際にその変化を見守れる立場の人間がいることも真実だった。
「どんな格好で行こう」裕紀は自分のクローゼットを開ける。そこに気に入ったものはないようで、「午後に、デパートでも行かない? わたしのお給料も入ったことだし」と振り返って言った。

「そうしようっか」ぼくは、屋上で飲むビールのことを考えていた。彼女は、ものを探したり選択したりするのに時間がかかり、ぼくは秘かにその行動の合間に時間を潰すことを楽しみにしていた。さまざまな子どもたちは、身体をうごかしたりはしゃいだりしていた。

 ぼくらはそれぞれ着替え、電車に乗る。彼女は仕事に必要な文房具を先ず買った。その後、女性の洋服がずらっと並んだ場所に入る。ぼくも、ちょっとだけ付き合い、
「時間、潰しててもいいよ。長くかかりそうだから」という裕紀の言葉をきっかけに、さらにエスカレーターで何階かのぼり、屋上への扉を開いた。

 そこには、青空があった。のどかな日曜の午後の歓声があった。揺るぎない幸福の予兆に満ち溢れていた。ぼくも、その一員になり、ビールのグラスを手にする。時計を確認し、お腹の空腹になる時間を計算した。裕紀の選ぶ服の色を考えたが、思いはゆり江ちゃんのことの方に動いていった。

 ぼくは、あのとき酔っていた。まだ、大学生だった。帰りがけにコンビニエンス・ストアに寄った。
「近藤さんのお兄さん、酔ってますね?」と、レジにいる女の子に声をかけられた。そう言うぐらいだから妹の友だちであろうことが想像された。彼女は、ぼくが裕紀をふったことを恨んでいた。幼いころの習い事で裕紀から優しくされた思いを大切にしていたらしい。ぼくは、彼女と一日だけ付き合ってあげ、デートの真似事のようなことをした。

 そのことを雪代に告げ口した。裕紀への思いがそうさせたらしい。雪代は、幼すぎる彼女の行動を軽んじて、なにも気にしなかった。ゆり江は自分の行動に反省したのか、謝りに来た。ぼくは、ただ若い彼女を可愛く感じただけだった。

 屋上の陽にあたったビールはぬるみ、ぼくは飲み干しておかわりをした。買い物中の裕紀はまだ来なかった。

 その後、弟がぼくがサッカーを教えていたチームにいたことでゆり江は見に来たこともあった。なにかの大会を集団でテレビ観戦をしたときにも彼女と再会した。ぼくには雪代がいたが、もし、そこに雪代がいなければ、ぼくはゆり江を選んでいたはずだろう。そうした未来が訪れる可能性があったことも、ぼくは考える。

 彼女は大人になり、ぼくは働きはじめの彼女のアパートを探す。その女性らしい部屋にぼくは通うことになった。彼女の身体は甘く、ぼくはそこにおぼれていく。

 ゆり江は、その関係を自分自身に許していたが、ときには耐えられず、泣いたり、また怒ったりした。その関係もいつしか終わり、知っていたかもしれない雪代は、なにも言わなかった。だが、ぼくと雪代が別れたあとに雪代はそのことを言った。

「浮気ばっかりする男の子がいて、その子がわたしは好きだった」と、雪代はぼくのことをそう表現した。
 そう思い巡らしている最中に袋を手にした裕紀が、こちらに向かってきた。青い服が、空の青さより、もっと水色に近いことを、ぼくの脳は判断している。しかし、その顔をぼくは一瞬だけ、ゆり江ちゃんのような気がしていた。そのような現実も起こりえたかもしれないことを予期するように。

「何杯目?」
「2杯目だよ。気に入ったのあった?」彼女は、嬉しそうに笑い、値段をいった。その数字と三人目に好きだったというその数字を、ぼくは無意味だが比べていた。