償いの書(59)
「直美ちゃん、しばらく」
「こんばんは。お久し振りです」店に入ると笠原さんは店員と、そうやり取りをした。それで、どれほどの頻度で彼女がそこに行くのか、また行かない期間が想像できた。
「新しい彼氏?」
「違います。仕事の先輩のお友だちです」それを確認するかのように横にいるぼくに振り向いた。
「それは、微妙なスタンスだね」店員は、それでもからかうのを止めないようだった。
ぼくらはカウンターに座り、それぞれの飲み物を注文する。店員は、それを作り運んできてカウンターの向う側から差し出した。ぼくは、両方の手でひとつずつ受け取った。左手には円筒形のグラス。右手には、足の長いグラスがあった。
「よく来るんだ?」
「以前は。最近は足が遠退いている」
「なんで?」
「一緒に来るひとがいなくなった」
「そうか、ごめんね」彼女は、そこから長い物語を始める。大学に入りたてで不安を感じている頃に出会ったサークルの先輩に恋をしていることに気付いた。5月になり、6月になりそれを隠そうとしながらも、周囲の人間は、その不可解な様子を感じる。彼女は髪型を変え、化粧も洗練していこうと考える。何かの際に彼のタイプを知ったからだ。その理想像と自分の狭間を埋めるために努力する。努力の甲斐もあってか、彼は交際を求めてきた。彼女は考える振りをしながらも同意した。
いくつものデートがあり、いくつかの喧嘩があった。些細な理由は、それすらも未来の思い出にするようだった。彼女はふくれ、彼は謝った。謝り疲れて、逆に怒った。彼女は彼をなだめ、些細な理由なのでいつかは解決した。解決をするために、仲直りをするためにわざわざ喧嘩の要因を作るような場合もあった。見た映画は増え、行ったレストランは記憶され、遊園地の夜は、彼女がもっとも輝く日だった。
彼は、働くようになり、彼女を子ども扱いにする。子ども扱いされないために、居ないときに彼の部屋で料理をする。待つことが楽しみの一部となっていく。そして、彼女も働くようになり、これで対等な立場で会えると思っていたが、そう考えたのが浅はかなぐらいにふたりは会えなくなった。時間は合わず、休日も別々だった。彼は別の女性を作り、考え直すよう迫ったが、その行為は実らなかった。
「なんか、惨めでしょう?」
「そんな風には思わないよ」
「そう、なんで?」
「そういういくつものことが、君を大人にしてくれた。右も左も分からない10代の女の子から」
笠原さんは、その道のりを頭の中で浮かべるためか、目をつぶった。空いたグラスが彼女の前にあり、ぼくも、また自分の分を飲み干した。
「なにか、作ります? 直美ちゃん、素敵でしょう」店員は、彼女の側にいるようだった。
「近藤さんって言うんですけど。もう、結婚しています。きれいな奥さんがいるんです」
店員は、これこそが驚くというような表情を作った。ぼくは、それを見て笑った。バーのカウンターのなかにいなくても、別の職業でもやっていけそうな感じだった。大道芸人。
「じゃあ、誰か紹介してもらうといいよ。妻帯者の目から判断してもらって」
笠原さんは振り向く。何かを期待するように。ぼくは、誰かに自分以外を売り込むようなことは、してこなかったことを気付いた。それで、ぼくの若さがこの瞬間に消えていくような感じをもった。
「誰かいますよね?」別のグラスをもってきた彼はテーブルにそっと置いた。
「誰かいますかね?」笠原さんも言った。
「うん、誰かいるでしょう」ぼくは、何人かを頭に浮かべる。だが、笠原さんがなにを期待し、なにに対して無頓着なのか分かる訳もなかった。もうしばらくは、情報を得る時間を必要とするようだったが、若い女性がそうのんびりしているとも思えなかった。「考えておくよ」
「やった」と、小さく言い、喜びの表情に変わった。先程まで自分の物語に過剰なまでにうっとりし、またしんみりとした彼女はいなくなった。ぼくは、その憂いを帯びた彼女も好きだったが、この快活さも彼女の一面であることを知った。「じゃあ、電話くださいね。約束ですよ」
ぼくは生半可な返事をする。ぼくと別れた数人の女性は、笠原さんのようにぼくのことを物語として覚えてくれているのだろうかと考えた。出会いがあり、思い出は作られ、そして、別れる。しかし、誰もが立ち直るように出来ていた。彼女の微笑みを見ながら、嬉しい反面、悲しいような気持ちも持った。
店内には静かにピアノが流れていた。「マイ・ロマンス」だろう。雪代が誰だったか覚えていないがその演奏を好んでいた。あれもいらない、これもいらない、というような曲であったはずだ。笠原さんは、何がいらないのだろう? また、何を必要としているのだろう。そして、紹介というような場面から燃え上がるような炎は成立するのかとも考えた。考えても仕方がないことだった。
夜は暮れ、そろそろ帰らないわけには行かない時間になった。店を出て駅前で別れた。笠原さんは地上の電車へ。ぼくは地下にもぐった。電話が鳴り、裕紀がそばにいることを知り、ぼくは待った。彼女の頬は紅潮し、もたれてきたときの匂いにアルコールが混ざっていることが認識できた。
「ごめんね。今日、何をしていたの?」
ぼくは、それを説明することを困難に感じている。「野球を見たよ。久し振りだった」
「わたしは、いつまで経ってもルールを覚えられない」と、自嘲気味に裕紀は言った。
