償いの書(61)
ぼくは、家やマンションを売り、土地を誰かに貸し、生計を立てていた。枠があれば、そのなかには細かいデティールで美しく表現する部分もある。マンションの一室をきれいにするために家具があり、インテリアを職業とするひともいる。ぼくらは自分の身体の一部のように、それらのひとびとを必要とし、仕事上で関わった。
「今度、展示会があるので来てくださいよ」と、家具屋さんが招待状をくれた。
日曜の午後、ぼくはそれを手にして裕紀と歩いている。ぼくらはふたりで世界を構成するのに慣れ過ぎてしまったようだ。別の生物がぼくらの生活にいることが考えられなくなってしまっている。裕紀はそれに対して不服でもあるようだったが。
たくさんの家具が陳列されている中を歩く。ときには素材を眺め、手に触れ、引き出しを開けたりした。その前で屈み、ソファに座ったりもした。ぼくらの家は会社が家具も揃えてくれていたので、大きなものは買えなかったが、手頃な小さなものを置くことは、生活をする上で段々と必要になってきた。ものは増え、行き場所を望んでいた。そうした行動にこころを奪われていたときのことだ。
「近藤さんですよね? 高井です」と声をかけられた。しっかりとした顔立ちのぼくよりいくらか若いであろうことが、きびきびとした身体の動きからも分かった。「あ、覚えていない? ひどいな」とつづけた。
「仕事で会いましたっけ?」
「いや、ぼくもあの県でラグビーをしていました。山下と同期です。彼、辞めちゃいましたね」
「そうすると、あっちの学校?」
「そうです。島本さんの後輩です。あの、女たらしの」と、悪意もない表情で微笑みながら彼は言った。「これ。よろしくお願いします」と言って彼は名刺を渡した。ぼくは、それを受け取る。
「ぼく、持ってないけど」
「あとで、会社のものに訊きます。なんか、いいのございました?」と、彼は会社員の顔に戻って言った。「暇があったら、早く終わるのでどこかで食事でも」
「どう?」ぼくは、裕紀に訊く。
「別に、大丈夫だよ」と、彼女は答えた。ぼくは、ラグビーを同時代にしていたというだけで彼に好印象をもつ。ぼくは過去を振り返り、自分とライバルチームの間で、どう競争が行われ、どうシビアな考えが浸透していったのか知りたく思った。
ぼくらは家具を見るのにも疲れ、都会の中の公園のなかを歩いたり、ベンチに座って小鳥たちの振る舞いを見たりした。
「女たらし、って久々にきいた」と、裕紀は鳥を見ながら笑って言った。ぼくは、素直には笑えなかった。その妻になったひとのことを考えざるをえなかった。
「そういう一面もあったんだろう」
「かばいたい?」
「10代の運動選手のヒーローであった彼を、あまり、悪く考えたくもない。誰だってちやほやされたら、ああなる可能性をみんな持ってるんだろう」
「ひろし君も?」
「ぼくは、そんなにちやほやされなかったし、一途になる面もあった」
「そう?」
「主観の問題だからね」
待ち合わせの時間が迫り、ぼくらはそこを出た。はしゃぐ子どもや、帰りたくないと言って泣き叫ぶ子どももいた。「じゃあ、ずっとここに居なさい」と母に突き放されると途端に泣き止んだ。現金なものだ。
「遅れまして」と、好青年が足早にやって来た。そのフットワークの軽さから、ぼくの過去の記憶が取り戻される。あの走りと、彼がどこのポジションであったかが思い出された。
ぼくらは、ある店に入り、そのことをぼくは告げる。
「本当ですか? なんか都合がいいような」と、メニューから目をあげ、彼は言った。
「ぼくは、裕紀さんを覚えています」彼は、横を振り向き店員を呼んだ。「これと、これで、いいですかね」とぼくらに確認し、それを店員にも言った。メニューは取り上げられ、その代わりに飲み物が運ばれてきた。皆、飲み物を口にして、高井君の次の言葉を待った。だが、なかなか口にしなかった。
