このお寺(勝山市)実は神社なのです。
明治元年、廃仏毀釈により神仏習合であったお寺が、別の場所に移され(現存する)
今は俗称「平泉寺」
と呼ばれていますが、正しくは「白山神社」なのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B3%89%E5%AF%BA%E7%99%BD%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE
創建は養老元年(717年)、古代から中世後期、白山信仰の拠点として一大勢力。
最盛期には、48社・36堂・6000坊院そして、寺領地9万石・9万貫であった、
この規模は現在の勝山市の3倍もの区域。
この中に3000もの僧兵がいて、比叡山の僧兵と戦いを続けていたものです。
1574年、この地に多かった一向宗の一揆に破れ、全山焼滅。
平成元年から発掘調査が続けられた結果、寺院境内は、東西1.2km・南北1.0km
もあり、その勢力と繁栄がうかがい知れます。
1300年も昔の話とはいえ、今のこの地とし想像もつかないものであったと思われるロマン。
今の境内も結構広いものですが、なんと言っても「自然の苔」の
広大さと美しさは、京都の苔寺の比ではありません。
一の鳥居を過ぎ、二の鳥居、そして拝殿、この拝殿には幕藩時代に刀とその藩士の名が書かれた奉納額が現在も有り我家のご先祖の名もありますが、
もう氏名も読み辛くなっています。その奥に本殿、またその奥に三の宮、
そして白山頂上への信仰道。
境内には、小さな祠が10社前後現存します。
社務所には、荘厳な建物と枯山水の庭園、大きな沙羅の木が毎年(7月)花を咲かせます。
一の鳥居までの参道の両端には10mを越える沙羅の木が並んでいるのも珍しいのでは。
ぜひ、参拝されることをお勧めします。
晩秋の今も、苔は綺麗です
明治元年、廃仏毀釈により神仏習合であったお寺が、別の場所に移され(現存する)
今は俗称「平泉寺」
と呼ばれていますが、正しくは「白山神社」なのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B3%89%E5%AF%BA%E7%99%BD%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE
創建は養老元年(717年)、古代から中世後期、白山信仰の拠点として一大勢力。
最盛期には、48社・36堂・6000坊院そして、寺領地9万石・9万貫であった、
この規模は現在の勝山市の3倍もの区域。
この中に3000もの僧兵がいて、比叡山の僧兵と戦いを続けていたものです。
1574年、この地に多かった一向宗の一揆に破れ、全山焼滅。
平成元年から発掘調査が続けられた結果、寺院境内は、東西1.2km・南北1.0km
もあり、その勢力と繁栄がうかがい知れます。
1300年も昔の話とはいえ、今のこの地とし想像もつかないものであったと思われるロマン。
今の境内も結構広いものですが、なんと言っても「自然の苔」の
広大さと美しさは、京都の苔寺の比ではありません。
一の鳥居を過ぎ、二の鳥居、そして拝殿、この拝殿には幕藩時代に刀とその藩士の名が書かれた奉納額が現在も有り我家のご先祖の名もありますが、
もう氏名も読み辛くなっています。その奥に本殿、またその奥に三の宮、
そして白山頂上への信仰道。
境内には、小さな祠が10社前後現存します。
社務所には、荘厳な建物と枯山水の庭園、大きな沙羅の木が毎年(7月)花を咲かせます。
一の鳥居までの参道の両端には10mを越える沙羅の木が並んでいるのも珍しいのでは。
ぜひ、参拝されることをお勧めします。
晩秋の今も、苔は綺麗です