車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

年の初め・・・2023年

2023年01月01日 04時00分00秒 | 徒然なるままに思うこと

早いもので私もご亭主殿もすっかり現役から遠ざかって、いつの間にかもうすっかり「良いお年頃」になってしまいました。

この「良いお年頃」、実はご当地マンホールを切っ掛けに知り合えた、大切な福島在住の友人が良く使っていた言葉なのですが、とても気に入ってずっと使わせて頂いてます。「いい年をして」・・ではなく、「良いお年頃になって」・・・何だかとっても自分が可愛く感じられません?

そんな大切な友人と会う事を目的の一つとして、福島県への車泊旅を決行したのは2015年6月。ついこの間のような気がしていたのですが、もう七年と半年も前の事なんだと、写真を見て改めて過行く歳月の速さに驚いています。彼女との短い逢瀬(笑)、叶うものならもう一度と願いつつ・・でもやっぱり会津は遠すぎます。

それから2年後の2017年5月、遠方のお友達に会う事を目的にして決めた車泊旅の行く先は埼玉県。福島県の友人同様、切っ掛けはやはりご当地マンホール。ネットとメールを介してのみのお付き合いでしたが、出会った瞬間からもう何十年来の友のように接して頂き、その事に夫婦揃って感動したものです。

コロナの蔓延とそれに相次いだご亭主殿の罹患で、私たちの毎日は一変しました。互いの病気治療で月の三分の一は病院通い。日々の暮らしに何の不足も無い・・と言えば嘘になるけれど、それでも側に寄り添う人がいる事の幸せを・・ずっと大切にしたいと思うのです。

年の初め・・相応しい画像をと思うものの、どこかに出かけたわけでもなく、愛するものを失った喪中ゆえ迎春の準備も無く・・・

2023年のスタートは、今まで小さな庭先を彩ってくれた草・花・木を画像のみで紹介しようと思います。我が家の花たちは、その大半が捨てられていた花、頂いた小さな苗や、挿し木で育てた花たちです。今はもう影も形もなくなった花。主の怠惰に負けず今も一生懸命咲いてくれる花。どれもみな、いつの日も喜びを寿ぎ、悲しみを癒してくれた愛おしい存在です。

毎年、沢山の実を付けてくれた紅梅も今は切り株を残すだけ。

春の一日、愛おしく忘れ難いあの春の一時。室内飼いのお前に許された唯一のお外だった小さな庭・・・雑多な鉢植えの向こうにお前は何を見つけたのだろう。お前が私たちの前から消えたのはそれから十日後・・あの日お前が見ていたものが知りたくて、私はずっと探しているけれど・・

ねぇ・・お前が大好きだったチロリアンランプが、あれからお前を恋しがって・・こんなに寒くなったのに、毎日せっせと赤い花を咲かせているよ。

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つたないブログを応援して下さる大切な読者の皆様に、心よりお礼申し上げます。新年のご挨拶は出来ませんが、迎えた新しい一年の始まりが、皆様方にとってより良き年であります事を心より願って。

皇紀2683年1月1日

 

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大晦日に思う事・・2022年

2022年12月31日 04時21分00秒 | 徒然なるままに思うこと

2022年も今日で終わり。明日からまた新しい一年が始まります。新しい年を迎えるという事は老いに近づく一歩。悔しいけれど確実に一つ・・また一つ、体は脆くなっていくように思います。

この一年を振り返って何を思うと問われれば、それはいつも・・あの愛おしく切ない日々。4月も終わりに近い晴れた朝、かけがえのない大切な存在を失ったあの春の日の・・あの言葉にしがたい絶望の瞬間。幾日も幾日も・・癒える時など無いと思えた深い悲しみの日々・・・・・・

けれど、そんな耐え難い日々でさえ、「愛しい思い出」という名の優しさに変えていく・・時間と言う名の魔法。

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財産も無い、もちろん地位も名誉も無い、心身共に健康!・・とは言い難いけど、気力だけは充分ある。辛さを分け合える友もいる。コロナ過のせいでちっとも会えなくなったけど、毎日欠かさず電話をくれる仲良しの義姉もいる。

「生きていればそれだけで幸せ♪ 小さな我が家で二人と一匹、一緒に生きていけるなら、もうそれだけで充分。」

車泊旅は出来なくなったけど、ブログに綴る思い出はこの先何年かかっても書ききれない程あるしね。だからパソコンに向かえなくなるまで書き続けて、そうして更に年老いて書けなくなったら、それを読み返して過ぎた昔を一緒に懐かしがろうよね。

そうそう、いつもいつも車泊のたびに長い日数を留守番させていたお前とも、ずっと、ベ~ッタリ!!一緒に居るからね。ウソじゃないよ!ホント!本当だからぁ~!

