午前6時、老師の撞かれる「梵鐘」と「般若心経の読経」。
今朝の参禅者はわずか5名。
鐘撞堂から戻られた師は「検単」。
禅堂内のすべての照明は消されましたが、寒さのためファン付きの石油ストーブが
炊かれたままと、ファンの音が異常に高い。
席につかれた老師から「座中のお話が始まった」。
スタートの小鐘3つはまだならない。
くしくも今月12月8日、お釈迦様が悟りを開かれた日「仏の成道日」です。
一見明星を見て悟られた…抽象的でありますが、
悟りを開かれたとは「何がどうなったのか」。
お釈迦様は何をお勧めになられたのか、
「端坐です」
すなわち「坐禅をして悟られた」ことから
「端坐(座禅をすること)」をお勧めになられました。
「足を組み、手を組み、姿勢を正し、背骨を伸ばし立てる、あごを引き、目を開け、口は閉じ、鼻から呼吸息を出し入れする」
具体的にはそのことを正確に行うことです、
しかしそれが悟りとは?どうした。
そうすることにより「座る前に意識していないことに気が付く」
ことがあるのです、それは「呼吸をすること」です、
無意識の中にも行われている動作「呼吸」、
坐禅はそのことに意識を置くのです、
すなわち「息するとは、生きていること」です。
この動作は、だれがどう指図しているのでしょう。
私たちが「生きるということ」は、感情が入り、損得、善悪、ああだこうだの
など、汚なく醜いものなのです。
「すなわち生きるということは醜いことにまみれることでもあります」。
そんな私が、今日も目が覚めて、生きている。
「そんな私を支えてくださっているのはどなたなのでしょうか」、
醜い私を支える力、それが「慈悲の心」です、
「呼吸することと慈悲の心を支えて」いることに気が付いていますか。
そのことをしっかり見つめなおして、私という個体を直視してみましょう。
それぞれにある個体の特性、
この宇宙世界で同じ空気を吸い、息しあっている。
このことを「体を使って感じとるのが座禅」です。
30年にになんなん、おしゃか様の修行と悟り、
修行の日。
「12月8日は成道日」にちなんで、
各自が座る意味を味わい、
御仏の慈悲について考えてほしい」と結ばれた。
各自その意味をかみしめ、かみ砕き、今しばらくの精進を続けて座ってください。
ここで「小鐘3つ、スタート」である。(もう30分間座っています)
しばしの無言時間、
この時、禅堂の外は少し白けてきて、朝の開けたことを感じました。
曇天ですっきり開けきれなかったかもしれません。
また12分後「小鐘1つ」、終わりです。
本日は「43分間の一炷(一ちゅう)」でした。
(坊守様のお茶と月餅の接待を受け、1・2月はお休み、
また年明けは3月からの再会を約しました。)