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償いの書(50)

2011年05月03日 | 償いの書
償いの書(50)

 ついに、その日が訪れた。後輩の山下、いまはラグビー選手であり、なおかつ妹の夫である彼から電話があり、会いたいので時間が欲しいと言われた。もう、ぼくは、そこで話される内容の大体の予測が付いていたのかもしれない。
 待ち合わせ場所に彼はひとりでいた。大柄の彼が少し小さく見えた。久し振りの男同士なので、ふたりでぼくの馴染みになっていた居酒屋に入った。

「すいません、時間をとってもらって」
「なに、言ってんだよ。お前とオレの仲だし」
 ぼくらは、ビールを飲み、食事を進める。酔いが仲立ちとなって、昔の間柄に戻る。もしかしたら、酔いが手伝わなかったら、昔の関係に戻れなかったのかもしれないという事実にも驚いている。ぼくらは、なにもないところから、たくさんの余分の関係性でなにかを防御してしまっていたのだろうか。
「オレ、そろそろ辞めようと思いまして」
「相談、それとも、結果報告?」
「え? ああ、まあ、結果報告です」

「アマチュアでキャプテンだったとしても、プロの山下に何も言うことできる訳ないじゃん。他のひとは、どうだったかしらないけど」

「しかし、今後の生活で美紀にも心配かけるし」
「それを覚悟で結婚したんだろう。それで、なんか見通しは?」
「高校のラグビーのコーチの打診がありまして」
「どこの?」
「母校のです」

 ぼくは、そのことを頭の中でイメージし、その映像を作り上げる。彼は、ぼくと会ったのが15歳ぐらいだ。ぼくの1年後輩の優秀な選手がぼくらの学校に来たのに驚いている。普通の選択ならば、もうひとつの強いチームに入るのが妥当なものだった。だが、ぼくらの頑張りもあり、そして彼の揺るぎない才能があって、その地の少年の未来の地図が変わった。ぼくらの学校は勉学にも重きを置いていたが、最終的にはラグビーをするなら、ぼくらの学校に入るという図式ができあがった。それも、山下の頑張りに多くを負っていた。

「恵まれているような気がするな。それで、向こうに戻るの?」彼は大学に在学中に教員の免許を取っていた。それで、科目を教えながらも、放課後はラグビーの伝達に励むのだろう。
「ええ、オレも近藤さんがラグビーを辞めるのを止められませんでした」
「もう、何年も前の話だし、かえって、幸せな人生も送れたよ」
「なら、いいんですけど、オレも、そうなりますかね?」
「なるだろう。そうすればいいよ」

「じゃあ、見守ってください」と言って、彼は笑った。彼が指導者として、どのような能力を発揮するのか、ぼくは、今後、そのような愉快な状態も得られるのだと思うと、心底、嬉しかった。
 その日は、その店を出てそれぞれの方向に帰った。ぼくは、家で裕紀にそのことを訊かれる。
「どうだった? 何の話だったの?」
「ラグビーを辞めるって」

「残念ね。それで、そのまま会社員として残るの?」
「ラグビーを忘れられないんだろう。母校の先生になって、教えるって」
「じゃあ、あの街に戻るんだ」
「そうみたいだよ」

 何週間が経って、それは一層の現実味を帯びてくる。彼は社会人だったので会社を辞め、どういう経緯なのかしらないが何らかの手続きを踏み、自分の育った土地に戻ることになった。ぼくは、家を引き払う彼のために裕紀と出掛けた。

 ぼくは、感慨を抱いている。自分はおよそ5年ぐらい前に、東京にやってきた。ひとりでの生活だと思っていたが、思いがけなく裕紀がそこにいた。その彼女といっしょに別の人間を見送ることになるだろうとは、あの当時は思っても見なかった。そこにいる小さな甥っ子は、ただ今の状況が嬉しいらしく、はしゃいでいた。

「もう、なかなか会えなくなってしまうね」と、その子に寄り添うようにして裕紀は言っている。
「あっちに来ればいいじゃん」
「そうするね」と、裕紀は言った。そして、彼の手をきつく握り締めていた。

 ぼくはトラックに荷物を積み込み、その戸は閉じられた。最後に近くで食事をすることになる。妹がそばにいれば両親も安心するだろうと思っている。自分は、東京での生活を仮初めのものとしていたが、こちらでの生活が本格的なものになってしまった。仕事の土台もこちらならば、裕紀との生活もここを主体に考えている。
「近藤さんも、仕事ではたまに戻ってくるんですよね?」
「本当に重要な会議とか、あるときにはね」
「そのときには学校に寄ってくださいよ」

「過去の英雄として、駆けつけるよ」ぼくは、それも悪くないイメージとして持つ。となりで裕紀はぼくらがほんの少年のころを思い出しているようだった。山下は裕紀をいつも賛嘆し、ぼくが雪代と付き合ったことを嫌った。妹も最初はそうだった。だが、ぼくの世界から追放された裕紀は、いつのまにかぼくの掛け替えのないものになり、裕紀の世界にぼくは足を踏み込んでいたのだ。

 彼の家の前に戻り、先にトラックが道路に出た。続いて、山下の乗る乗用車が引っ張られるように、ウィンカーを動かす。甥っ子は手を振り、裕紀もそれに同調するように大きく手を振った。
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