償いの書(55)
妹のおなかのなかに二人目のこどもが宿る。母と電話をしているときに、そのことを聞かされた。実家に近いところにいれば、両親も安心だし、山下の両親の世話にもなりやすいだろう。そのことを考え、それ以外のことは思い至らなかった。
「裕紀ちゃんは、どうしたのかね?」と、母は素朴な疑問を口にする。
「なにが?」
「子どもができてもいいかなと、そろそろ」少しだけ、言い辛そうにしていた。
「そうだね。でも、裕紀には言わないで」
ぼくは、電話を終え、その日の仕事も済ませ、家に帰る。
「美紀が、また妊娠したみたいだよ」ぼくは、妹について即物的な言い方をわざとした。
「そう、おめでとう。今度はどっちかね」
「うん、まだ、分からないんだろう」彼女は、自分のことのように自然と腹部をさすった。
「病院で見てもらった方がいいかな?」
「何を?」
「わたしの身体を」
「どうして?」
「だって、ひろし君も子どもが好きでしょう」
「それは、別の問題だよ」ぼくは、病気になったひとが病院に行くものだと考えていた。もしかしたら、多少の病気でも行かなくても治るという考え方すらしていたかもしれない。ぼくらはラグビーに熱中し、強靭な身体を手に入れた。それ以来、多少の怪我や病気を口にしなかった。ライバルの手前、ぼくらの弱みは相手の優位に立つとでも思っていたのだろう。それを、引き摺っていた。予防という観点で病院という視野は入れなかった。しかし、「うん、心配なら」とだけ言った。
「うん、考える」
ぼくは職場で定期健診を受けていた。仕事を辞めた裕紀がそういう機会を作っていたのか、正直いうとぼくは無関心だった。多分、自分で見つけて受けているだろうぐらいに思っていた。ぼくらはまだ若さを内蔵しており、完全なる病気などというものは程遠い位置に置いていた。もちろん、誰も責めることのないことだった。
妹は、その後、美紀と連絡を取り合って、ぼくが知らない情報も入手した。
手帳があり、たくさんの予防注射を子どもは打ったりするようだ。前の甥っ子の記録として生かされてもいるらしい。自分が経験しないことは、やはり、本当の自分の知識になることはなく、ぼくはそれを直ぐに忘れた。だが、その新しい子どもが誕生する日は、自然と忘れなかった。自分の遠いところで、自分と関係ある生命が生まれるということに不思議な感慨をもつ。そして、たくさんの可能性と、どうあがいてもできないことがあるという相反した人間に、ぼくは愛着を持とうと思っている。皆が、同じようなことを同じようにできれば、そこには個性はなく、さまざまな競技の価値も失われた。髪を切るのに長けた人間がいて、物を売り込むのに上達する人間がいた。だが、新しい子は、なにが出来ようが、なにが出来なかろうが、ぼくは愛してしまうのだろうと思っている。裕紀も同じような決意でいることなのだろう。
「普通、親って、自分の孫がどれほど可愛いのかね?」
ぼくは昼休みに、なんの策略もなく、ぼそっと発言する。何人かは、このひと、どうしたんだろう? という表情を浮かべた。それで、「いや、妹にまた子どもができるらしいんだけど、ぼくは、まだ、いないだろう?」と、言い訳がましいことを言った。
女性たちは、同情したらしく、何かのアドバイスのことをそれぞれ発言する。もし、仮に裕紀の両親がまだ居れば、彼らはどのような見方をしたのだろうと考えた。だが、もし居たら、ぼくのことを金輪際、許さなかっただろうとも思った。そして、ふたりは結婚もしなかったかもしれない。それが、良かったのか自分はその判断すらできなくなっていた。
たまには、裕紀になにか買って帰ろうと思い立って、仕事が終わり、デパートに寄った。だが、若い女性がたくさんいる場所は足が向きにくく、男性用の階を見て、一段ずつ下に降りて行こうと決める。その途中には子ども用の衣類やおもちゃなどが展示されていた。ぼくは、そのような場所を念入りに見たこともないことに気付き、この際だから、丹念に見てまわろうと歩行の速度を緩めた。
山下もあのような大きな身体で、こうした場所を歩いているのだろうかと想像した。あの大きな手は、ちいさな子どもに対して、きちんと役割を果たしているのかも想像する。そうすると、自然と笑みがでた。
「どのくらいなんですか?」まだ、若い入社したばかりの年頃の店員が声をかけてきた。ぼくは、その意味が分からなかった。どのくらい?
