『續姿三四郎』(45)(1991.11.8.)
自分にとっての黒澤明作品で、『一番美しく』(44)とともに未見だったこの映画を、やっとビデオで見ることができたのだが、残念ながら、随分と我慢しながら見たという印象が残った。つまり、ほかのどの黒澤映画と比べても、全く不出来であったというのが偽らざる心境だった。
まあ、黒澤にとっては、もともと気乗りがしない企画だったらしいし、先日見た稲垣浩監督の『江戸最後の日』(41)同様の、フィルムの悪さ、録音のひどさ、という戦時下故のマイナスを背負った不幸な映画という言い方もできるだろう。
また、今や完璧主義の巨匠監督としてのイメージしか浮かばない黒澤の、若き日の模索の姿が浮かんできて、どこかほほ笑ましく感じるところもある。
と、ここまで書いてきて、ではこの映画には全く見るべきところもなかったのかと自問してみると、多少ニュアンスが変わるのが、腐っても黒澤というところ。
それは、お仕着せの企画を使って、若き日の黒澤がさまざまな実験や試しを行ったことが感じられるからだ。例えば、矢野正五郎(大河内傳次郎)の若い門弟たちを追うしつこいまでのモンタージュ、三四郎(藤田進)と小夜(轟夕起子)との別れの場面のカットの応酬、檜垣源三郎(河野秋武)の大げさなまでの能を意識した演技…。これらが、後のさまざまな作品で見事に応用されているのだから、したたかに実験を行っていたとも思えるのである。
そして、もう一つ、この映画を救っているのは三四郎役の藤田の愚直なまでの笑顔の良さにほかならない。後に三四郎を演じた俳優たち(竹脇無我、勝野洋…)が、みんなこの藤田的なイメージを負わされていたことにも改めて気付かされた。決して演技派の人ではなかったが、つくづく、いい俳優だったんだなあと思った。