今でもはっきり覚えている・・お前が初めて我が家に来たのは、あれは2007年7月の朝の事。出勤したはずのお父さんが、数分後に玄関に立って「ハイ!」と差し出した両手の中に小さなお前がうずくまっていた事を。

カラスに追われて駐車場の車の下で震えていたという小さな子猫。キッチンの網戸から見えたお外に向かって、必死に鳴き始めた小さな小さな子猫。

子猫の声を聞きつけて一度だけ母猫が来たけれど、私の姿を見て、必死に泣く子猫を見て、もう一度私の顔を見上げて・・そのまま立ち去ってしまった。  ねぇ、私、お前の母さんに託されちゃったよ。鳴き続ける子猫を抱き上げると、必死にしがみ付いて・・それから部屋の片隅のキャットフードを見つけ、体半分突っ込みながら必死に食べはじめた。 

我が家には既に二匹の可愛い娘たちがいるけれど、姿を見てしまったら、一度手に抱いてしまったら・・答えはおのずと決まっている。

そうして代々継承してきた名前の一文字を入れて我が家の一員になり、翌日病院に。その日からさっそく、処方された目薬&シリンジでの投薬開始。

何をされてもじっと我慢して、終わったら、お母さんの手にスリスリして、お母さんが抱き枕にしているぬいぐるみにもたれて眠る・・思い出すだけで顔がにやけてしまうくらい、小さな小さな可愛いお前。

お前が家族に加わって賑やかになった我が家の暮らし。よせばいいのに、ついつい調子に乗ってお姉ちゃん猫にちょっかいを出し、たまにきつ~~~~い!お仕置きパンチをされたり(笑)

大先輩のお姉ちゃん猫に、ご飯の催促の仕方を教えて貰ったり、もちろんお食事時のマナーも(*^^*)

お気に入りのおもちゃは、可愛らしさに一目ぼれして買ってもらった大事な私の!(笑)ホワッツマイケル(猫漫画の主役)の手(^^;) 

誰かがわざと手を伸ばすと、慌てて専用のおもちゃ箱まで運んで一緒に隠れてる・・つもり(笑)

毎日、毎日が当たり前に過ぎていった二年後の2009年、キジ柄のお姉ちゃん猫が逝って、その翌年、ふわふわ毛のお姉ちゃん猫も逝ってしまった・・・

以来、お前は超絶な甘えっ子に変身。そうして「いつどんな時でも、ふりかえれば私の側にはお前がいる」。入浴中の浴槽に飛び込んできた時は流石に慌てふためいたものだけど、お前と来たらケロッとして機嫌よく浮かんでるものだから、私の叫び声に飛んできたお父さんも大笑い(笑) 以来、お風呂の蓋は三分の一だけ開けての入浴・・随分と長い事続いたねぇ。

好奇心旺盛で、動物が登場するビデオが大好きで、何時までも画面の前から離れなかったっけ。それからお刺身が大好物で、何時もちょっとしか貰えないんだけど、それでも一生懸命背伸びして、お父さんの側にべったり。

私が寝込んだら、どんなに暑い夏の日でも側に来て一緒に寝てくれた可愛いお前。車泊旅が出来なくなってから殆ど家で過ごしているものだから、お前はいつもご機嫌で夏でも冬でも私の腕を占領して、お陰で腕は汗疹だらけ。

お前がうちの仔になってから14年と7か月と14日。その翌日もずっとそんな風に暮らしていくって、これっぽっちも疑ってなかった。 なのに・・何でだろう?虫が知らせたのかなぁ・・・・三月のあの日、何となく様子が変な気がして、念の為にと獣医に見て貰ったら「変性漏出液で水を抜いても一時しのぎにしかならない。治療は無駄です」って・・・・、あの瞬間・・何を聞き何と答えたのか・・ああ、よく思い出せないけど、頭の中で否定の言葉だけが渦巻いてた。

何で?!どうして?!えっ??いやだってそんなのおかしい。普通に食事だってしてるのに、それなのに「余命は一週間か・・二週間でしょう」って・・そんなの、そんなの絶対におかしい!!嘘? 嘘でしょ?・・ねぇ、誰でもいい、悪い冗談だって・・

泣いて、泣いてお前を抱きしめて泣き明かした夜が明けて・・。側にいた筈のお前の姿が見えなくて、青くなって探したら、自力で二階にあがって、お日様が一杯の畳の上で日向ぼっこをしていてさ。あの時は本当に・・死ぬほど焦ったよ (>_< ) 

でもお前・・そこ好きだったもんね。そうしてお父さんと私は、日が陰るまでずっとお前の側にいて、気持ちよさそうに横になって眠るお前を見ていた。やがて横になって眠れなくなる事を・・医師に告げられていたから。

