まともに大学で教えてる人なら「まなざし村」なんていう言葉は使えるわけないっていうか、「まなざし」って「暴力装置」とかと同じで学術用語になってますからね。「暴力装置村」とかと同じだからね。
— saebou (@Cristoforou) 2018年10月17日
いっそのこと、学術用語として仕立て直してしまってはどうか。なにしろ、学術用語の作られ方の道として、日常用語から切り出していくという仕方があるわけだし。
…まあ、日本の場合、外国で練り上げられた概念をステキに高度な漢字熟語で翻訳することで抽象化し、特に高度な理論的進展を見るに至ったらしい事情があり、真に日常語から切り出していく経験は薄いかも、だが。
…こんな書き方をすると、私が主として影響を受けた社会学者さんの名前がばれるかもだが。まあ「いまさらそんな大過去の人間かよ」とか言われそうだが。
ともあれ、上のsaebou先生の言うように「「まなざし」って「暴力装置」とかと同じで学術用語になってますから」というわけで―
―そこから直に「「暴力装置村」とかと同じだからね」とやや説明不足ぎみに言ってしまえるくらい、「まなざし」、「見かた」、ある「視座」の設定自体にある権力・暴力(への意志)があること、まあ文系なら基礎教養であるわけである。
そんなわけで、”自分の視座の暴力性に気付かず、無意識におのれのまなざしが普遍的・不偏的なものと前提してある対象へ視線をむけ、個人的志向に基づいて断罪する傾向を持つ者(たち)”とでもすれば、「まなざし村」の定義をさしあたり仮定することができるのではないか。
求めるべきは、そうした「まなざし」の権力性を再チェックし、その暴力行使・実力行使がどの水準の正義にかなうか常に自己批判する厳しい思想的態度である。
たとえば
「不快だと思う人に配慮してください」って言う連中がたまらなく不快なんだけど配慮してくれんの?
— MtU🎀無職⚡️ (@MtU17830715) 2018年10月16日
これに対してどう応えるか、とか。思考実験するんだな。
例えば、例題:
関連:「プリキュアのパンツを性的だと思うのは、既にプリキュアのパンツを性的対象だと思っている精神だから(2018-10-17)」
「ゾーニング」というより、「オレさま公衆」理論による恐怖政治、という感じだと思う。しかして、このストーリーはオイラ的には説得的。「公衆」を背負った言説で他者を糾弾する者達に対する警戒心と対抗心をより強くした。朝っぱらから。 https://t.co/FJHvI61uWP
— 境 真良@GLOCOM&IPA(あーりん推し/芸能人スキャンダルネタ要らない) (@sakaima) 2018年10月17日
でまあ、それは「まなざし村」の住人とされた人々にも、そして同様にその人々を「まなざし村」の住人とした人々にも、同様に係るわけですよ。自分たちは正しいことを言っている、自分たちは多数派である、自分たちこそ次世代の多数派である、自分たちこそ…とより上位の正義を主張するんだ…。
どーもその点、「まなざし」や「配慮」の輩にはやや、この点の理解か恐怖かが薄いのじゃないかと疑う。むしろ、論点設定によって権力を揮うことへの快楽のほうに振れてやしないかと危惧する、のが私の立場。
「ポリコレ棒」と揶揄の言葉があったと記憶するが、それも同じこと。
現実の現在の世界が不満足な不完全なものであることは大前提。それをどうにか敲いて正していこうというのならともかく、叩くこと自体が目的になってやしないか、という危惧が表明されていると読むべきだ。
…いやまあ、倫理的に正しいことを主張しているとお考えの皆様には、正義に対する悪の反撃と見えるでしょうが、それはさておき。
―叩くこと自体が目的、というのは間違いですね。
そうではなく、正義の棒をふるって概念的な暴力をふるうことで、
肉体的暴力をふるっていないことで平和主義的であるという自己意識を満足させつつ他者を攻撃して攻撃衝動を満足させ、また
実際に労苦の多い現実的な運動にコミットしないことで・コミットを可能な限り減らすことでコストパフォーマンス良く暴力行使と支配の快楽を得る
といったところか。