国指定登録文化財「羅漢寺・五百羅漢」。高野山真言宗寺院「石室山 羅漢寺」、『阿弥陀如来』を本尊とします。大森町三百水の地、眼前に広がる山肌にこの石窟が出来上がったのは明和3年(1766)3月。
福光石で作られた反り橋の先、中央の石窟には『釈迦三尊』。左の石窟には『阿難尊者(あーなんだそんじゃ)』を中心に251体の羅漢像。右の石窟には『木蓮尊者(もくれんそんじゃ)』を中心に、250体の羅漢像が安置されます。
厳しい環境の銀山で働く人たちの寿命は短く、30歳まで生存できれば祝いの膳が供されたと云うほどに・・
これらの羅漢像は、銀山で亡くなった人々を供養する為、石見銀山御料内の福光村石工「坪内平七一門」が二十余年の歳月を費やし完成させました。250年近くの歳月を超えて、今もなお様々な表情、思い思いの仕草で羅漢に会いに来る者を優しく迎えてくれます。
五百体の羅漢像が安置される石窟・・・羅漢寺はこの五百羅漢を護るために建立されました。 石窟の前を流れる銀山川の支流、そこに架かる返り橋、すべてが当時のまま、今に至っています。
日本を代表する鉱山遺跡として、昭和44年に国によって史跡に指定された「石見銀山遺跡」。2007年7月2日には、ユネスコの世界遺産にも登録されました。個人的にはユネスコの世界遺産は全くどうでもよいと思っているのですが(笑)、それによって大森の町は一躍有名になり、世界各国から多くの人が訪れるようになりました。大森の町を貫く通り沿いの岩盤の上に、世界遺産の町並みを一望できる「観世音寺」があります。
創建は不詳、寛政12年(1800)の大火で類焼し、その後再建され今に至っているとか。 江戸時代には石見銀山の大盛を祈願する寺とされていたそうで、上段には本堂、山門、鐘楼が残されています。
石段の上り口には、鉱山で目を傷めた人の祈願所でもあった一畑薬師を安置。石段の急な高さに躊躇しましたが、ここまで来て引き返すのは何とも悔しいではないですか(笑)
と言うことで、お薬師様への参拝をすませ、ご亭主殿の手を借りて上まで。石州瓦の赤が五月の空の下で輝くさまは、まさに日本人の美意識を目覚めさせるに十分。
町歩きの途中で見かけた立派な山門は、石見銀山史跡「勝源寺」。大久保石見守長安と、竹村丹後守道清が大旦那となって、1601年に建立。当時、石見銀山は「天領」と呼ばれ、幕府から任ぜられた奉行・代官の下、一大産業都市として栄えていました。勝源寺は、そんな奉行・代官の菩提寺として、また石見銀山の天領の象徴として、長く親しまれてきました。
この寺の四脚門に龍の彫刻があり、それ自体は特に珍しいことでも何でもありません。ところがこの龍、毎夜水を飲みに抜け出すと言うのですから、何とも奇怪至極。
困り果てた村人たちは、龍の目に竹釘を打ちつけて、動けないようにしたと伝えられています。目に竹釘って・・・せめて足とか(-"-)
阿吽の獅子はビックリするほど現代的な顔立ち。カードゲームにでも出てきそうな親しみやすいキャラ顔(^^♪
それにしても四脚門の貫から境内を見下ろす獅子の、何とも人相・・否、獅子相の悪いこと(^^;) むき出した歯はガチガチと歯噛みの音を立て、今にも何かに襲い掛かろうとしているみたい。
苦虫をかみつぶしたような・・とは、まさにこんな表情を言うんですね。
境内には、勝源寺の大旦那となった「石見銀山奉行・竹村丹後守道清の墓所」があります。家康の信任も厚く、世界の銀産出量三分の一を占めていた石見銀山で二十二年も奉行を務め、江戸幕府の財源を守ってきた竹村丹後守。今、五月の緑の中に眠るかの人は何を想うのでしょうか。
訪問日:2013年5月23日
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