宣告を受けたあの時から40日と4日、獣医の宣告を跳ね返して、お前は私たちの側で一生懸命生きてくれた。ほんの僅かでも食べ物を欲しがってくれたら、もうそれだけで大喜びして。何でもいい・・お前が望むものを、お前が口に出来るものを誂えて、夜も昼もお前の側に寄り添って・・少しずつ確実に細くなってゆく命の火を、私はただ・・お前を愛おしむ事だけ考えて、そうしてこの一日が明日に繋がるようにと、神にも仏にもすがる思いで見続けてきたのに。

お前が私たちの最期の子供になって14年と8か月と4日・・最後の4日間は何も口にせずただ私たちの側にいてくれた。あの朝、突然苦しみだしたお前を支える私の手の中で・・その最後の鼓動が止まった・・あの瞬間の言葉にならない絶望・・・私はお前の眼を閉じ、口を閉じ、そうして言葉を無くしたまま、動かなくなったお前をずっと抱きしめていた。

真夜中に、ふと気配に気が付いて隣りを見たら私の横にぴったりと寄り添うようにお前がいて・・・ああ・・あれはきっとお前からの最期の贈り物だったんだね・・・

そんな事を思い出した瞬間・・・喉の奥から悲鳴のような声が出て・・そうやって泣き叫ぶことが出来た時、もしかしたらもう一度鳴き声を聞かせてくれるんじゃないかと馬鹿な事を考えてね・・・お前の名前を何度も何度も呼んで、まだ温かいお前の体を抱きしめて頬ずりして・・

ひたすらに生きてくれたお前が旅だった朝、塀はモッコウバラの黄色で埋め尽くされてて。お前の小さな棺を飾るためにと手を伸ばせば、まるでお前の旅立ちがわかったみたいに、淡いクリーム色の花びらはハラハラと手の先からこぼれ落ちて・・私と一緒に泣くんだよ。

お前を見送った翌日、お前が大好きだったチロリアンランプの花が、狂ったように一斉に咲いたよ。今までこんなに一度に咲いた事なんて無かったのに・・・真っ赤な涙を流してお前がいなくなったことを嘆いてくれた。

2022年も今日で終わる。ねぇ、お母さんはお父さんと一緒に、これまで通り、毎日毎日、一生懸命に前を向いて生きていく。お前がいなくなった悲しさは、まだちっとも薄れないけれど、それでもお前に約束する。この先もずっと、しっかり前を向いて、お前に負けないように頑張って生きていくよって。

二人そろって病院と仲良しになったけど、お前の側に行くのはまだずっと先だからね。ちゃんとお姉ちゃん猫たちと一緒に仲良く待っててね。そうそう、お前は知らないだろうけど、お前が来る前の年に向こうに逝ったお兄ちゃん猫は、そりゃぁ面倒見が良くて男前でね。だからすっごく頼りにして良いからね。

ああ・・・きっと今頃は、みんな揃って下界を見ながら楽しくやってるんだろうな。

「時という偉大な力は、どんなに辛くて悲しい日々も思い出という優しさに変えてくれる」・・人の力ではどうする事も出来ない時のお母さんのおまじない。ねぇ、お母さんはこれからも今まで通り、小さな庭に咲く花たちの世話をしながら、かわり映えのしない毎日を送って・・そうして多分、一つ一つ咲いた花を見るたびにお前たちの事を思い出すよ。

今日が終わって新しいカレンダーに変わったら、またいつも通り、何事も無かったような顔をして、マンホールやら神社やら、素敵な旅の思い出を毎日せっせと綴ってゆく。

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拙いブログですが、一年間のお付き合い、有難うございました。

迎える新しい年がより美しきものでありますように。

2022年 大晦日

 

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遊子水荷浦(ゆすみずがうら)の段畑 in 愛媛県宇和島市

2021年01月18日 08時00分00秒 | 徒然なるままに思うこと

遠き昔より、「耕して天に至る」と形容されてきた「遊子水荷浦(ゆすみずがうら)の段畑」「急斜面に石垣を積み上げて作られた階段状の畑地は、眼前に広がる宇和海の美しさもあいまってまさに絶景。「日本農村百景」に、また2007年7月には全国で3例目の「国の重要文化的景観」に選定されました。」HPより

