空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

学生指導のこと、先達の言葉のメモ

2019-04-26 20:00:04 | Weblog


 両方兼ねそろえたパターンも。







 …だから、先生と学生との共同作業でもあるんですよね。

 どうもねえ、オリジナリティという概念の理解がアレで、外国語文献の翻訳を提示したら、助詞を適当に按配して日本語として破綻させてから持ってきて、論文の主旨が破綻したり…はては私の研究メモをそのまま…。



 この構想力、その構想を抱くにいたった問題意識。そこらへんを養成・訓練したいのですよねえ。
 既にある、と言いたいひとはおおくいるだろうけど、ひとつひとつ言語化し、個々のアイディアを再編成する知的努力・能力をだな、と。





 コドモのやりたいことって、『ドイツ語を読めないままニーチェを語りたい』とかじゃねーのー?とか引きこもりになりかけの私が思う。

 実際のところ、ギリシャ語悲劇の専門家はギリシャ語を読めないと話がはじまらないわけで、そーゆー基礎を教えていたら…非常に嫌われて。

 …いえ、エッセイを書くならさほど問題にならないでしょうが、学者になりたいならそこそこの基礎くらいは修めてくれや…とか思った私。指導に失敗したのはそのとおりですが、ミスマッチにもほどがある、とも思う。

 まあ、私が大学院生時代にも、ドイツ語まったくわからずプロ倫読んでウェーバーを論じたいとか、サンスクリットまったくわからずサンスクリット仏典を論じたいとか、そーゆー「ご希望」「ご要望」が時折よせられ、我々院生仲間は頭をかかえたものであった。日本語だけで論じられるようになっていないとしたら、それはこれまでの学者の怠慢なのだ、だそうで。

 若いヒトから言われるのはうんまあ、と思う点があるが。

 要は、退職したあとのカルチャーセンター代わりに大学院に入ろうとしたひとたちがいたのだね。しかしカルチャーセンターのそうした講師さんたちを養成するにも、養成機関が必要であり、そのひとつが大学院なわけで、カルチャーセンターそのものより高度な内容をやらざるを得ないことは認識すべきだろう、うん。
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