「直美ちゃん、しばらく」
「こんばんは。お久し振りです」店に入ると笠原さんは店員と、そうやり取りをした。それで、どれほどの頻度で彼女がそこに行くのか、また行かない期間が想像できた。
「新しい彼氏?」
「違います。仕事の先輩のお友だちです」それを確認するかのように横にいるぼくに振り向いた。
「それは、微妙なスタンスだね」店員は、それでもからかうのを止めないようだった。
ぼくらはカウンターに座り、それぞれの飲み物を注文する。店員は、それを作り運んできてカウンターの向う側から差し出した。ぼくは、両方の手でひとつずつ受け取った。左手には円筒形のグラス。右手には、足の長いグラスがあった。
「よく来るんだ?」
「以前は。最近は足が遠退いている」
「なんで?」
「一緒に来るひとがいなくなった」
「そうか、ごめんね」彼女は、そこから長い物語を始める。大学に入りたてで不安を感じている頃に出会ったサークルの先輩に恋をしていることに気付いた。5月になり、6月になりそれを隠そうとしながらも、周囲の人間は、その不可解な様子を感じる。彼女は髪型を変え、化粧も洗練していこうと考える。何かの際に彼のタイプを知ったからだ。その理想像と自分の狭間を埋めるために努力する。努力の甲斐もあってか、彼は交際を求めてきた。彼女は考える振りをしながらも同意した。
いくつものデートがあり、いくつかの喧嘩があった。些細な理由は、それすらも未来の思い出にするようだった。彼女はふくれ、彼は謝った。謝り疲れて、逆に怒った。彼女は彼をなだめ、些細な理由なのでいつかは解決した。解決をするために、仲直りをするためにわざわざ喧嘩の要因を作るような場合もあった。見た映画は増え、行ったレストランは記憶され、遊園地の夜は、彼女がもっとも輝く日だった。
彼は、働くようになり、彼女を子ども扱いにする。子ども扱いされないために、居ないときに彼の部屋で料理をする。待つことが楽しみの一部となっていく。そして、彼女も働くようになり、これで対等な立場で会えると思っていたが、そう考えたのが浅はかなぐらいにふたりは会えなくなった。時間は合わず、休日も別々だった。彼は別の女性を作り、考え直すよう迫ったが、その行為は実らなかった。
「なんか、惨めでしょう?」
「そんな風には思わないよ」
「そう、なんで?」
「そういういくつものことが、君を大人にしてくれた。右も左も分からない10代の女の子から」
笠原さんは、その道のりを頭の中で浮かべるためか、目をつぶった。空いたグラスが彼女の前にあり、ぼくも、また自分の分を飲み干した。
「なにか、作ります? 直美ちゃん、素敵でしょう」店員は、彼女の側にいるようだった。
「近藤さんって言うんですけど。もう、結婚しています。きれいな奥さんがいるんです」
店員は、これこそが驚くというような表情を作った。ぼくは、それを見て笑った。バーのカウンターのなかにいなくても、別の職業でもやっていけそうな感じだった。大道芸人。
「じゃあ、誰か紹介してもらうといいよ。妻帯者の目から判断してもらって」
笠原さんは振り向く。何かを期待するように。ぼくは、誰かに自分以外を売り込むようなことは、してこなかったことを気付いた。それで、ぼくの若さがこの瞬間に消えていくような感じをもった。
「誰かいますよね?」別のグラスをもってきた彼はテーブルにそっと置いた。
「誰かいますかね?」笠原さんも言った。
「うん、誰かいるでしょう」ぼくは、何人かを頭に浮かべる。だが、笠原さんがなにを期待し、なにに対して無頓着なのか分かる訳もなかった。もうしばらくは、情報を得る時間を必要とするようだったが、若い女性がそうのんびりしているとも思えなかった。「考えておくよ」
「やった」と、小さく言い、喜びの表情に変わった。先程まで自分の物語に過剰なまでにうっとりし、またしんみりとした彼女はいなくなった。ぼくは、その憂いを帯びた彼女も好きだったが、この快活さも彼女の一面であることを知った。「じゃあ、電話くださいね。約束ですよ」
ぼくは生半可な返事をする。ぼくと別れた数人の女性は、笠原さんのようにぼくのことを物語として覚えてくれているのだろうかと考えた。出会いがあり、思い出は作られ、そして、別れる。しかし、誰もが立ち直るように出来ていた。彼女の微笑みを見ながら、嬉しい反面、悲しいような気持ちも持った。
店内には静かにピアノが流れていた。「マイ・ロマンス」だろう。雪代が誰だったか覚えていないがその演奏を好んでいた。あれもいらない、これもいらない、というような曲であったはずだ。笠原さんは、何がいらないのだろう? また、何を必要としているのだろう。そして、紹介というような場面から燃え上がるような炎は成立するのかとも考えた。考えても仕方がないことだった。
夜は暮れ、そろそろ帰らないわけには行かない時間になった。店を出て駅前で別れた。笠原さんは地上の電車へ。ぼくは地下にもぐった。電話が鳴り、裕紀がそばにいることを知り、ぼくは待った。彼女の頬は紅潮し、もたれてきたときの匂いにアルコールが混ざっていることが認識できた。
「ごめんね。今日、何をしていたの?」
ぼくは、それを説明することを困難に感じている。「野球を見たよ。久し振りだった」
「わたしは、いつまで経ってもルールを覚えられない」と、自嘲気味に裕紀は言った。