かって伊勢国鈴鹿郡亀山にあった「亀山城」、別名「粉蝶城(こちょうじょう)」。文永2年(1265)に伊勢平氏の流れをくむ『関実忠』によって伊勢国鈴鹿郡若山に築城され、その後、関氏の時代のうちに現在の位置に移されます。
天正11年(1583)には『蒲生氏郷』が城主となり、更に七年後の天正18年(1590)に『岡本良勝』が入城。この時、天守、本丸、二の丸、三の丸などの亀山城の母体となる城が形成されたと云います。江戸時代には伊勢亀山藩主の居城となり、寛永9年(1632)『三宅康盛』の代には天守が下ろされます。ところが、これが実はとんでもない間違い(^^;)。何と、丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた『堀尾忠晴』が、丹波国と伊勢国を間違えて伊勢国の亀山城にその命を伝えたんですね。その後の正保年間(1644~1648)『本多俊次』が城主の時に天守跡に現在の多門櫓が建てられました。さらっと書き飛ばしましたが、国名を間違えた堀尾氏はその後どうなったんでしょう??? ああ、ちなみに丹波亀山城の天守は明治の廃城令が出るまで現存していたようです。
東海道の要衝であった事から、何度も何度も城主が変わった亀山城。やがて石川氏の代に幕末を迎え、明治6年(1873)の廃城令によってほとんどの構造物が取り壊されました。今は天守台・多聞櫓・石垣・堀・土塁など一部を残すのみとなりましたが、三重県下において多聞櫓が現位置のまま残る唯一の遺存例である事から、昭和28年に県史跡に指定されました。
平屋建白壁の塗込で屋根は入母屋造り、東西北の三方に破風があり、平時は武器庫として利用されていた多門櫓。
内部の見学が出来ると聞いていたのですが、土日祝のみ・・残念ながら櫓の入り口は閉ざされたまま。
亀山城本丸で使用されてきた「与助井戸」「天正18年(1590)岡本宗憲による亀山城築城の際、この場所にあった民家「与助鍛冶」を城外に移したとの伝承から「与助井戸」と呼びならわされてきました。城外への抜穴伝説がありましたが、確認されていません。」
「飯沼慾斎(いいぬま よくさい)生誕之地」碑。江戸時代の医家で本草学者。スウェーデンの植物学者「リンネ」の植物分類法を最初に採用した「草木図説」を出版しました。
明治17年、近藤鐸山ら同志によって亀山城址に建立された「黒田孝富遺剣之碑」。
「亀山城楠門址」
「史蹟・明治天皇亀山行在所遺構・三重県」(市指定有形文化財)
明治13年(1880)7月10日~11日、『明治天皇』は大阪鎮台・名古屋鎮台兵対抗演習天覧のため行幸され、亀山の藤屋でニ泊されました。その折に玉座として使われた建物が亀山城跡地に移築されています。
江戸時代、南崎権現社の神官であった「大久保家の棟門」(市指定文化財)。かって亀山西小学校の裏門として使われていましたが、後にこの地に移築されました。
本丸跡に鎮座される「亀山神社」。御祭神は『源義家公・源義時公・石川義純公』
鳥居の両脇より神域を守護されるのは、浪花系狛犬さん一対。雨の下と言う悪コンデションながら、とても良いお顔をされています。
「拝殿」、御朱印をと喜んだJさんですが、呼びかけに答えてくれる方はおいでになりませんでした。
明治32年(1899)10月1日、心形刀流剣術:亀山演武場の門人たちによって亀山神社境内に建立された「山崎雪柳翁遺剣之碑」。表碑文は西郷従道。
「亀山演武場」
亀山公園として整備された楠門跡に展示されていた「蒸気機関車 C58359号」
「JA3015」
生憎の雨で足場が悪く、石垣や土塁などをじっくり見て回る事が出来なかったのは残念ですが、始めから終わりまで三人だけの貸し切り状態。まぁ、これはこれで良しでしょう(笑)
ラストの画像は亀山市野村3丁目。樹齢400年の椋の巨木がそびえ立つ「野村一里塚」。三重県下で唯一原形をとどめる貴重な遺構として、国史跡に指定されています。
訪問:参拝日:2015年9月6日
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