「耕して天に至る」・・・このフレーズに心を鷲づかみにされた私たちは、宇和島での外せない立ち寄り地として、この場所を選びました。

「魚見の丘」から見下ろす「水荷浦湾」。海の向こうに見る山肌の白さに??と思いながらも、まだこの時点では、噂の絶景を見られるという期待感で一杯でした。

ですが実際に現地について駐車場から見えた景色は・・・あの白い山肌の正体を知ったときの衝撃は・・・・

私たちは言葉を失い、しばらくは息をするのさえ憚られるほど、ただ黙ってその場に立ち尽くしていました。

これを段々畑と呼んで良い物なのか・・高さ1メートルほどの石垣は、はるか山頂まで続き、もっと驚愕なのはその山頂部分が目視できると言う事実。それは取りも直さず、切り立った急斜面であることの証。

観光案内のページには「歴史の重みと、壮観な造形の美に圧倒される」とありました。私たちもネットでここの写真を見たとき、単純に「凄い!」と思ってやって来たのです。

けれども、これを「造形の美」と呼ぶには、あまりにもその状況が過酷過ぎて、言葉が出ないのです。腕を伸ばして、たったこれだけの幅しかない畑を耕し、さらに耕地を求めて上に上にと石垣を築きあげてゆく。

海辺に面した集落では、おそらく男衆は漁に出ていた筈。それではこの畑を耕してきたのは家に残る女・子供・・・生きていく糧の助けとするべく耕されてきた段々畑。それでも・・これほどまでに急な山の斜面を切り拓かなければならなかった水荷浦の地形の厳しさ。

頂上付近で作業をしている人の姿が見えた時は、思わず声にならない声を飲み込み・・ 見上げている自分の体が小刻みに震え、足が竦み・・・思わずその場にしゃがみこんで動けなくなってしまいました。

頂上まで上る気力なんてとっくに消えうせ、ご亭主殿の後ろ姿に手招きされて下へ・・それでさえこんなに足裏がむず痒くなる光景なのに・・

観光案内にあるように、確かにこの光景は圧倒的な凄さを持って、私たちの心を鷲づかみにしました。見ていると、何故かポロポロと涙がこぼれて、そのまま我慢していると、声を上げて泣いてしまいそうになるほど・・。

「耕して天に至る」・・・この後に続くのは「以って貧なるを知るべし。」
身近に平地があるのなら、誰が好き好んで天に至る高さに畑を作るものか・・決して裕福ではなかった漁師の家に育った私にも、こんなに過酷な条件での暮らしは想像も出来なかった・・

それでも・・と、思い返します。こうして重要文化的景観となった事で、様々なものが生みだされ、それは間違いなくここの暮らしに反映される筈だと。

観光も含めて、この景観を守る為の様々な取り組みがなされていると聞きました。それはとりもなおさず、ここで生きてきた方たちの、財産となるべきもの。人々がそこに生きた証の遺産として、大切に守り残して欲しいと、心から願っています。

訪問日:2013年3月25日

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紫電改展示館 in 愛媛県愛南町(旧城辺町)

2021年01月12日 08時00分00秒 | 徒然なるままに思うこと

御荘湾を含む海岸部は足摺宇和海国立公園の一部となっており、美しく穏やかな眺めが続きます。が・・今はそんな景色を楽しむ余裕がありません。

私達が目指すのは、愛南町御荘平城・馬瀬山頂公園内にある「紫電改展示館」。急がなければ開館時間内に間にあわなくなります!

「紫電改」と聞いて、それが第二次世界大戦中に開発された戦闘機の名前だとわかる人がどれほど居るのか・・私だって、はるか昔に兄が読んでいた漫画の存在が無ければ、多分知らずに通り過ぎていたと思います。
戦争を扱った作品はどちらかと言うと苦手だった私ですが、それは単に格闘技漫画は苦手と同じ感覚で、漫画作品として見るには、まだ夢見る夢子ちゃんにも満たない年齢の私には、縁の無い話だったからに過ぎません。

ちばてつや氏の漫画の中に登場する「紫電改」・・歴史の遥か彼方に埋もれてしまった筈の戦闘機が、この地上に姿を現したのは1978年11月。南宇和郡城辺町(現・愛南町)久良湾の海底で、ダイバーによって1機の紫電改が発見されました。着水した機体としては機首部分を除き、ほぼ損傷のない状態で発見された紫電改。
おそらくは、戦闘中に機体の不調によって着水を決意、波の静かな久良湾に着水したものの、機体もろとも水没したものと推定されます。が、それにしても賞賛されるべき操縦技術です。

1979年7月に引き揚げられた紫電改は、遺族の意思により引き揚げ時の原型を維持する程度に補修・塗装され、日本国内で現存する唯一の実機として保存・展示される事になりました。

松山海軍航空隊の『原田幸作氏』が捧げた「嗚呼紫電改」、読み進むうちに痛いほど胸が詰まって、見る見るうちに文字が滲んでしまいました。

【身は南豫に果つるとも 命輝け 宇和の真珠と】

命をかけてこの国を守ろうとした方々に、私たちは、きちんと応えているのでしょうか。散華された命に敬意も払えない人が、自らを知識人だと名乗り、したり顔で平和を語る世の中。それを見聞きするたび、ただただ申し訳なく、湧き上がる怒りにも似た涙を、抑える事が出来ません。

