新緑が美しくなると人の目は上を見上げ足元を見なくなる。その足元には新芽に追い落とされた古い木の葉が遠慮そうに道の端で重なり合っている。年々歳々相似たる自然の繰り返しに過ぎないといえばそうだが、人の世もこれに例える言葉があった。濡れ落ち葉、これを紹介したのは評論家・樋口恵子さんという。これは1989年の流行語大賞新語部門・表現賞を受賞した。
濡れ落ち葉を掃除する、掃き集めるときくっついててなかなか離れないことは経験している。そんなところから、定年退職後の夫がこれといった趣味もないので妻が出かけると「俺も付いて行く」とどこにでもついてくる様子を指すという。定年を待っていましたとばかり出かけることに転身した妻には我慢できない煩わしい、ことだろう。妻が出かけるようになる前の表現は「粗大ごみ」、男性にだけつけられたこららの表現、男女差別とのクレームはなかったのか。
道の端でたむろしているような落ち葉たち、ここに来るまでは幹を守る光合成や呼吸をつかさどる最先端の役を担い、次世代への橋渡しをした。次世代が芽吹くと代を譲りその勤めを終えて、たむろしている。仕事に追われそれに没頭し、地域行事にも参加しなかった猛烈人生の退職者に似ている。そうした姿に追い打ちをかけるのが「燃え尽き症候群」、意欲を無くし、社会的に機能しなくなってしまった人を指すという。そこに夫の責任は少ない。
今、城山はいろんな緑色がパッチワークのように織りなしている。それは針葉樹も広葉樹も、落葉樹も常緑樹もそれぞれのが標高300メートルで生きている証だ。吉川広家入国以来斧を入れぬため原始林化しており「自然休養林」に指定されている。城山の落ち葉は朽ちて自然に戻り再び山の養分となる。小さくても何かの養分となれるよう生きていこう。