償いの書(51)
ぼくの若いときを知っている友人たちは、東京には少なくなってきてしまった。裕紀は、ぼくの10代のことを知っているが、ある期間は空白だった。ぼくは懐かしさをこめ、上田さんや妻になった智美と会った。彼らも東京での暮らしの土台ができてしまい、もうあちらには帰りそうもなかった。ある面では、ぼくらと似ていたが、ぼくはいつかまた連れ戻される予感もあった。
だが、センチメンタルだけではぼくらの関係性は永続しないだろう。ぼくらは、それぞれの生活で仕入れた情報を取り込み、それがぼくらの一部となって構成されていく。
上田さんも仕事上でそれなりの役割を担っていた。彼はそもそもリーダーシップを取る才覚をもっていた。グイグイと引っ張るような性分でもないが、後輩たちの感情を汲み取ることに長けていた。ぼくも、ラグビー部時代にその恩恵にあずかった。
彼らにも子どもはいなかった。その存在を望んでいたのかは分からないが、少なくとも裕紀は望んでいた。ぼくは、それに気付かない振りをしたままだった。
休日に4人で会えば、寛いだ雰囲気のなか、直ぐに昔に戻った。
「山下、辞めちゃったな」と感慨深げに上田さんは言った。「あいつが入ってくるような学校になったことに驚いたけど」
「そうですね。ぼくらは、そんなに恵まれたメンバーを集められなかった」
「そういえば、ちょっと前に島本さんに会ったよね」と、裕紀は、突然、その話題を挟み込んだ。
「そう、変わってなかった?」と、智美も関心を示した。
「やっぱり、変わってた。でも、きれいなひとが隣にいて、ひろし君のお客さんになった」
「あれ、そこまで言ってたっけ?」自分の記憶の曖昧さと、ぼくは瞬時にたたかう。
「言ってたよ。新しい画廊を見つけるって」
「彼はきれいな女性にもてるんだな」と、上田さんが率直に言う。ぼくも、同感だった。それで、その言葉をつぶやく。そこで、どこかに不自然な空気がただよう。それを誰も静めもしないし、荒げもしなかった。ただ、それは海面上の油のように留まっているだけだった。
「でも、山下君が母校で教えているところ、ふたりとも見たいでしょう?」
「それは、もちろん。全国大会にでも出れば、テレビでも見られる」と、安易なことをぼくは言う。その難しさを知っているのは自分であり、また上田さんだった。だが、期待をもつことは誰も止められなかった。そして、話の方向が変わったことに安堵している。
「病気が出ていない?」と、あの日、雪代は単刀直入に言った。その通りだった。その後、トイレに行ったついでに、上田さんも同様のことを言った。
「島本さんと会ったんだ?」彼は髪の毛をいじりながら鏡の中を覗いている。
「ええ。あのひとと、どっかでつながっているんですかね。ずっと、縁を切りたいと思い続けてるんですけど」
「そうだろうな。裕紀ちゃんを悲しませたら駄目だよ。まあ、しないだろうとは思うけど」
「いろいろと、懲りてます」しかし、懲りてはいなかった。本当の意味で永続性のなんたるかを知らなかった。その努力の継続を、ある面では自分は無視し、それゆえに大切さも忘れることはできないのだが。
お会計を済ませ、女性ふたりは洋服を見に行くと言った。ぼくらにとってそれは都合が良く、ぼくらは上田さんの会社が主催している写真展に行った。彼は受付で挨拶を済ませ、ぼくもそこを素通りした。ぼくが知っている写真はビルをきれいに写し、部屋の内部を広々と見せる工夫をした写真だった。だが、そこには別の意味での洗練された写真があった。
「ラグビー時代の後輩」と、ぼくのことをある女性に紹介した。彼女は、上田さんの会社のひとだった。普段、会えば名刺の交換でもするのだろうが、ぼくは、それをただ一方的に受け取った。「妻がいるけど、女性に手が早い」
「冗談です」ぼくは、自分の評判を自分で訂正しなければならなかった。そして、彼女は不意を突かれた表情のあと、直ぐに笑った。それで、その上田さんの言葉は冗談になった。上田さんはそこを出てから、智美に電話をすると、彼女らはまだ買い物に熱中しているらしく、電話に出なかった。それで、ぼくらはその後輩を交えて、三人でお茶の時間にすることにした。彼女は休みを返上して、そこに常駐しているらしく、上田さんはそれを気遣っているらしい。
成り行き上、「どんな仕事を?」と、ぼくに訊いた。笠原と名刺に書かれていたその女性の声は、適度に粘着的であり、その声が耳にのこった。
「ビルの建築や、不動産なんかを扱ってます。もし、ご要望があれば、上田さんに言ってください」
「近藤は、ラグビーボールを掴んだら、そのまま離さないで駆け込んでいく。人間に対しても、そうなんだ」
彼女は、また笑う。
「評判を落とすようなこと、やめてくださいよ」ぼくも、笑いながら言った。
「でも、本当だろう?」
「でも、本当です」粘りのある声で笠原さんと上田さんは仕事の話をつづけた。ぼくは、窓の外を見る。ぼくにそういう気軽な言葉を言う人間が減ってきてしまった淋しさを、そこで感じていた。
ぼくの若いときを知っている友人たちは、東京には少なくなってきてしまった。裕紀は、ぼくの10代のことを知っているが、ある期間は空白だった。ぼくは懐かしさをこめ、上田さんや妻になった智美と会った。彼らも東京での暮らしの土台ができてしまい、もうあちらには帰りそうもなかった。ある面では、ぼくらと似ていたが、ぼくはいつかまた連れ戻される予感もあった。
だが、センチメンタルだけではぼくらの関係性は永続しないだろう。ぼくらは、それぞれの生活で仕入れた情報を取り込み、それがぼくらの一部となって構成されていく。
上田さんも仕事上でそれなりの役割を担っていた。彼はそもそもリーダーシップを取る才覚をもっていた。グイグイと引っ張るような性分でもないが、後輩たちの感情を汲み取ることに長けていた。ぼくも、ラグビー部時代にその恩恵にあずかった。
彼らにも子どもはいなかった。その存在を望んでいたのかは分からないが、少なくとも裕紀は望んでいた。ぼくは、それに気付かない振りをしたままだった。
休日に4人で会えば、寛いだ雰囲気のなか、直ぐに昔に戻った。
「山下、辞めちゃったな」と感慨深げに上田さんは言った。「あいつが入ってくるような学校になったことに驚いたけど」
「そうですね。ぼくらは、そんなに恵まれたメンバーを集められなかった」
「そういえば、ちょっと前に島本さんに会ったよね」と、裕紀は、突然、その話題を挟み込んだ。
「そう、変わってなかった?」と、智美も関心を示した。
「やっぱり、変わってた。でも、きれいなひとが隣にいて、ひろし君のお客さんになった」
「あれ、そこまで言ってたっけ?」自分の記憶の曖昧さと、ぼくは瞬時にたたかう。
「言ってたよ。新しい画廊を見つけるって」
「彼はきれいな女性にもてるんだな」と、上田さんが率直に言う。ぼくも、同感だった。それで、その言葉をつぶやく。そこで、どこかに不自然な空気がただよう。それを誰も静めもしないし、荒げもしなかった。ただ、それは海面上の油のように留まっているだけだった。
「でも、山下君が母校で教えているところ、ふたりとも見たいでしょう?」
「それは、もちろん。全国大会にでも出れば、テレビでも見られる」と、安易なことをぼくは言う。その難しさを知っているのは自分であり、また上田さんだった。だが、期待をもつことは誰も止められなかった。そして、話の方向が変わったことに安堵している。
「病気が出ていない?」と、あの日、雪代は単刀直入に言った。その通りだった。その後、トイレに行ったついでに、上田さんも同様のことを言った。
「島本さんと会ったんだ?」彼は髪の毛をいじりながら鏡の中を覗いている。
「ええ。あのひとと、どっかでつながっているんですかね。ずっと、縁を切りたいと思い続けてるんですけど」
「そうだろうな。裕紀ちゃんを悲しませたら駄目だよ。まあ、しないだろうとは思うけど」
「いろいろと、懲りてます」しかし、懲りてはいなかった。本当の意味で永続性のなんたるかを知らなかった。その努力の継続を、ある面では自分は無視し、それゆえに大切さも忘れることはできないのだが。
お会計を済ませ、女性ふたりは洋服を見に行くと言った。ぼくらにとってそれは都合が良く、ぼくらは上田さんの会社が主催している写真展に行った。彼は受付で挨拶を済ませ、ぼくもそこを素通りした。ぼくが知っている写真はビルをきれいに写し、部屋の内部を広々と見せる工夫をした写真だった。だが、そこには別の意味での洗練された写真があった。
「ラグビー時代の後輩」と、ぼくのことをある女性に紹介した。彼女は、上田さんの会社のひとだった。普段、会えば名刺の交換でもするのだろうが、ぼくは、それをただ一方的に受け取った。「妻がいるけど、女性に手が早い」
「冗談です」ぼくは、自分の評判を自分で訂正しなければならなかった。そして、彼女は不意を突かれた表情のあと、直ぐに笑った。それで、その上田さんの言葉は冗談になった。上田さんはそこを出てから、智美に電話をすると、彼女らはまだ買い物に熱中しているらしく、電話に出なかった。それで、ぼくらはその後輩を交えて、三人でお茶の時間にすることにした。彼女は休みを返上して、そこに常駐しているらしく、上田さんはそれを気遣っているらしい。
成り行き上、「どんな仕事を?」と、ぼくに訊いた。笠原と名刺に書かれていたその女性の声は、適度に粘着的であり、その声が耳にのこった。
「ビルの建築や、不動産なんかを扱ってます。もし、ご要望があれば、上田さんに言ってください」
「近藤は、ラグビーボールを掴んだら、そのまま離さないで駆け込んでいく。人間に対しても、そうなんだ」
彼女は、また笑う。
「評判を落とすようなこと、やめてくださいよ」ぼくも、笑いながら言った。
「でも、本当だろう?」
「でも、本当です」粘りのある声で笠原さんと上田さんは仕事の話をつづけた。ぼくは、窓の外を見る。ぼくにそういう気軽な言葉を言う人間が減ってきてしまった淋しさを、そこで感じていた。