ちょっと面白い事例に出会ったのでメモ。
原発再稼動に対する反対署名をしてくれないか?という言葉に対し、しません、と答えたところ
「あ、そういうの、しない人?」
と言われたので
「政治的中立、政治的中立」
と両手を上げて言ったところ
「そういうのって、政治的中立っていうのかな」
と返された。
「そうですよ?」と私は答えた。
この反語表現が面白い。「それは政治的中立と言えるのだろうか、いや言えない」という表現と判断は面白い。
つまりこの例の場合、『原発再稼動に反対する意志を表明しないこと』は政治的中立とは言えない、と既に判断されている。
そしてさらには『原発再稼動に反対する意志を表明すること』がより政治的に正しい、むしろ中立的判断でさえある、という判断が背後にある。
さらには、これは、自分が加担している運動に賛意を表明しないことこそ中立的でない、という判断基準へと行き着く。
面白い。
反原発運動は反核運動の一環だろう。共産党系列と、今では薄くなったかもしれないが社会党系列で同種の行動が並立していたことを思えば、そうした運動にコミットすること自体が既に政治的であることになりかねない。
いや、2011年以来、反原発運動は市民の草の根運動になったのだ、これこそが市民の声なのだ、政治的党派とは異なった起源を持つ運動なのだ―という見解がありえ、おそらくは特に末端ではこの理解でいくものかと思われる。であればこそ、これこそ政治的中立で常識的市民的感覚なのだと思えることだろう。
そして、原発を運用する側、”規制”する側たる政治勢力=自民党の一党独裁的権力に反することは市民的な、脱政治勢力的な行動なのだ―というふうに考えることだろう。
だが既にこの時点で、ある政治党派(自民党)に対するアンチテーゼを提出する時点で政治的な動きではあるし、政治を目指す動きである。まあ個々人レベルなら正当な政治的権力の行使であるが(なにしろ国民主権だ)―
―ポイントは、そんな個人的な権限行使を ど こ で しているか、である。
職場で上長がやったらマズイだろという点。下手な攻め方をするとパワハラになりかねないのである。
とまあ、このように、講義や講演やで使える小ネタであるので、記録しておく。
まあこの項目に軽くメモしておけば、現政権については、法の定めに従って粛々と処理する方針である点、これはこれで私は評価したい。北海道の大停電をうけて超法規的に原発再開する道もあったが、北電の現場労働者の犠牲的献身を要求しつつも超法規措置を回避したのは、これは結構な見識ではある。
もちろん、2011年の超法規的レベルの原発停止命令も果断さで評価すべき点があると考える。浜岡原発だっけか、一基死んだのは、現場の手違いに起因するはずで、これ自体は当時の首相の拙速に帰するわけには…いかないだろう。
果断な、通常のコースでは予定されていない権力行使でより善なる目標実現を目指す…のは、ある種の善の実現のため、政治家として行うべき時が来てしまう重大転機であり、あえて受け止めることには敬意を表したい。
が、それでもって緊急避難を理由とした恣意的な運営へ広く道を開いたかも知れない点には批判的なのだ、私は。
そんなこんなで、署名運動の意義も意味も理解し、むしろプラス評価をするが、私個人は概ね関わらない。この矛盾したような態度をも許すのが多様な価値観に満ちた自由主義的社会であると信じるのであり―この価値観を否定し、「署名することこそ常識的対応」とばかりに押してくるのは自由に反する行為であると考えるのである。
原発再稼動に対する反対署名をしてくれないか?という言葉に対し、しません、と答えたところ
「あ、そういうの、しない人?」
と言われたので
「政治的中立、政治的中立」
と両手を上げて言ったところ
「そういうのって、政治的中立っていうのかな」
と返された。
「そうですよ?」と私は答えた。
この反語表現が面白い。「それは政治的中立と言えるのだろうか、いや言えない」という表現と判断は面白い。
つまりこの例の場合、『原発再稼動に反対する意志を表明しないこと』は政治的中立とは言えない、と既に判断されている。
そしてさらには『原発再稼動に反対する意志を表明すること』がより政治的に正しい、むしろ中立的判断でさえある、という判断が背後にある。
さらには、これは、自分が加担している運動に賛意を表明しないことこそ中立的でない、という判断基準へと行き着く。
面白い。
反原発運動は反核運動の一環だろう。共産党系列と、今では薄くなったかもしれないが社会党系列で同種の行動が並立していたことを思えば、そうした運動にコミットすること自体が既に政治的であることになりかねない。
いや、2011年以来、反原発運動は市民の草の根運動になったのだ、これこそが市民の声なのだ、政治的党派とは異なった起源を持つ運動なのだ―という見解がありえ、おそらくは特に末端ではこの理解でいくものかと思われる。であればこそ、これこそ政治的中立で常識的市民的感覚なのだと思えることだろう。
そして、原発を運用する側、”規制”する側たる政治勢力=自民党の一党独裁的権力に反することは市民的な、脱政治勢力的な行動なのだ―というふうに考えることだろう。
だが既にこの時点で、ある政治党派(自民党)に対するアンチテーゼを提出する時点で政治的な動きではあるし、政治を目指す動きである。まあ個々人レベルなら正当な政治的権力の行使であるが(なにしろ国民主権だ)―
―ポイントは、そんな個人的な権限行使を ど こ で しているか、である。
職場で上長がやったらマズイだろという点。下手な攻め方をするとパワハラになりかねないのである。
とまあ、このように、講義や講演やで使える小ネタであるので、記録しておく。
まあこの項目に軽くメモしておけば、現政権については、法の定めに従って粛々と処理する方針である点、これはこれで私は評価したい。北海道の大停電をうけて超法規的に原発再開する道もあったが、北電の現場労働者の犠牲的献身を要求しつつも超法規措置を回避したのは、これは結構な見識ではある。
もちろん、2011年の超法規的レベルの原発停止命令も果断さで評価すべき点があると考える。浜岡原発だっけか、一基死んだのは、現場の手違いに起因するはずで、これ自体は当時の首相の拙速に帰するわけには…いかないだろう。
果断な、通常のコースでは予定されていない権力行使でより善なる目標実現を目指す…のは、ある種の善の実現のため、政治家として行うべき時が来てしまう重大転機であり、あえて受け止めることには敬意を表したい。
が、それでもって緊急避難を理由とした恣意的な運営へ広く道を開いたかも知れない点には批判的なのだ、私は。
そんなこんなで、署名運動の意義も意味も理解し、むしろプラス評価をするが、私個人は概ね関わらない。この矛盾したような態度をも許すのが多様な価値観に満ちた自由主義的社会であると信じるのであり―この価値観を否定し、「署名することこそ常識的対応」とばかりに押してくるのは自由に反する行為であると考えるのである。
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