田中雄二の「映画の王様」

映画のことなら何でも書く

『續姿三四郎』

2023-04-15 14:57:48 | 映画いろいろ

『續姿三四郎』(45)(1991.11.8.)

 自分にとっての黒澤明作品で、『一番美しく』(44)とともに未見だったこの映画を、やっとビデオで見ることができたのだが、残念ながら、随分と我慢しながら見たという印象が残った。つまり、ほかのどの黒澤映画と比べても、全く不出来であったというのが偽らざる心境だった。

 まあ、黒澤にとっては、もともと気乗りがしない企画だったらしいし、先日見た稲垣浩監督の『江戸最後の日』(41)同様の、フィルムの悪さ、録音のひどさ、という戦時下故のマイナスを背負った不幸な映画という言い方もできるだろう。

 また、今や完璧主義の巨匠監督としてのイメージしか浮かばない黒澤の、若き日の模索の姿が浮かんできて、どこかほほ笑ましく感じるところもある。

 と、ここまで書いてきて、ではこの映画には全く見るべきところもなかったのかと自問してみると、多少ニュアンスが変わるのが、腐っても黒澤というところ。

 それは、お仕着せの企画を使って、若き日の黒澤がさまざまな実験や試しを行ったことが感じられるからだ。例えば、矢野正五郎(大河内傳次郎)の若い門弟たちを追うしつこいまでのモンタージュ、三四郎(藤田進)と小夜(轟夕起子)との別れの場面のカットの応酬、檜垣源三郎(河野秋武)の大げさなまでの能を意識した演技…。これらが、後のさまざまな作品で見事に応用されているのだから、したたかに実験を行っていたとも思えるのである。

 そして、もう一つ、この映画を救っているのは三四郎役の藤田の愚直なまでの笑顔の良さにほかならない。後に三四郎を演じた俳優たち(竹脇無我、勝野洋…)が、みんなこの藤田的なイメージを負わされていたことにも改めて気付かされた。決して演技派の人ではなかったが、つくづく、いい俳優だったんだなあと思った。

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『虎の尾を踏む男達』

2023-04-15 13:24:19 | 映画いろいろ

『虎の尾を踏む男達』(45)(1982.11.23.)

 この映画は、歌舞伎の「勧進帳」と能の「安宅」が基になっているという。それ故か、古色蒼然とした印象を受けるのは否めないし、弁慶役の大河内傳次郎のセリフなどは、録音状態の悪さやフィルムの古さを差し引いたとしても、かなり分かりづらい(まあ、彼独特のセリフ回しの難解さは毎度のことであり、それが彼の個性にもなっているのだが…)。

 それに、歌舞伎や能についての知識があるかないかで、この映画についての感慨は全く違うものになるだろうという気もする。というわけで、終戦間際に、限られたセットで、よくこれだけのものを撮ったなあと思う半面、やはり古い映画だと思わずにはいられなかった。

 ところが、たった一人の俳優の存在が、この映画を忘れ難いものにした。その名はエノケンこと榎本健一。この映画における彼の役は、黒澤明による創作だという。

 だとすれば、例え「勧進帳」や「安宅」を知らずとも、エノケンを見ていればいい。言い換えるなら、彼は「勧進帳」や「安宅」を知らない自分のような者の分身なのである。だから、彼をガイドとして、未知の「勧進帳」の弁慶や義経(岩井半四郎)や富樫(藤田進)に接することができるのだ。

 そして、弁慶の大河内がいくら力演してもあまりピンとこないのに、エノケンが演じた強力の大げさとも思える演技には、大いに笑わされ、感情移入をすることができた。この点は、この役を創作した黒澤と、それを見事に演じたエノケンの功績だろう。

 あのチャップリンも顔負けの見事な動き、思わず笑わされてしまう表情やセリフ回し…。「勧進帳」も「安宅」も見たことがない自分にとって、この映画=エノケンといっても過言ではない。黒澤とエノケンが、一時歌舞伎や能を身近で面白いものとして感じさせてくれたのだ。

【今の一言】今は、この映画の強力=エノケンは、狂言の役割を果たしていたのだと思う。そしてこれが、やはり能を強く意識した『乱』(84)でピーターが演じた狂阿弥に通じるのだろう。

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ETV特集 黒澤明が描いた『能の美』

2023-04-15 10:09:31 | 映画いろいろ

 黒澤明監督が、撮影を始めたものの未完に終わったドキュメンタリー映画『能の美』(83)のフィルムが残されていた。日本の伝統芸能「能」の神髄を伝えようとしたものだ。黒澤は『續姿三四郎』(45)『虎の尾を踏む男達』(45)『蜘蛛巣城』(57)『乱』(85)など、能を取り入れた作品を数多く撮ってきた。「能の美」を入り口に、俳優や関係者の証言から黒澤映画の秘密を解き明かすというもの。なかなか興味深いドキュメンタリーだった。

https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/J62WVLY7Z4/


『蜘蛛巣城』
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/81a09e31895979e6bc445d0224ea335d

『乱』
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/9d0a0c37c38bf8d3929daa77454c3293


「観世能楽堂」(2005.2.27.)

 妻がチケットをもらったので、渋谷松涛の「観世能楽堂」で能のライブを初体験。最初はどうせ寝るだろうと高をくくっていたのだが、風邪気味の上に寝不足で、おまけに初体験のオレを、3時間あまり一睡もさせなかったのだから、やはりそれ相応のパワーがあったということなのだろう。

 演目は、まず吉野の桜をめぐる能の「嵐山」、後半の伴奏(というのか?)の盛り上がりが良。続く狂言の「舟ふな」は一種の息抜きか。舞囃子「羽衣」も伴奏がいい。そしてラストは今はやりの? 義経ものの能「烏帽子折」。ラストの立ち回りは歌舞伎のルーツか。

 とまあ、こうして結構楽しんで見てしまうと、古典芸能などと変に祭り上げないで、歌舞伎も寄席も能も、もともとの娯楽としての肩ひじ張らない楽しみ方をしてもいいのではないかと思った。

 さて、こうして能舞台を見て思い浮かんだのは黒澤映画。特に『虎の尾を踏む男達』(45)『續姿三四郎』(45)『蜘蛛巣城』(57)『隠し砦の三悪人』(58)『影武者』(80)『乱』(85)などには、能の影響が見られる。そうすると、佐藤勝や武満徹、池辺晋一郎の音楽には、雅楽的な要素が織り込まれていたのかもしれないと感じた。

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