自分は(歴史的な非対称から)「韓国が日本に言ってもいいが日本が韓国に言ってはいけないこと」というのは間違いなくあると思うのだが,みんな「日本が韓国に言ってることを批判するお前はなぜ同様のことを韓国が日本に言うのを批判しないのだ,それはダブスタだ」と言うのラジよね。
— PsycheRadio (@marxindo) 2019年9月3日
・限度っつーもんもあるだろ。
このラジ先生の控えめな感想に対して全く理解を示そうとしない人々との間には完全に世界の断絶を感じる。我々の世代にとっては極めて自然な感想なのだが、その基盤となる体験は次の世代には伝わらなかった。意図して伝えなかったのだから当然だろうが。 https://t.co/Z7MqqfFmO2
— 中嶋 哲史 (@J_J_Kant) 2019年9月4日
・そうした体験をきちんと論説にしてはいたんじゃないかなあ。だが体験自体は伝わらない。
氷河期世代放置、公共事業叩き、農林漁業放棄、地域格差拡大の渦中で生きてきた新たなる非対称を自己責任で放り投げられてきた世代が、その新たなる非対称を率先して生み出しながらその自覚は全く無い世代のインテリから何言われたって、そりゃあ通じるわけねえだろ https://t.co/hMD4shfAAZ
— yamayamayama (@yamayamayama18) 2019年9月4日
・その非対称の犠牲者当人たちとそうした犠牲者をみていた後続たちが粛々と新時代を築きつつあるかな。
なお「反韓」だのいう、お知識人様たちがいうような「ヘイト」なひとたち・「ネトウヨ」というのの主力は40代以降、さらにいえば50-60歳代が主力の気配がある(※弁護士懲戒祭りの件を参照)。
そりゃそうだ、というところである。なにしろそっちのほうが人数が多いので、同じパーセンテージで発生する場合にはどっちみちそっちが数的にメインストリームになる。さらにいえば、そうした高年齢帯であっても、現代日本でいうところのいわゆるリベラル勢力は多数派ではなく、「そうではない」人々のほうが多いのだ。
また、それ以上の世代がまあいい目を見ているような風に見える一方、「衰退国家日本」という現実を我が身でもって味わったことで、その罪を誰かに着せようとしたくなる。だから”自分(たち)以外の他者”を追及したくなるんじゃないのか、とか―だから左派は右派を、右派は左派をひたすらにしばこうとするのではないのか、などと。
関係を健全にするためにはその非対称性を解消していかなければいけないけれど、それは私も一方がひたすら我慢し続けることではないと思う。
— トーテムポーリー (@49nA0Bww0B67fZB) 2019年9月4日
左翼思想は、一見理想や真理を語っているようである(少なくとも左翼はそう思っている)が、実は非対称性を助長させ、永遠に関係を健全にさせない、病の根本原因
ええと、これは多少言いたい所があって、「現代日本でそこらでいうところの左派思想」はそんなもんだが、そうした組織左翼の思想を基盤にしたいわゆるリベラルのひとびととは別の左翼的思想―自由主義思想はまた別ですよ、と付言したくはある。
具体的には私。慰安婦問題とライダイハン問題は同様の問題として取り扱いたい意向。例えばここが組織左派や組織左派の影響をうけた人々との差の一例。
言わんとされていることは自分の歳でも理解出来るのだが、非対称かどうか以前に、韓国から公式・非公式問わず言ってきたり要求してきたりする内容が物凄い幼稚で理不尽で不当なのがさすがに限度超えているのがアレ。
— 下森聡 (@Sato_Sita) 2019年9月4日
マイノリティだから何やっても何を言っても許される、というわけではないでしょう。相手の寛容さにつけ込む態度を続けていたら、どこかで多数派の我慢の限界にぶち当たるのは当然で、その限界を試し続けるような言説をぶち込み続けるのは社会を分断する行為に他ならないでしょう。
— 斉藤 淳 (@junsaito0529) 2019年9月4日
こういうわけだ。
私は若い世代ですが、伝わっていますよ。
— なるなる (@akesuke4) 2019年9月4日
様々なところで戦争経験者が朝鮮人への差別はあったとおっしゃっていますし、現実に私の祖父は海軍でしたが差別はあったと言っていました。
言葉や法律での定めはあるでしょうけど、人間の感情を想像するべきですよね。
とまあ、あれこれを思うと、そりゃあ積極的に差別を更新していこうとするが如き文政権のありようは好ましくないよねえ、といわざるをえない。
満州国の士官学校だったかな、日本人学生が「…規定では日本人学生にはコメ、満州人にはなれてる食い物ってことでコーリャンとかってなってるけど、同じ学校の同じ学生なんだから、同じ食い物を食うべきなんじゃないのかな」と運動した―なんてエピソードがあったと記憶する。つまり、そうした差別がのさばっていたわけだが、同僚に対する同志愛は発揮されつつあったというわけだ。
さあ、「謝っても謝ったことにならない」とする人々と、「学友なんだから同じ釜のメシ、くうべや」という人々と、どっちが融和的かといえば、そりゃあこの侵略国家大日本帝国の走狗たる士官学校生徒のほうが遥かに人間的に融和的ですわな。「上から目線じゃねえか」という批判はこのばあい、どっちもどっちなので却下できるだろう。
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