車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 愛媛県旧長浜町(大洲市)

2020年12月12日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

旧喜多郡長浜町(ながはまちょう)は愛媛県の南予地域に位置した町です。大洲市、八幡浜市、伊予郡双海町、西宇和郡保内町に隣接。市街地は肱川河口部に集中し、肱川及び伊予灘の海岸線に沿って集落が点在。肱川の舟運によって古くから栄え、かつては上関(山口県)へのフェリー航路も就航していました。明治時代から、木材を筏に組み河口へと運ぶ筏流しが盛んになり、肱川を下ってきた木材や蝋の集散地・積み替え港として繁栄。日本の木材の三大集散地の1つに数えられていました。「町の木:珊瑚樹」「町の花:サルビア」「町の花木:サツキ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、喜多郡長浜町・喜多灘村・櫛生村・出海村・大和村・白滝村が発足。

1955年、長浜町と喜多灘村、櫛生村、出海村、大和村、白滝村が合併、新たに喜多郡長浜町が発足。

2005年、大洲市、喜多郡肱川町、河辺村と合併、大洲市長浜町となりました。

マンホールには、船舶の航行にあわせて跳ね上がった状態の「長浜大橋」がデザインされています。

昭和10年(1935)8月に完成した「長浜橋(赤橋)」は、現役で動く日本最古の跳ね上げ式可動橋(バスキュール式開閉橋)として、2009年2月6日に国の近代化産業遺産として、また2014年12月10日には国の重要文化財に登録されました。

昭和39年12月21日制定の町章は「蛇の目は、旧藩主加藤家の紋所 で、同時にその丸形は歴史と和を 表し、青は伊予灘の碧い海、海運 水産の港町を表し、黄金色は金山 の金、みかんの黄の豊かさを表し ている。 さらに、逆三角形は肱川河口の 三角州(長浜)をかたちどり、町 の将来を末広がりになぞらえ、限 りない発展と期待を意味する。」合併協議会資料より

昭和初期の洋風庁舎建築が残る「長浜町庁舎」・・内子町の本芳我家住宅によく似た造りの「末永家住宅旧主屋」・・一番残念だったのは「登貴姫」ゆかりの観音立像を有する「沖浦観音:瑞龍寺」・・の、門前を素通りしてしまったと後になって気が付いた事・・はぁ~~~~~😥

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旧喜多郡肱川町(ひじかわちょう)は愛媛県の南予地方、肱川の中上流域に位置した町です。大洲市、西予市、喜多郡内子町・河辺村に隣接。「町の木:松」「町の花:ツツジ」を制定。

1889年、町村制施行により、大谷村、宇和川村、河辺村が発足。
1943年、喜多郡大谷村、宇和川村、河辺村が合併し、肱川村が発足。
1959年、肱川村が町制施行し、喜多郡肱川町が発足。
2005年大洲市、喜多郡長浜町、河辺村と合併、大洲市肱川町となりました。

昭和43年制定の町章は「「町の中心を流れる一級河川「肱 川」をそのまま表し、三本の線は (川)は「町民の鐶」「地域の鐶」 「町の鐶」を求めている。 (鐶(かん):輪の意味)」合併協議会資料より

旧肱川町では、ご当地マンホールの類は発見できませんでした。

撮影日:2015年2月25日

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旧喜多郡河辺村(かわべむら)は愛媛県の南予地方に位置した村です。西予市、喜多郡内子町、喜多郡肱川町に隣接。村域は河辺川の上流域にあり、四方を山に囲まれ隣接する町との往来も険しい峠道を越えてになり、地形は急峻。全面積の8割以上が山林の村です。「村の木:モミジ」「村の花:ツツジ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、喜多郡山鳥坂村(やまとさかむら)・奥南村(おくなむら)が発足。

1909年(明治42年)1月1日 - 山鳥坂村、奥南村が合併、喜多郡河辺村が発足。
1943年、上浮穴郡浮穴村大字北平・川上を編入。
1943年、河辺村、大谷村、宇和川村が戦時体制強化のため強制的に合併、肱川村が発足。これにより河辺村は消滅。
1951年、河辺村が肱川村から分離して発足。
2005年、大洲市、長浜町、肱川町と合併、大洲市川辺町となりました。

