
我が町はかっての城下町、戦への供えとして道幅は狭く、おまけに迷路のように路地がある。一方通行道のメイン道が工事中、他所の人は困ることもある。車が止まってある施設へ行きたいが、この道でいいかと聞かれた。通り抜けはできるが「離合が難しい」と別の行き方を教えた。礼を言い残して行かれたが「離合」が通じなかったことで、先日、読んだ記事を思い出した。
その記事とは、景勝地・鞆の浦のある福山市での話し。渋滞緩和のため鞆の浦に橋を架けるか掛けないかと地元を二分した論争は「架けない」ことでおさまった。この鞆町の幅の狭い県道に最近施された「離合可能」の路面表示に、一部の東国からの観光客が「書いてある意味が分からない」と首をかしげているという。日ごろなにも思わずに使っている言葉なので面白そうだと読んだ。
離合、「擦れ違いの意味で使うことはあるが公の言葉ではない」、自動車教習教本では「擦れ違いと教える」という説明は警察と教習所関係者、県道に標示した関係者は「対向車が来た場合、退避スペースがあり安全にすれ違うよう促す狙いで標記した」と話す。広辞苑では「離れたり集まったりすること」、三省堂国語辞典「すれちがうこと」と記事は引用している。面白い調査がある。離合を車のすれ違いと分かる人は九州・四国地方と山口と広島の両県では8割くらい、東へ行くほど低下している。
1960年代に九州は大分県で離合所として使われ始めた方言が元とみられ、九州から関西・関東への就職者で広まったのではと社会言語学の先生が説明する。鉄道の単線では列車の離合を「行き違い」と呼んでいた。なんともつれない表現という乗客の指摘で数年前から「待ち合わせ」と言い換えた、と記事は結ぶ。離合可能が方言と知って驚いたが、これはほんの一例かもしれない。