身を捨てて礎となられた方々に、有りもしない汚名を着せ、嘘で固めた自称!犠牲者にペコペコと媚び諂う自称識者・文化人、国を守るべき筈の政治家の言動を見聞きするたび、口にしてはいけない、汚い言葉を飲み込む自分がいます。

太平洋の海深く、大和と共に眠るご亭主殿の祖父様、名前しか知らない伯父さんたち・・名前さえ知らない何千何万もの方たち・・・私たちは、その尊い犠牲の上で自由を謳歌し、人と出会い、人と結ばれ命を紡いでいます。
名も知らぬ誰かの遺影の前に立って手を合わせて誓うのは、馬鹿の一つ覚えの「過ちを繰り返しません」ではなく!、「あなた方の命の購いの上に生かされている事を感謝いたします」・・それだけです。

訪問日:2013年3月24日

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こんな時代なので~😊~手作りマスク

2021年01月02日 08時00分00秒 | 徒然なるままに思うこと

今年から年賀状を出すのを止めました。やめたと言うよりも喪中が続き、出せなかった・・、そして、それを機に年賀状を止めたと言うのが正解です。

さて・・・昨年のご亭主殿の入院中、私はひたすらマスクを縫っていました。当時はマスクを縫うにも材料が簡単に入手できない状況が続いており、そこで家の中でマスクの材料として使えるものを探し出し、ひたすらマスクを縫うことで不安な時間をやり過ごしていました。

お正月の話題として相応しいかどうかはおいて、蔓延するコロナウイルスに対する抵抗の意味もかねて、これまでに作ったマスクの紹介です😊

実は我が家のミシン、故障して使えない為に縫い物と言えば全て手縫い。腕の付け根から手の甲、肩に首と湿布をべたべたと貼りながら、それでも何かに取り付かれたように、毎日針を動かしていたものです。

流石にマスク用のゴムなどの買い置きはしておらず、下着用の平ゴムなどを利用。そのうち、手持ちの白糸が足りなくなり、見えない部分には赤や緑の糸を使うという荒業😓

ご亭主殿と私のためだけに縫ったマスク。と言っても実際に縫い上げたマスクは250枚ほどあり、その中には物好きな友人様から所望されて貰われていった物も沢山有ります。我が家のマスクの特徴は、私の着物を仕立てた時の残り布で縫ったものが多く、それだけにどれも思い入れのある生地。それもあってか、これらはご亭主殿にも好評でした。

ちなみに今改めて数えてみたら、二人分で150枚ほどありました。これだけあれば、マスク不足を憂える事はないでしょう。が・・それにしても何でもかんでもマスクにしたんだなと、改めて感心しています。

これなんて、特に関西で超がつくほど有名なキャラクターですが、実は大判のハンカチだったもの。これで大阪府池田市のマンホールカードを貰いに行ったら受けるだろうね😄  。もう行けなくなったという現実には触れないで笑いあいました。

数が増えれば思いっきりドレスアップしたマスクなんかも作りたくなります。基本的にお金をかけないで何かを作り出すというのが私流😊。以前は別の何かに使われていたレースをマスク生地に貼って、あまり布で作った造花をつけたマスク。流石にこれはご亭主殿には無理!!

レース柄が浮き出した白い生地のマスクに、模造パールを縫い付けてみました。写真で見るよりも実際の方が華やかでお洒落ですが・・でもこれって果たしていつ着けることができるんでしょう😅 

流石にマスク作りも飽いてしまいましたが、店頭にマスクゴムが出回りだしたのを機に、手持ちのマスクのゴムを全て入れ替えました。そうしているとついつい初期の頃の未熟さが目立ってしまって、ついつい手直しを・・

ともあれ、今年もマスクが手放せない日々が続きそうですが、その面倒くささも生きていればこそ。今年もお気に入りのマスクをつけ、密を避けつつ、リハビリを頑張らなくっちゃ!!

