豊岡市出石町宮内に鎮座される「出石(いずし)神社」。御祭神は『伊豆志八前大神(いずしやまえのおおかみ)・天日槍命』。式内社で但馬国一宮、旧社格は国幣中社。「出石大社」「出石大神宮」とも称されます。2011年、2014年の二度に渡る参拝です。
創立年代は不詳。「谿羽道主命と多遅麻比那良岐と相謀って、天日槍命を祀ったと伝える。諸書によれば奈良朝時代すでに山陰地方有数の大社であった事がうかがわれる。但馬の国一宮として別名を一宮さんの呼び名で尊敬され、当時泥海であった但馬を瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流し、現在の豊沃な但馬平野を現出され、円山川の治水に、殖産興業に功績を遺された神として尊崇を集める。また、鉄の文化を大陸から持って来られた神ともいわれる。」社伝一宮縁起より抜粋
大正8年9月建立の一の鳥居を潜り、奉納灯篭がズラリと並ぶ参道を進むと二の両部鳥居。鳥居額は「一宮」。
二の鳥居左右より神域を守護されるのは、明治39年(1906)11月建立の出雲丹後系の狛犬さん一対。阿形さんは顎から下を無くされたようですが、それでもさすがの貫禄。
あざやかな丹塗・八脚門の神門
神門脇に置かれていた「出石町指定文化財 旧鳥居残欠・2基」。昭和8年(1933)の出石川改修の際に出土した木製鳥居の基部で、作られた時期は不明。
大正3年再建の入母屋造り平入り舞殿形式の拝殿
拝殿前の縁より神域を守護される木製の神殿狛犬さん一対。阿吽共に角を持ち、首には不似合いなほど大きな鈴が下げられています。僅かに残る彩色の跡も気になりますが、重大な相談事でもしているかのような姿が気になって・・気になって(^^;)
拝殿から続く渡り廊下と祝詞殿。
大正3年再建の三間社流造りの本殿。社殿はいずれも豊岡市指定文化財。
泥海であった但馬を瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流したという「天日槍の蹴裂(けさき)伝説」が描かれた絵馬。
社殿の右手、禁足地へ向かう参道の脇に鎮座される「境内社:比賣社」。ご祭神は『麻多島(天日槍の妻)』と「境内社:夢見稲荷社」。
拝殿の左に鎮座される「境内社:天神社」
休憩所に保存展示されていた出石神社所有の手押しポンプ車
丹塗りの手水舎
境内の一画に、出石町出身で「治水の神様」と言われた『沖野忠雄 氏』の顕著碑。
最初の参拝は2011年3月の夕刻。参道の灯篭に入った灯の暖かさが泣きたいほど綺麗だったことを今も思い出します。
神社からさほど遠くない(と思う)小野川に架かっていた「ひぼこ橋」の親柱。「天日槍の蹴裂(けさき)伝説」がモチーフと思われます。
参拝日:2011年3月30日&2014年11月21日
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御神名一口メモ
『伊豆志八前大神(いずしやまえのおおかみ)』、天之日子が携えていた八種の玉津宝(珠二貫、浪振るひれ、浪切るひれ、風振るひれ、風切るひれ、奥津鏡、辺津鏡)を神格化したもの。
これは当地を開拓しコミュニティの始祖となった人物、もしくは一族が神格化されたんでしょうね。
一方で注目すべきは「鉄の文化を大陸から持って来られた神」
これは但馬を開いた勢力=大陸から鉄の文化を持ち込んだ勢力なのか?
はたまた但馬を開いた勢力をのちに鉄の文化を伝えた勢力が征服し、その後同一神化されたのか?
で解釈は異なるんですが、いずれにしても以前話題にした但馬は大陸とヤマトを結ぶ重要拠点だったという裏付けになるような伝承ですねえ。
本当にそうでしょうか?
有り得ないような話の中に、沢山の出来事が示唆されてる・・私にはそんな風に思えます。
そうして突き詰めていくと「ああ!」と合点の行く事が結構沢山ある。
まっちさんの解説は、非常に興味深くて分かりやすく、おかげで何度も「ああ!!」と膝を叩かせてもらっています(^-^)