車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

野口英世記念館 in 福島県猪苗代町三ツ和前田

2024年11月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

磐梯山の麓、猪苗代湖畔の自然豊かな三ツ和村(現:猪苗代町)で生まれた『野口清作』・・・と言って馴染みのない人も、『野口英世』と言えば、ああ!と頷く筈。

JR東日本:磐越西線猪苗代駅の駅前に建立されている「野口英世三体像レリーフ」

「猪苗代町の生んだ偉人として 今も町民の尊敬を集める野口英世博士 (1876 1928) は 梅毒病原スピロヘータ純培養の成功 (1911) 黄熱病の研究などで世界的にその名が知られ 当時世界の医聖と謳われた方ですが 博士の生涯に深い影響を与えた母堂シカ、少年 野口の英才を見いだし学費を与え勉学の志を助けた小学校訓導小林栄先生、その他大勢の人々の真心を今に伝えるため 博士が好んで書かれた直筆の“忍耐”の文字を彫り込み、三体像のレリーフを結成25周年の記念として建立しました。 また出生地 翁島三城潟には生家が保存され、記念館があります。」現地案内より

猪苗代町三ツ和前田に建つ「野口英世記念館」「後世に科学者野口英世の業績と生涯を伝える」をコンセプトに、ロックフェラー医学研究所とメリー未亡人から寄贈された英世の遺品等を公開して昭和14年(1949)に開館。

その後2013年、新たに公益財団法人として開館。野口英世が16歳まですごしていた生家を、場所も大きさも当時のまま保存、公開しています。

『野口清作』、明治9年(1876)11月7日。『野口 佐代助・野口 シカ』の長男として誕生。

生家には、清作が1歳半の時に落ちてやけどを負った囲炉裏や、上京時に床柱に刻んだ決意文が当時のままに保存されています。

明治29 年(1896)、19歳の英世が医術開業試験受験のため上京する時、生家の床柱に刻んだ「志を得ざれば再び此地を踏まず」。翌年医学開業試験に合格し、医師の資格を得ます。

シカさんが洗い物をしていた小川。

明治33年(1900) 友人知人らに数々の金銭的不義理を重ね、単身渡米。北里の紹介状を頼りにフレクスナーのもとでペンシルベニア大学医学部での助手の職を得、蛇毒の研究というテーマを与えられた英世。その論文は同大学の理事からも評価され、その後、幾つかの経緯を経て、明治37年(1904)ロックフェラー医学研究所に移籍。

明治44年(1911)、アメリカ人女性『メリー・ダージス』と結婚。横顔の女性像は、英世が描いたメリー夫人の肖像画。

「忍耐は苦し、されどその実は甘し」。英世が好んで使った「忍耐」の書

「孝養」、母を想ってだろうか・・だったら良いなと思ってしまう。

次々と目を引き心を奪われる沢山の展示品・・その中で一際心に深く突き刺さり、染み込んだのは朗読に併せて映し出された「かな文字」が並んだ二枚の手紙。母シカさんが英世に宛てた手紙がスクリーン一杯に写しされた時、思わず漏れた自身の嗚咽を抑えきれませんでした。

「はやくきてくたされ はやくきてくたされ はやくきてくたされ はやくきてくたされ  いしよ(一生)のたのみてありまする」「にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。ひかし(東)さむいてわおかみ。しております。きた(北)さむいてわおかみおります。みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。」「ついたちにわ しをたち(塩断)ちをしております   ゐ少(栄昌)さまについたちにわ おか(拝)んてもろておりまする なにおわすれても これわすれません 」「さしん(写真)おみるト  いただ(戴)いておりまする 」「はやくきてくたされ   いつくるトおせてくたされ   これのへんち(返事)ちまちてをりまする   ねてもねむられません」

明治45年(1912)、シカさんは幼い頃に覚えた字を思い出しながら、アメリカにいる英世に帰国を切望する手紙を出しました。母に思いを馳せるも、既に予定されていた講演や研究を取りやめる事は出来ず、やっと帰国が叶ったのはこの手紙を受け取ってから三年後の大正4年(1915)9月。実に十五年ぶりに故郷の地に降り立ち、母との再会を果たした英世。そうして、シカさんが願かけをしていた「中田観音」へも共に参拝する事も出来ました

約2か月間の滞在中、各地で講演会や歓迎会が催され大変忙しい日々を過ごした英世ですが、東京や関西の講演会の時には、母や恩師と一緒に旅行をしました。シカさんは英世とともに過ごす時間を「まるでおとぎの国にいるようだ」と語ったそうです。

大正4年(1915)11月4日に英世は、横浜からニューヨークへ戻り、大正7年(1918)、黄熱病研究のためエクアドルに出張。その年の11月、シカさんは英世との楽しい日々を後生として永眠。感傷かもしれませんが最後の二か月で親として最高の幸せな時間を過ごせたシカさんの事を想うと、不思議なほど温かい涙が流れてきます。偉大な功績を残した野口英世。人の親である私から見れば、これ以上ないくらい薄情者で日本一の親不孝者。そして・・・世界一の孝行息子だったと、この写真を見返す度に心底から思うのです。

敷地内に今も残る「シカさんが植えた桑の木」

英世はその後も精力的に研究に没頭し・・昭和3年(1928)、西アフリカのアクラで黄熱病の研究中に罹患し殉職。51歳の若さでした。

昭和3年(1928)年「勲二等旭日重光章」受賞

野口英世が亡くなった翌年、生家の庭に二つの記念碑が建てられました。一つは大正4年(1915)に英世が帰国した時、母校翁島小学校に贈った文字「忍耐」と猪苗代町長に贈った英語およびフランス語の文字を彫った碑。もう一つは「野口英世誕生地碑」。碑の下には、アメリカのメリー夫人から送られてきた英世の遺髪が納められています🙏

訪問日:2015年6月27日

コメント (4)
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