空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

SEALDs運動への自己批判の記事

2021-03-17 13:32:31 | Weblog
 当時から延々言われていた、報道等々では「若者の運動」とは言われたが、しかし現実的にはご老体がたの「青春よもう一度」運動だったよなという件、当事者からの回想。

withnews SEALDsとは何だったのか?「大半が年配の方でした…」デモ後の人生 政治に参加する「余裕がない」現実 2021/03/17

服部さんは、主に大阪や和歌山でのデモに参加し、時には東京にも行きました。2015年9月に安全保障関連法が成立した後、他大学の人から声をかけられ、「SEALDs KANSAI」に加わりました。

「デモに参加して感じたのは若者の少なさです。『若者がデモに参加した2015年』という切り取り方をされることもありますが、実際は大半が年配の方でした。学生は時間的にも金銭的にも余裕がないのは大きいと思います」


 ―まあ。そうした年配の人々による問題設定であったがために、若者自身の問題設定に相応せず、若者からの支持を得られなかったという総括も可能だろう所、政治意識が、経済状況が、と反省するのは、まあ、定型的にすぎるといえばそうかもしれない。

「若者の社会問題や政治への関心が高まらないのは、学生の主体性の問題ではなく、社会状況の問題だと思います。政治の話をしても『どうせ変わらないし』とネガティブな方向になってしまう。政治を『汚い』ものだと捉えている若者が多いように感じます。しかも、ややこしい。政治離れと言いますが、日本社会では政治が近づきがたいものになっているということだと思います。投票率も決して高いとは言えませんよね」

 表現の自由問題についてはリアルに高校生が地方のゲーム規制に反対してみたり、そうした動きがある。これははたして「若者発の運動」として好意的な報道がなされたかどうか―問うてみてもよいだろう。まあ、大々的に称賛されはしなかったかな。

「単位を取らないといけないのはもちろん、アルバイトも忙しい。時間がなさ過ぎるのは問題です。和歌山大では昨年、コロナ禍を受け、学費軽減の署名運動が起こりました。運動を担った学生には、当事者じゃない人も多かったと聞きました。本当にお金に困っている人たちは、運動に参加する余裕がない。『余裕ある自分たちが声をあげないと』という心持ちだったといいます」

 ここらへん、『労働者と学生の連帯!』という、50~70年前の夢がのぞけていて、うんまあねえそのねえ、という気にはなる。

 ―新世代の清新な議論、というには、あまりに半世紀前の香りが目立ちすぎるという、そんな感想。

【講義用意】
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