2021年  一月二日

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明けましておめでとうございます

2021年01月01日 10時00分00秒 | 徒然なるままに思うこと

2021年の最初の一日・・・さて・・何を書きましょうか。考えてみれば怒涛の如く過ぎ去った感が否めない2020年。世間では本当に色んなことが表に出てきて、人の気高さも優しさも、そしてまた醜さも一緒に炙り出されたように感じさせられた気がします。

ともあれ・・・新しい年の初め、を大切なご亭主殿と迎えられた・・・私にとってこれ以上の良きことはありません(*^^*)

例年なら、昨年中に訪問した旅先での美しい景色などの画像を添えるのですが、いかんせん、昨年は何所にも行けずで新しい画像がありません(^^;) と言って文字ばかりと言うのもつまらないので、今年の干支から牛さんの画像を一枚。

この巨大な牛さんは山形県米沢市の某場所においでになったもので・・ちなみに米沢牛を食べさせるお店などもあったような気がします(笑)。私達の車泊旅ではこの山形県が一番北になりました。2016年9月の事ですから、もう四年と少々昔になります。

同じく、私達の車泊旅の南の端になる大分県杵築市。城下町歩きの途次で見かけた神社に鎮座されていた奉納牛さん。古い写真を掘り起こすたびに、甘酸っぱいような切なさで胸が一杯になります。

 

車泊という手段を得て覚えた旅の楽しみ・・それはもう何にも変えがたい珠玉の日々でした。目覚めから就寝まで、これほど二人が密着した濃い時間は、他では考えられない事です。

こんな状況になった今でも、もしかしたらまたいつか旅が出来るかもしれない・・と、二人で語らいあっています。生きていれば何とかなる。それはどんな状況であってもきっと変わらない。新しい年の初めに二人で願うのは唯一つ。きっとこれ以上は無い贅沢な願い・・・いつまでも二人一緒に生きていけますように!!

2021年 元旦

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2020年・大晦日です

2020年12月31日 10時00分00秒 | 徒然なるままに思うこと

今年最初の朝を迎えたとき、私は何を思っていたのだろう・・・・記憶には自信があった筈なのに、どうしても思い出せない。

毎年恒例の行事のように迎えたO県在住の兄宅でのお正月。兄夫婦に甥・姪・姪の息子君・・そして私たち。小さい子供がどんどん大きくなって行く事に驚く以外、特に代わり映えもしない、それだからこそ平和で穏やかな一年の始まり。

驚きのニュースを初めて耳にしたのは二月・・中国の武漢を発症としたコロナウイルスの発生・・それによって死亡する有名人。人が病気で死ぬのはある意味仕方の無いことだと思う。けれどその臨終に立会い、死者を悼み声を掛けることも、その手を握り締めて名を呼ぶことも出来ないという信じがたい事実・・これほどの恐怖があるなんて・・

免疫不全の持病を持つ人間にとって罹患は死に繋がる・・私もその一人です。それに対し、マスクに手洗い、密を避けて不用意に出歩かない。そんな事しか予防手段が無いという恐ろしさ。

五月のある日、障害を抱えて実家で一人暮らしをしていた姪が急死。施設の方に見送られ、兄によって母と祖父母の墓に納められました。

それから一週間後、ご亭主殿の様子に異変を感じて病院へ、下された診断は脳梗塞による「高次脳機能障害」記憶障害・失語症と・・かなりの範囲にわたって脳の機能が失われていました。そのまま緊急入院。

何も出来ず、何も考えられず、それでもやらなければならない。考えなければならない。何が出来る。どうすればいい・・面会も制限された中で、ご亭主殿と一緒に生きていく為にはどうすればいいのか、考えて考えて、眠れぬ夜を幾つも過ごし・・そうして回復に僅かでも望みがあるならそれを生きる糧としていこうと決めました。

主治医に直談判をし、一ヶ月ぶりに我が家に帰ってきたご亭主殿は・・・いろんな意味でまるで宇宙人のようで、でも、それでも間違い無く、私の大切なご亭主殿でした。ゆっくりと少しずつ前に進もう。二人一緒に居られるならば、きっと頑張れる。

退院して迎えた翌朝、家族ぐるみで兄弟のように付き合ってきた親友から「昨日、夫が動脈瘤の破裂で死んでしまった」・・と電話がありました。何を言えばよいのか・・言葉が見つけられず、受話器を握り締めて泣く事しかできませんでした。

次から次にと辛いことが続く中で、それでも心温まる出来事も沢山ありました。途方にくれて立ちすくむしかなかった私に手を差し伸べてくれた人・・マンホールカード仲間と言う繋がりでしかない方から届いた「病気平癒のお札・お守り」。そして添えられた言葉の真摯な優しさ・・生きている事の喜びは、こんなにも沢山溢れている・・私はきっと、とても幸せな人間だ・・

暗闇の中を手探りで歩くような日々を迎えて終えて・・そうして一年の締めくくりを迎えました。あと何時間かで2020年が終わり、また新しい一年が始まります。綴ってきた車泊旅の思い出は、今まで以上に大切な二人の記録となりました。

