『戦場のメリークリスマス』(83)(1983.6.8.渋谷パンテオン)
自分にとって、この映画の勘所は、坂本龍一の音楽とラストのハラ軍曹の姿にあったといっても過言ではない。そもそも大島渚の映画で胸がいっぱいになるとは思ってもいなかっただけに、余計、あのたけしの何ともいえない泣き笑いの表情と「メリー・クリスマス・ミスター・ロレンス」の一言が心に残ったのだろう。
この映画の核は、セリアス(デビッド・ボウイ)とヨノイ(坂本龍一)、ロレンス(トム・コンティ)とハラ(ビートたけし)という二組の関係を交差させながら描いているところだが、それぞれの過去があまり深く描かれていないため、なぜ彼らが、戦時下であのようにしか生きられなかったのかという点では、いささか説明不足の感がしないでもない。唯一セリアスの少年時代の回想シーンが長過ぎて、バランスの悪さを感じさせられた。
また、東洋と西洋、善と悪、愛と憎しみといった対立を、日本軍とイギリス軍の捕虜に仮託して描くという手法は、デビッド・リーンが『戦場にかける橋』(57)ですでにやっているので、どう描くのかと思っていたら、大島渚流に、ボウイと坂本から同性愛的なものを引っ張り出して、従来の捕虜収容所ものとは全く違った味を出していた。
だが、自分としては、むしろロレンスとハラの関係の方に魅力を感じた。彼らの、対立を繰り返しながら、互いを認め始め、やがては人種を超えた信頼関係に至るという関係は、例えば『夜の大捜査線』(67)のシドニー・ポワチエとロッド・スタイガーの姿をほうふつとさせるのだが、この映画の場合は、両者の間に戦争という厚い壁が存在し、分かりあえた時には別れが待っているという悲劇につながっていく。しかも、日本軍とイギリス軍の捕虜という立場が、勝戦国となったイギリス軍の将校と敗戦国の戦犯に逆転しているのだ。
ハラという人物は、一人の庶民に戻った時は決して悪人ではないはずなのに、戦争が彼に残虐行為を行わせ、それがために裁かれ、死を与えられる。ロレンスはそんなハラの立場を分かっていながらどうすることもできない。そんな絶望の中で最後にハラが吐く「メリー・クリスマス・ミスター・ロレンス」の一言は、日本の一庶民のあきらめとも悔しさともつかぬ響きを持って胸に迫ってきた。
そして、たけしの何ともいえない泣き笑いの表情のストップモーションにテーマ音楽が見事に重なる。全体的には決してバランスのいい映画ではないが、このラストシーンで全てが帳消しになる。