空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

”正義”のひとたち:大分時代遅れの女権論と思う

2018-10-06 17:36:56 | ノート




 社会的な運動を意図する書き込みである。



 中の人が女性だからとか母だからとかは、しばしば提起されるが、それはそうした属性が「錦の御旗」として機能していることを理解したうえでの発言とも思われ、女性・母親たる属性の神格化、無答責…にさえ通じかねない。ここで弁護士 太田啓子氏にも同じ論点が帰ってくる。とある一女性の感覚を全女性の共通の意志の如く偽装して社会に自分の感覚に従うよう、自分の感覚を正義であると認めるよう迫る。なぜそれが可能かといえば、弁護士 太田啓子が女性であり、女性問題の専門家であり、女性問題に正しい見解を持っているからだ―と論理の糸が連なってゆくだろう。

 作成者が女性だろうが、中の人が女性だろうが、それはどうでも良いことなのである。その姿・しぐさが男性の欲望に応えるものとして構築されているのであれば、それはその中の人や作成者が男性の欲望に従っている、女性としての尊厳に無知、無感覚であるだけのことで、これは啓蒙されなければならない―というのが、なんというか、30~40年くらい前の女性解放の理論であったかと思われる。

 でまあ、この30~40年くらいで女性が女性の尊厳を自覚した女性ならではの女性的女性像を構築して提示して合意を得たかといえば、うんまあ、お察しください…と言う状況かと思われる。



 その提言は、先に挙げた理屈によって排除されることになる。男性の欲望に媚びたアイコン・フィギュアを使うこと自体が女性への抑圧であり、抑圧の継続であり、そうした象徴なのであり、これは政治的に正しい素晴らしいなにものかによって置き換えられなければならない、というのが基本のラインであるから。

 うんまあ、歴史上、そーゆー例はあるのであって、理性の祭典(日本語版Wikipedia)とか最高存在の祭典(日本語版Wikipedia)という試みもありましたよね、そういうのを参照しつつ運動の方向性を考えたりしたらいいんじゃないでしょうか、とか。



 ミライアカリにしないだけ見識あったんじゃねえ?とかいう突っ込みもありか。

関連:「キズナアイの性的要素の完全排除へむけて(2018-10-05)」



 そこらへんも含めて、すっげえ時代遅れの感覚・知識で先進的ぶるから若い世代に嗤われるのと違うかなあ。

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