全ての思い出を書き尽くすまでに何年掛かるのか分からないほど、画像はフォルダ一杯に溢れています。キラキラと、どんな宝石よりも光り輝く珠玉の日々。誰の為でもなく自分の為に書き綴ってきた旅の思い出。これから先も書き続けられる事に感謝し、またこんな個人的なブログを見て下さる「方々」に心から感謝いたします。

迎える年が、誰にとっても美しく穏やかな日々でありますように・・・八百万の神々の加護があまねく人々の上に降り注がれますように・・・・・・

2020年12月31日 大晦日

 

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明けましておめでとうございます

2020年01月01日 00時00分00秒 | 徒然なるままに思うこと

一夜明けて、2020年1月1日、数字を見てると2・0・1が行儀よく並んでいて思わずにんまり😄

本来は「和暦」で書きたいところですが、和暦は「昭和」までと決めています。

年のはじめに紹介したいお正月らしい画像を・・・という事で新年の画像では定番の富士山を1枚😊 日本人のDNAに刷り込まれたと言っても過言ではない、富士山の美しさは永遠のものです。我ながらきれいに撮れました。

湖に影を移す富士山も良いですが、湖中の鳥居なども心を揺さぶられる光景です。 水面に影を落とす朱の色は、より神秘的で美しく、この世の森羅万象を象徴しているように見えます。

鳥居は神域と俗世とを隔てる結界であり、また神域と俗世とをつなぐ門でもあるのです。 ことにそれが水の中にあるとなれば、その向こうにあるのはさらに異なった世界への誘いでもあります。潮の満ち干もまた神の思し召し、限られた刻にのみ開かれる、神への門となります。

 

今日から始まる一年が、誰にとっても穏やかで優しいものでありますように・・・ 打ちのめされた多くの命の上にも暖かい日差しが降り注がれますように・・・

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2019年を振り返って

2019年12月31日 08時00分00秒 | 徒然なるままに思うこと

早いもので、今年も残すところあと一日・・8時の投稿なので、正確にはあと14時間。

年々感じることですが、一年が本当に早い・・右を向いて左を向いて、正面を向いたら大晦日😅 きっと来年はもっと早く感じるんだろうなと思いつつ、日々を一生懸命に生きています。

今年を振り返って何が記憶に残ったんだろうと考えた時、最初に浮かんだのが4月の島根への旅。島根の某地区で開催される春の神楽大会、何と今回が最後という事でどの演目も見応え満点でした。

ですがそれ以上に忘れられないのは、神楽鑑賞の当日に手首を骨折した事。あの痛さときたら・・😭 それでもその痛みに耐えて、最後まで神楽鑑賞をした私って・・ある意味凄いと思います😅

 

骨なんて折れてない!単なる捻挫だと言い聞かせて、ごまかして来ましたが、夕方には限界。土地勘も無い見知らぬ土地での病院探し、できたのはレントゲンと応急処置だけでした。

それでも暮れ行く見知らぬ土地で見た病院の灯りは、正直どれほど心強く思えたことか、結局、予定を切り上げ、かかりつけの医師に診て貰うべく、帰宅となってしまいました。手首の骨?・・ちゃんと?折れてました😭

最後に、今年一番の思い出は、猫の額ほどの庭に植えていた、3本の梅の木を伐採した事 。毎年春には紅白の花を咲かせ、可愛いメジロたちの餌場になり、梅干や梅酒にもなった梅。

毎年の消毒や、伸びすぎた枝の剪定がしんどくなってきた事、それが伐採の理由でした。

引っ越した時には枯れ木にしか見えなかった紅梅・白梅。剪定をし、土を耕して肥料をやり、蕾がつくのに三年掛かり、その翌年には10k近くもの実をつけて、梅干作りに悲鳴を上げたのも忘れ難い思い出です。

そうそう、10月には大阪府池田市の五月山で、第9回マンホールサミットがありました。11弾のカード先行配布のチャンスと有って、今回も沢山のファンで大賑わい。

大賑わいすぎて、各種のイベントも横目で見るだけ・・それはそれで、切ない思い出となりました。

すでに11弾まで配布されたマンホールカードですが、実は少々息切れを感じています。

手を伸ばしてやっと捕まえたと思った瞬間、まるで「逃げ水」のように出現する配布先。それが「行けなくは無いけどかなり遠方」、「つい最近徹底的に観光した」場所だと、その挫折感は容赦なく精神を蝕みます😔

4月に神楽の鑑賞を兼ねて足を伸ばした島根のいわゆる石見地方は、隅から隅まで見尽くした感があります。それでいて9月に再び同じコースで島根に出向いたのは、ただひたすらカード収集の為だけ・・・、なのに12月には津和野町の隣の萩市が配布。太田・益田へ行く為に通り過ぎたた出雲市も・・そろそろカード収集も潮時かなと思う大きな一因になりました。