「裕紀を覚えている?」
「ぼくらは裕紀さんを覚えています。近藤さんを応援している素敵な女性がいることを、ぼくらは噂をしていました。多感なころですから。自分にも、そうした存在を必要としていたのかもしれません。なかなか、練習が厳しくて、余裕のないころでもありましたしね」
「それで?」裕紀は次の言葉が待ちきれないようで、促した。
「ある日、いなくなってました。裕紀さんは。ぼくらは噂をしたけど、いつの間にか忘れてしまった。だが、今日、近藤さんと一緒にいる所を見て、自分の記憶が間違っていたのか不安になってしまった」
「留学してたのよ」
「急に?」
「急に、ね」と、裕紀はぼくの方を見つめた。それは非難ではなく許しの目であった。ぼくは話の転換をはかる。
「で、高井君にもそういう存在はできた?」
「できたり、いなくなったり。そして、いまもいないです」
「あの子を紹介すれば」裕紀は、そこで口を挟んだ。ぼくにもその検討はついた。
「誰ですか?」
「ああ、あのね。ぼくの先輩に上田さんがいて、彼もラグビーをしていたんだけど、そこの会社の若い女性と知り合いになって、誰かを紹介することを約束させられたんだ。別れたばかりだからデリケートな部分もあるかもしれないし、ぼくの知り合いの範疇にも、これっていう人間が見当たらないので、約束が延び延びになっている」
「どんな人です?」
「可愛いけど、しっかりしているような素敵な子」と、裕紀がその後も容姿の特徴なども語った。ぼくは、それを聞きながら笠原さんのイメージを立体化していった。
「ぼくのことをよく知らないのに?」
「ひろし君は地元でラグビーをしていた子に甘い点数をつけるからね」と、裕紀は言った。ぼくは、そのまま頷いた。料理が運ばれてきて、湯気がたった皿を見ながら、ぼくはあるふたりの人生の運命をあやつる立場にいることを象徴的に感じていた。
ぼくは、家やマンションを売り、土地を誰かに貸し、生計を立てていた。枠があれば、そのなかには細かいデティールで美しく表現する部分もある。マンションの一室をきれいにするために家具があり、インテリアを職業とするひともいる。ぼくらは自分の身体の一部のように、それらのひとびとを必要とし、仕事上で関わった。
「今度、展示会があるので来てくださいよ」と、家具屋さんが招待状をくれた。
日曜の午後、ぼくはそれを手にして裕紀と歩いている。ぼくらはふたりで世界を構成するのに慣れ過ぎてしまったようだ。別の生物がぼくらの生活にいることが考えられなくなってしまっている。裕紀はそれに対して不服でもあるようだったが。
たくさんの家具が陳列されている中を歩く。ときには素材を眺め、手に触れ、引き出しを開けたりした。その前で屈み、ソファに座ったりもした。ぼくらの家は会社が家具も揃えてくれていたので、大きなものは買えなかったが、手頃な小さなものを置くことは、生活をする上で段々と必要になってきた。ものは増え、行き場所を望んでいた。そうした行動にこころを奪われていたときのことだ。
「近藤さんですよね? 高井です」と声をかけられた。しっかりとした顔立ちのぼくよりいくらか若いであろうことが、きびきびとした身体の動きからも分かった。「あ、覚えていない? ひどいな」とつづけた。
「仕事で会いましたっけ?」
「いや、ぼくもあの県でラグビーをしていました。山下と同期です。彼、辞めちゃいましたね」
「そうすると、あっちの学校?」
「そうです。島本さんの後輩です。あの、女たらしの」と、悪意もない表情で微笑みながら彼は言った。「これ。よろしくお願いします」と言って彼は名刺を渡した。ぼくは、それを受け取る。
「ぼく、持ってないけど」
「あとで、会社のものに訊きます。なんか、いいのございました?」と、彼は会社員の顔に戻って言った。「暇があったら、早く終わるのでどこかで食事でも」
