日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

広家の心 褒忠社

2012年05月10日 | しっちょる岩国
           

吉香神社(国指定の重要文化財)に参拝し神門を出ると右手に鳥居が見える。その奥、城山にその背を接するように建っている小さな社がある。そこは「褒忠社(ほうちゅうしゃ)」という。気をつけないと通りからは少し見えづらい。

褒忠社は「吉香神社の末社で、初代岩国藩主吉川広家は寺谷(紅葉谷)にある竜門寺境内に節臣廟(せつしんびょう)を建て吉川家の死節の臣をまつり回向所としていたが廃藩後これを神社に改めた」と説明されている。神前の石碑は節臣廰時代のもので、1865年に藩の参政・山田青門が選んだものとある。

吉川広家は秀吉の朝鮮出兵をはじめ多くの戦を毛利の家臣として戦い、次第に武家としての名声を積んだ。その広家はただ毛利家のことのみを思い関ヶ原の戦いで西軍(総大将は毛利輝元)の指揮を執りながらも、最後まで兵を動かなかったとされる。この戦いで西軍は敗れ、毛利氏は改易は免れたものの長門・周防の2カ国に大幅に減封された。輝元は東の守りとして広家に岩国3万石を与えた。

関ヶ原における采配が「毛利家の改易を救った英雄か、裏切りか」といわれる。毛利家としては後者にとらえ、冷たい処遇をとった。そうした中でも、幾多の戦で死節を尽くし戦った臣下の霊を弔うため設けた廟、それを身近に知ることで広家の大きな心を知ることが出来る。

吉香公園を訪ね、吉香神社を訪れる人は多いいが、この褒忠社の鳥居をくぐる人はあまり見かけない。ただ、そばに樹高20mを越えるのではと思えるムクロジの木がある。この木だけは絶え間なく広家の気持を汲んでいるかのように見守っている。晩秋には鮮やかな黄色に色づきその存在を示す。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする