「自由」というもの自体が、不快を遠ざけ快を手に入れることを肯定するためのものなのだから、畢竟フェミニズムとは社会から弱者男性を疎外した状態をこそ理想とするのであって、弱者男性というもの自体が女性から見るとNIMBY案件に他ならず、生活保障以上のものを与えるわけには行かないのだろうな。 https://t.co/oO3Xns7oMt
— すずもと (@aruto250) 2018年1月10日
Twitter恒例、J-フェミと弱者男性論者との間に繰り広げられる尽きることのない性愛論争は、承認という人的資本をめぐる闘争に思えてなりません。
— 済州島みかん?? (@99mina_jeju) 2018年1月10日
現実問題、社会は全構成員に行き渡るほどの承認を調達することはできない。畢竟、私たちは限りある承認を奪い合うしかないのですね。 https://t.co/MHMhkmWGzE
とまあ、えらく卓見だと思ってメモしていたのだ。
さて今一歩進むと:
これを踏まえて考えると、宗教とは社会からは調達できない無際限の承認を獲得できる人類の発明なのではないかと思う。
— 済州島みかん?? (@99mina_jeju) 2018年1月10日
承認をもたらす主体が神であれ祖先霊であれ、超越的存在である限りは事実上無際限の承認を与えることができる。実体こそないが、実質的に実体と同等の価値がある仮想的承認。
とまあ。
さらに
さっき言った「徴兵制による弱者男性の救済」と言うのも似たようなものかもしれない。神様と同様の超越的存在である国民国家が「君は我々のために必要なヒーローだ、武器を取って戦って欲しい」と言う承認と身分と衣食住と、孤独から解放される戦友を与える訳だ
— たれぱんでぃずむ (@tarepandism) 2018年1月10日
とくると、先日学生が”マルチ商法って宗教なんですか?”という質問をしてきた事に対する説明も救われる。より賢い、よりよく目覚めた私とそうした事実を確認してくれる集団・仲間達。そうした資源が結構貴重な世界のなかで、ともかくそれらが低コストで手に入ると信じえたためにはまったわけだ―。
―そうした構造自体は宗教と似通うよね、という。
しかし、マルチ商法の類は、その人が確保できる金銭を上限にしているから、宗教より非効率的ではあるなあ。
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