正直・・・ご当地マンホールを探して一喜一憂していた頃が、懐かしく思えてなりません😥

さて、来年の車中泊の旅はどこに行こうか?・・今しかいけない、うんと遠くまで行きたいね。年を重ねるごとに、一年一年が愛おしく、出会う全てが大切な思い出となって心に残ります。

2019年は各地で大きな災害が頻発し、いつもの暮らしに戻れない方がまだ大勢居られます。こうしてパソコンに向かっていられる今が、どれほど恵まれたものであるか改めて思います。

明ける年が良い年でありますように・・・すべての命あるものに、等しく優しい日々でありますように

2019年12月31日

 

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年の初めのイノシシ尽くし

2019年01月01日 08時00分00秒 | 徒然なるままに思うこと

夜が明けて・・・何かが特別に変わるわけでもないけれど、2019年が始まりました(*^^*)
「あけまして おめでとうございます~~~謹賀新年~~~賀正~~~迎春~~~」
昨年は正月早々、夫婦二人、揃って「インフルエンザ」に罹ってしまい散々な年明けでした。 今年は何事もなく新年を祝って、何事もなく我が家に帰宅できますように(笑)

さて、今年は「亥(いのしし)年」、猪突猛進はいささか問題ありますが(笑) 目的に向かってまっすぐに進めるように、頑張れたら良いなと思います(*^^*)
これから紹介するのは、旅先の神社とか観光名所で見かけた「猪」さんたち。 精一杯記憶をたどって、年月日と場所まで思い出せたら、今年もボケずにいられるかも(笑)

最初は、兵庫県篠山市にある「昭和百景館・ささやま屋」にある『猪突猛神』、猛進でなく猛神。  こういうセンスって漢字の国ならではですね。
一年の初めは神様にお出まし頂いて、バシッと決めていただきましょう。(2009年5月30日:撮影)

こちらの猪さんは、岡山県和気町藤野に鎮座される「和気神社」を守護されている、狛猪の吽形さん。

【和気神社のご祭神『和気清麻呂公』が「宇佐八幡宮」に参詣しようとした折、どこからともなく、約三百頭の猪が突然現われて、八幡宮までの約十里の道を無事にご案内した(「日本後紀」巻八)。】
以上により「猪」は清麻呂公の随身、また足腰の守護として崇められています。(2007年5月4日:撮影)

京都南禅寺の塔頭寺院「聴松院」『摩利支天』をお祀りする本堂の前で、今にも駆け出しそうに一帯を守護する猪さんです。陽炎を神格化した『摩利支天』は、猪の背中に乗って移動するそうです。(2005年11月26日:撮影)

篠山市後川新田にある「湯の花温泉」、冬の味覚は何といっても「ぼたん鍋」。昔から「獅子に牡丹」という諺があり、そこから獅子を猪に置き換え、猪肉をボタン肉と呼ぶようになったことに由来します。(2009年5月30日:撮影)

兵庫県赤穂市に鎮座される「大石神社」に奉納されていた干支の猪さん。奉納年を見ると順次奉納されてるようで、多分今は十二支全部揃っているかもしれません。(2010年8月9日:撮影)

キャラクター化された猪は、篠山市マスコットキャラクターの『まるいの』。篠山にすむ明るく元気なイノシシのおさむらいで、丹波篠山のおいしい黒豆や山の芋が大好きだそうです。(2009年5月30日:撮影)

岡山県高梁市頼久寺町にある「頼久寺」『足利尊氏』が諸国に命じて建立させた安国寺の一つ。こちらの境内には、小坊主さんにじゃれて遊ぶウリ坊(子猪)がいました。(2010年8月11日:撮影)

山口県岩国市今津に鎮座される、旧岩国17ヶ庄の産土神「白崎八幡宮」。こちらにも干支の石像が奉納されており、そこから「親子猪さん」。社伝によれば、建長2年(1250)に領主・源良兼が創建した神社とされています。(2015年11月19日:撮影)

岡山県備前市伊部に鎮座される「天津神社」は、1579年に創建された備前焼ゆかりの神社です。ここには何種類もの備前焼の干支が奉納されており、この猪さんもその一つ。(2006年9月30日:撮影)

猪の神様で始まった猪尽くし、最後はめでたく末広がりの扇面に焼かれた招福の猪さんです。兵庫県南あわじ市松帆慶の「慶野松原内・鬼愛街道」の、扇面瓦の猪さん。三州瓦、石州瓦と並ぶ日本三大瓦の一つ淡路瓦は、美しい銀色のサエが特徴とされる「いぶし瓦」です。(2010年9月18日:撮影)

今年一年、誰にとってもよき年でありますように、年の初めの目出度さを寿いで(*^^*)

皇紀2679年 元旦

 

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