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償いの書(57)

2011年05月15日 | 償いの書
償いの書(57)

「花嫁を嫉妬させちゃ駄目だよ」
 あれから、何ヶ月が経って、裕紀は仕度をしている。ぼくも途中までついて行き、見送った。彼女は笑顔で振り向き、そして、遠ざかっていった。今日は、ゆり江という子の結婚式だった。

 ぼくは、それから暇を持て余し、そのまま、何の考えもなく電車に乗った。野球でも観ようと思い、なんの計画もなく球場がある駅に向かった。その日に、そこで試合が行われるかも知らなかった。ただ、なければそこで別のプランを考えれば良いだけだと、適当に自分を泳がせた。

 駅の前から球場までの道に売店があったので、その日にデーゲームがあることが分かった。ぼくは、チケットを買い、空いている座席に潜り込む。どちらを応援したいわけでもなかった。ただ、自分をある空間に置き、身を沈めていたかっただけなのだ。

 後悔のしたくない人生を送りたかったが、当然のことながら、ひとりの人間の思考など最適なものをいつも選べるわけでもなく、いくつかの失敗や過ちをした。いくつかではない。いくつものだ。ぼくは、10代の後半に裕紀といったん別れ、雪代という女性に向かった。彼女もまた幸福の、ぼくの幸福の源だった。甘い瞬間がいくつもあり、辛いこともあっただろうが、それはもう忘れてしまった。それすらも楽しい事柄として変換されたのだろう。その後、別れはしたが、ぼくの前に不意に裕紀が戻ってきた。ふたり以外にぼくの関与する人間が訪れるはずもないと思っていたが、ぼくはここ数日、不安でいた。ゆり江という子が、もしかしたら、ぼくにたくさんの幸福を運んで来てくれたかもしれないという可能性の喪失に脅えていたのだ。それは、受身の立場でいて、自分から主体をもって能動的に、幸福を捧げるというものではなかった。ぼくは、常に受身でいる人間のような気がした。

 ビールを飲み、考え事をしているうちに歓声も遠のいていった。ぼくは、座席で自分のこれまでを振り返っている。しかし、そこにも限りがあり試合は終わった。球場を最後のほうの順番で後にし、外に出た。試合に勝ったチームを応援していたファンたちは元気づき、もうひとつのチームの方々は、いままでのことを忘れようとしているようだった。未来の野球選手を目指す少年たちは目を輝かせ、メガホンをバット代わりに振り回していた。それが、誰かに当たってしまったようで、父親らしきひとが頭を下げて謝っていた。ついでに子どもも帽子を取られ、父に頭を抑えられ謝った。しかし、そこには怒りが入り込む要素などはまったくなく、ただの幸福の一場面でもあるようだった。

 ぼくは、電話の着信履歴を見た。もしかしたら、裕紀からの電話があったかもしれないと考えたからだが、そこには電話では見慣れない二つの名前があった。ひとつは、笠原さんで、ひとつは筒井という女性だった。ぼくは、それを見ながら、どう今日一日が転ぶのか考えた。

 先に筒井という女性に電話をかけた。ぼくが結婚してから唯一、浮気をしてしまった女性だ。それを自分が許してしまったことをぼくは悔いていた。電話にでた彼女は、特別な用件があるわけでもなく、世間話をして、ぼくがそれ以上にのってこないことに愛想を尽かし、電話を切った。ぼくは、今日の思いの中で、3人の女性で気持ちは充分だった。これ以外に入り込ます余地などなかった。そして、幾分冷たい気持ちであしらってしまった。そのお詫びを、いつの日かするであろうことが予感できたが、それは未来のいつかが来るまで放り投げた。

 つづいて、笠原という女性に電話をかけた。ぼくは、連絡先を教えたか、もう覚えていなかった。だが、彼女が知っているので、それに電話に登録もされていたようなので、教えたのは間違いのないことなのだろう。彼女は上田さんの会社のひとだった。彼女が撮った裕紀の写真をぼくらは部屋に飾っていた。

「どうかしました?」
「いえ、上田さんに頼まれたチケットをお渡ししようと思ったんですが、手渡しできれば簡単ですけど、郵送のほうが良かったですか?」
 用件は、そういうことだったらしい。ぼくは誰かと一緒に夕飯でも食べたい気分だった。彼女は、休日も働くことがあり、これから退社するので、それを渡せるタイミングがあると言った。彼女がいるところは、ここからそう遠くないところだった。

 ぼくは待ち合わせまで時間を潰し、その時間になると足を速め、駅のそばの目印のあるところまで向かった。
「ひとりで出掛けることもあるんですね?」
「今日、妻は旧友の結婚式に誘われて、ぼくは暇にしてました」と、野球のことやその日に見た少年の謝罪シーンなどを話した。
 ぼくらは適当な店を探し、共通の話題を探りながら話した。ぼくの情報を彼女は上田さんから得ているらしく、それらのことを含ませながらぼくに訊いた。ぼくはラグビーの優秀な選手であり、それを投げ出し、大切な女性もまた簡単に投げ出すような人間だと、想像されていたらしい。

 逆にぼくは彼女のほとんどのことを知らない。だが、最初に知ったのは、最近、交際相手と別れたばかりらしく、誰かの結婚式の話など聞きたくもないらしかった。それで、ぼくは会話の初めからつまずいた。だが、それも見知らぬ相手なので、仕方のないことだった。
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