「ああ、年齢? まだ、生まれてない」
「ご予定は?」ぼくは、唯一覚えている日付を言った。彼女はそれを算出し、奥に消え、何かを探しているようだった。ぼくは勧められるままに小さな服と靴を買い、それを手にする。
その後、また下の階に向かった。閉店間際でもひとは消えなかった。ぼくは、次のシーズンを先取りしている場所を見ながら、裕紀のタンスのなかにありそうな服の色を思い出していた。その同系色で似合いそうなものがあるか別の店員に探してもらった。
ぼくは、裕紀のものと小さな子どものための二つのものをひとつにまとめて貰い、注意が足りない人間のような気もしていた。
裕紀は、どういう気持ちでいるのだろう。ぼくは、そのデパートの階で、彼女を遠くに感じてしまっていた。ぼくは彼女の気持ちの何を知り、また何をしらないのだろうという区別のつかないまま、明るい店内からつづく裏の灯のさびしい駅までの道を歩いていた。
妹のおなかのなかに二人目のこどもが宿る。母と電話をしているときに、そのことを聞かされた。実家に近いところにいれば、両親も安心だし、山下の両親の世話にもなりやすいだろう。そのことを考え、それ以外のことは思い至らなかった。
「裕紀ちゃんは、どうしたのかね?」と、母は素朴な疑問を口にする。
「なにが?」
「子どもができてもいいかなと、そろそろ」少しだけ、言い辛そうにしていた。
「そうだね。でも、裕紀には言わないで」
ぼくは、電話を終え、その日の仕事も済ませ、家に帰る。
「美紀が、また妊娠したみたいだよ」ぼくは、妹について即物的な言い方をわざとした。
「そう、おめでとう。今度はどっちかね」
「うん、まだ、分からないんだろう」彼女は、自分のことのように自然と腹部をさすった。
「病院で見てもらった方がいいかな?」
「何を?」
「わたしの身体を」
「どうして?」
「だって、ひろし君も子どもが好きでしょう」
「それは、別の問題だよ」ぼくは、病気になったひとが病院に行くものだと考えていた。もしかしたら、多少の病気でも行かなくても治るという考え方すらしていたかもしれない。ぼくらはラグビーに熱中し、強靭な身体を手に入れた。それ以来、多少の怪我や病気を口にしなかった。ライバルの手前、ぼくらの弱みは相手の優位に立つとでも思っていたのだろう。それを、引き摺っていた。予防という観点で病院という視野は入れなかった。しかし、「うん、心配なら」とだけ言った。
「うん、考える」
ぼくは職場で定期健診を受けていた。仕事を辞めた裕紀がそういう機会を作っていたのか、正直いうとぼくは無関心だった。多分、自分で見つけて受けているだろうぐらいに思っていた。ぼくらはまだ若さを内蔵しており、完全なる病気などというものは程遠い位置に置いていた。もちろん、誰も責めることのないことだった。
妹は、その後、美紀と連絡を取り合って、ぼくが知らない情報も入手した。
手帳があり、たくさんの予防注射を子どもは打ったりするようだ。前の甥っ子の記録として生かされてもいるらしい。自分が経験しないことは、やはり、本当の自分の知識になることはなく、ぼくはそれを直ぐに忘れた。だが、その新しい子どもが誕生する日は、自然と忘れなかった。自分の遠いところで、自分と関係ある生命が生まれるということに不思議な感慨をもつ。そして、たくさんの可能性と、どうあがいてもできないことがあるという相反した人間に、ぼくは愛着を持とうと思っている。皆が、同じようなことを同じようにできれば、そこには個性はなく、さまざまな競技の価値も失われた。髪を切るのに長けた人間がいて、物を売り込むのに上達する人間がいた。だが、新しい子は、なにが出来ようが、なにが出来なかろうが、ぼくは愛してしまうのだろうと思っている。裕紀も同じような決意でいることなのだろう。
「普通、親って、自分の孫がどれほど可愛いのかね?」
ぼくは昼休みに、なんの策略もなく、ぼそっと発言する。何人かは、このひと、どうしたんだろう? という表情を浮かべた。それで、「いや、妹にまた子どもができるらしいんだけど、ぼくは、まだ、いないだろう?」と、言い訳がましいことを言った。
女性たちは、同情したらしく、何かのアドバイスのことをそれぞれ発言する。もし、仮に裕紀の両親がまだ居れば、彼らはどのような見方をしたのだろうと考えた。だが、もし居たら、ぼくのことを金輪際、許さなかっただろうとも思った。そして、ふたりは結婚もしなかったかもしれない。それが、良かったのか自分はその判断すらできなくなっていた。
たまには、裕紀になにか買って帰ろうと思い立って、仕事が終わり、デパートに寄った。だが、若い女性がたくさんいる場所は足が向きにくく、男性用の階を見て、一段ずつ下に降りて行こうと決める。その途中には子ども用の衣類やおもちゃなどが展示されていた。ぼくは、そのような場所を念入りに見たこともないことに気付き、この際だから、丹念に見てまわろうと歩行の速度を緩めた。
山下もあのような大きな身体で、こうした場所を歩いているのだろうかと想像した。あの大きな手は、ちいさな子どもに対して、きちんと役割を果たしているのかも想像する。そうすると、自然と笑みがでた。
「どのくらいなんですか?」まだ、若い入社したばかりの年頃の店員が声をかけてきた。ぼくは、その意味が分からなかった。どのくらい?
「ああ、年齢? まだ、生まれてない」
「ご予定は?」ぼくは、唯一覚えている日付を言った。彼女はそれを算出し、奥に消え、何かを探しているようだった。ぼくは勧められるままに小さな服と靴を買い、それを手にする。
その後、また下の階に向かった。閉店間際でもひとは消えなかった。ぼくは、次のシーズンを先取りしている場所を見ながら、裕紀のタンスのなかにありそうな服の色を思い出していた。その同系色で似合いそうなものがあるか別の店員に探してもらった。
ぼくは、裕紀のものと小さな子どものための二つのものをひとつにまとめて貰い、注意が足りない人間のような気もしていた。
裕紀は、どういう気持ちでいるのだろう。ぼくは、そのデパートの階で、彼女を遠くに感じてしまっていた。ぼくは彼女の気持ちの何を知り、また何をしらないのだろうという区別のつかないまま、明るい店内からつづく裏の灯のさびしい駅までの道を歩いていた。