「どう?」ぼくは、裕紀に訊く。
「別に、大丈夫だよ」と、彼女は答えた。ぼくは、ラグビーを同時代にしていたというだけで彼に好印象をもつ。ぼくは過去を振り返り、自分とライバルチームの間で、どう競争が行われ、どうシビアな考えが浸透していったのか知りたく思った。
ぼくらは家具を見るのにも疲れ、都会の中の公園のなかを歩いたり、ベンチに座って小鳥たちの振る舞いを見たりした。
「女たらし、って久々にきいた」と、裕紀は鳥を見ながら笑って言った。ぼくは、素直には笑えなかった。その妻になったひとのことを考えざるをえなかった。
「そういう一面もあったんだろう」
「かばいたい?」
「10代の運動選手のヒーローであった彼を、あまり、悪く考えたくもない。誰だってちやほやされたら、ああなる可能性をみんな持ってるんだろう」
「ひろし君も?」
「ぼくは、そんなにちやほやされなかったし、一途になる面もあった」
「そう?」
「主観の問題だからね」
待ち合わせの時間が迫り、ぼくらはそこを出た。はしゃぐ子どもや、帰りたくないと言って泣き叫ぶ子どももいた。「じゃあ、ずっとここに居なさい」と母に突き放されると途端に泣き止んだ。現金なものだ。
「遅れまして」と、好青年が足早にやって来た。そのフットワークの軽さから、ぼくの過去の記憶が取り戻される。あの走りと、彼がどこのポジションであったかが思い出された。
ぼくらは、ある店に入り、そのことをぼくは告げる。
「本当ですか? なんか都合がいいような」と、メニューから目をあげ、彼は言った。
「ぼくは、裕紀さんを覚えています」彼は、横を振り向き店員を呼んだ。「これと、これで、いいですかね」とぼくらに確認し、それを店員にも言った。メニューは取り上げられ、その代わりに飲み物が運ばれてきた。皆、飲み物を口にして、高井君の次の言葉を待った。だが、なかなか口にしなかった。
「裕紀を覚えている?」
「ぼくらは裕紀さんを覚えています。近藤さんを応援している素敵な女性がいることを、ぼくらは噂をしていました。多感なころですから。自分にも、そうした存在を必要としていたのかもしれません。なかなか、練習が厳しくて、余裕のないころでもありましたしね」
「それで?」裕紀は次の言葉が待ちきれないようで、促した。
「ある日、いなくなってました。裕紀さんは。ぼくらは噂をしたけど、いつの間にか忘れてしまった。だが、今日、近藤さんと一緒にいる所を見て、自分の記憶が間違っていたのか不安になってしまった」
「留学してたのよ」
「急に?」
「急に、ね」と、裕紀はぼくの方を見つめた。それは非難ではなく許しの目であった。ぼくは話の転換をはかる。
「で、高井君にもそういう存在はできた?」
「できたり、いなくなったり。そして、いまもいないです」
「あの子を紹介すれば」裕紀は、そこで口を挟んだ。ぼくにもその検討はついた。
「誰ですか?」
「ああ、あのね。ぼくの先輩に上田さんがいて、彼もラグビーをしていたんだけど、そこの会社の若い女性と知り合いになって、誰かを紹介することを約束させられたんだ。別れたばかりだからデリケートな部分もあるかもしれないし、ぼくの知り合いの範疇にも、これっていう人間が見当たらないので、約束が延び延びになっている」
「どんな人です?」
「可愛いけど、しっかりしているような素敵な子」と、裕紀がその後も容姿の特徴なども語った。ぼくは、それを聞きながら笠原さんのイメージを立体化していった。
「ぼくのことをよく知らないのに?」
「ひろし君は地元でラグビーをしていた子に甘い点数をつけるからね」と、裕紀は言った。ぼくは、そのまま頷いた。料理が運ばれてきて、湯気がたった皿を見ながら、ぼくはあるふたりの人生の運命をあやつる立場にいることを象徴的に感じていた。