これは首を賭けてもいい。
— 百田尚樹 (@hyakutanaoki) 2018年1月12日
もし、中国と日本が軍事衝突をすれば、朝日新聞は100パーセント、中国の肩を持つ。
朝日新聞は日本の敵だが、そんな売国新聞を支えている朝日の読者も日本の敵だ。
国内の分裂を誘うという点で、批判対象者と同じような罪を犯す不見識な発言と批判できようが
「朝日の読者も日本の敵だ」と作家の百田尚樹さんが発信していますが、特定の新聞の読者を敵視するような差別的な発言に強く抗議します。私たちはこれからも建設的で多様な言論を尊重し、読者とともにつくる新聞をめざします。 https://t.co/gPrAqMeM14
— 朝日新聞社 広報 (@asahi_koho) 2018年1月15日
―うんまあ、「差別『的』発言」ではあるかな。普段いうトコロの差別ではなさそうな感じもするが。
なにしろ、普段なしてはならぬ差別と言うのは、身分・階級・職業・人種・民族・文化・言語・地域・性・身体・病気、生まれながらにそうだったり不可避的にそうなったりするところの属性に関するものについて主にいうのであり(だから職業選択の自由で解放するわけだ―カースト的差別と分かちがたくあったために)、思想による差別はちょっと水準が違うだろう。
で。
差別は、個々の人間の思いから発してもいるが、それが制度的に保証されてしまうあたりに本質的な問題があるだろうところで、だからこそ有名作家のような権威が除外・拒否の思想をぶちかますのは非常に不見識というべきだろう。なにしろ、その支持者・著作の購入者があるわけで、ある一個人の思想的影響のもと行動する者たちの動きは、個々人には制度と見分けがつきにくいほど強大だから―制度のように可視的でないぶん、より怪物じみていよう。
なお(個々の記者としてはそんな大作家様に対して、己の小ささを自覚して非対称的な戦いに恐怖を覚えるのは当然だが)朝日新聞のような大権威が除外・拒否の思想をぶちかますのは、更に非常に不見識というべきだろう。大非常に大不見識とでもいったところか。理由は上述の如し。
で、返答がこれ:
朝日新聞の広報さん、
— 百田尚樹 (@hyakutanaoki) 2018年1月15日
私はたしかに朝日新聞と読者を敵視したようなツイートをしましたが、差別的な発言はしていません。
なんでもかんでも、すぐに「差別だ!」と、がなりたてるのはやめませんか。精神が弱者ビジネス丸出しですよ。 https://t.co/6h40JEH6nB
むっちゃ煽っている感もあるが。それに「敵視したような」どころじゃなく、はっきり敵と断言しているのは「したような」という表現にそぐわないのではないか。
さて、朝日新聞のツィッターの中のひとは、戦略を誤ったと評価してよいのではないか。
言うべきことは、「朝日新聞とその読者を全く同一のカテゴリに入れるのは不適切である」ということだ、おそらく。なにしろ、朝日新聞は「建設的で多様な言論を尊重し、読者とともにつくる」という活動の結果として、その紙面は多様な読者を反映して多様な思想に満ちており、複数的な視点をふくみ、読者を一つの思想に洗脳しようなどとは思いもしないし出来もしないものであるはずだからだ。
あるいは、堂々と煽ってもよい:「朝日新聞とその読者を全く同一のカテゴリに入れるのは知的貧困をさらけ出す行為だ―人間の多様性、個々の主体性を等閑視する、不適切なファシズム的な思考様式だ」。
まあ私は朝日新聞を基本、読まないので、現実はよう知らない。
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