『ロッキー4/炎の友情』(85)(1986.6.13.)
宿敵から親友となったアポロ(カール・ウェザース)を、リング上で絶命させたソ連のドラゴ(ドルフ・ラングレン)に挑戦するため、ロッキー(シルベスター・スタローン)はモスクワに乗り込む。
最初の『ロッキー』(76)が作られてから、かれこれ10年近い月日がたったが、この映画を見て「ロッキーは随分と遠いところへ行ってしまったなあ」という気がした。10年前にロッキー=スタローンが復活させた「成せば成る。やったらやれる」という、アメリカンドリームの輝きはここにはない。
自分の中では『ロッキー』は第1作で完結している。スタローンにしても始めはそのつもりだったはずである。なぜならロッキーは15ラウンドを戦い抜くことで、人生の価値や伴侶といった、チャンピオンになること以上に素晴らしいものを手に入れたのだから。それ故、勝負の結果などどうでもよかったのである。
そのロッキーが再び王者アポロに挑戦し、チャンピオンになるという『2』はまだ許せるにしても、『3』、そしてこの『4』までくると、最初の感動は色あせ、単なる見世物としての空しさを感じるようになる。
加えて、この映画では米ソ関係、強いアメリカの復活といった、政治問題を強く反映させており、人間ドラマは二の次といった感じがする。レーガン大統領が手を貸したなどといううわさも、あながち外れてはいないのかも、と思わされるほどだ。そして、これだけ政治色の強い映画が大ヒットしているのは、これひとえに、ロッキー(米)対ドラゴ(ソ)が繰り広げるボクシングシーンに魅力があるからなのだ。映画がプロパガンダに利用されることは珍しくはないが、最初のロッキーの精神に酔わされた者にとっては残念な気がしてならない。
と、これだけ否定的な見方をしながらも、この映画を見てしまったのは、ロッキーというキャラクターに対する思い入れの強さ故、見捨て切れなかったところがあるからだ。だからスタローンよ、くれぐれも『5』など作らぬように。これ以上ロッキーを醜くしないでくれ、と願うばかりである。
宿敵から親友となったアポロ(カール・ウェザース)を、リング上で絶命させたソ連のドラゴ(ドルフ・ラングレン)に挑戦するため、ロッキー(シルベスター・スタローン)はモスクワに乗り込む。
最初の『ロッキー』(76)が作られてから、かれこれ10年近い月日がたったが、この映画を見て「ロッキーは随分と遠いところへ行ってしまったなあ」という気がした。10年前にロッキー=スタローンが復活させた「成せば成る。やったらやれる」という、アメリカンドリームの輝きはここにはない。
自分の中では『ロッキー』は第1作で完結している。スタローンにしても始めはそのつもりだったはずである。なぜならロッキーは15ラウンドを戦い抜くことで、人生の価値や伴侶といった、チャンピオンになること以上に素晴らしいものを手に入れたのだから。それ故、勝負の結果などどうでもよかったのである。
そのロッキーが再び王者アポロに挑戦し、チャンピオンになるという『2』はまだ許せるにしても、『3』、そしてこの『4』までくると、最初の感動は色あせ、単なる見世物としての空しさを感じるようになる。
加えて、この映画では米ソ関係、強いアメリカの復活といった、政治問題を強く反映させており、人間ドラマは二の次といった感じがする。レーガン大統領が手を貸したなどといううわさも、あながち外れてはいないのかも、と思わされるほどだ。そして、これだけ政治色の強い映画が大ヒットしているのは、これひとえに、ロッキー(米)対ドラゴ(ソ)が繰り広げるボクシングシーンに魅力があるからなのだ。映画がプロパガンダに利用されることは珍しくはないが、最初のロッキーの精神に酔わされた者にとっては残念な気がしてならない。
と、これだけ否定的な見方をしながらも、この映画を見てしまったのは、ロッキーというキャラクターに対する思い入れの強さ故、見捨て切れなかったところがあるからだ。だからスタローンよ、くれぐれも『5』など作らぬように。これ以上ロッキーを醜くしないでくれ、と願うばかりである。