昭和57年制定の村章は「「かわべ」を図案化。円は村民 の和を、上部の翼は飛躍・発展を 象徴します。」合併協議会資料より

(※)旧河辺村に関しては未訪問のため、マンホールの有無は確認できていません。

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ふらり~大洲の町歩き in 愛媛県大洲市

2020年12月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

鵜飼で有名な大洲市、肱川沿いには鵜飼い見物用の屋形船が一列に行儀よく並んでいます。

肱川と市街地の間に、まるで城壁のように整備された水門。おそらく、暴風雨の度ごとに氾濫を繰り返す肱川の洪水に備えてでしょう。でも確かめていないので違うかも😅

水門のすぐそばの建物は、窓部分を覆う網などから考えて「川鵜」の飼育所ではないかと思われますが、確認したわけではないので詳細は不明。耳を澄ましても鳴き声は聞こえないし、もしかしたら空なのかもしれません。

場所的に肱川の鵜飼いのみに注目が集まりがちですが、付近には素敵な見どころが沢山残されています。まずは明治34年(1901)に「大洲商業銀行」として建築された「大洲赤レンガ館」。イギリス積みの煉瓦建築で、屋根には和瓦を葺き、鬼瓦に商の字を入れた和洋折衷の様式が特徴です。

現在は「おおず赤煉瓦館」として、大洲の特産物や、地元の作家による手づくりの和小物~雑貨等を販売。別館では「なつかしの映画コレクション展」として、撮影カメラ・映写機・映画ポスターなどが多数展示されています。

美しく積み上げられた煉瓦の一枚に「イヨ大洲原」という刻印を見つけました。説明には「日露戦争の後、原千代吉という人物が、大洲市梁瀬に煉瓦工場を設立。ここに使われた煉瓦がその当時のものである」の旨が記されています。

某局の連続テレビドラマ『おはなはん』のロケ地として使われた大洲の町並。赤い郵便ポストが似合う曲がり角、どこかの家の向こうに見える小さな山。

なまこ壁の家や腰板張りの土蔵群などが残る町並は「おはなはん通り」と名づけられ、ちょっとした観光名所になっています。

母が「大好きだった」といつも話してくれたドラマ・・ロケ地に行ってきたよと話したら、どんな顔をしただろう?この写真を見せてあげたら どんなに懐かしがってくれただろう・・・できるのにしなかった悔いが、小さな棘のように刺さって抜けません。

多分、ロケが敢行された当時はとても賑やかで、町中が人であふれていたのでしょうが、今はそれほど目立った観光客の姿もなく・・特に今日は平日と言うこともあり、とても自由にゆっくりと歩くことが出来ました。

臥龍山荘・大洲神社の参拝も終えた「ふらり~町歩き」の最後は、駐車場まで戻る途中に見かけた綺麗な石垣。「あれはね、矢羽積みという組み方だよ。」ちょっと得意げに教えてくれたご亭主殿。「うん、知ってる」の言葉を飲み込んで「綺麗だね~」😄

訪問日:2011年6月13日

コメント (2)
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大洲神社 in 愛媛県大洲市大洲

2020年12月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

大洲市大洲神楽山に鎮座される「大洲神社」。御祭神は『大国主命・事代主命』。巨大な昭和燈がそびえ立つ長い石段が表参道となります。

臥龍山荘を訪ねた際にお見かけした神社。私たちは裏参道から参拝させて頂きました。タイミングと時間が合う時に出会える神様の領域は、きっと何かの縁の故。画像が少ないのは後に気が付いた事ですが、本当に気持ちのよい境内でした。

由緒「宇都宮家譜によると、元弘元年(1331)・鎌倉時代、宇都宮豊房が大洲城を築きしとき、場内総鎮守神として下野國二荒山(ふたらやま)神社より勸請し、太郎宮として斎祭される。 戸田・藤堂・脇坂を經、元和3年加藤貞秦城主となり、先例によって祈願所と定めて崇敬し、以下歴代の藩主の尊崇厚く境内池、社殿の造営・修復、祭器具等の寄進がたびたびされ、『旧縣社』に列せされる。」公式HPより 

表参道石段途中より神域を守護されるのは、明治17年(1884)9月3日建立の浪速タイプの狛犬さん。眉が太く鼻の大きな阿形さんの顔立ち、どこかで見かけた「おっちゃん顔」😄。

拝殿前より神域を守護されるのは、文政10年(1827)10月建立の玉乗り狛犬さん。真面目くさった顔の吽形さん。高らかに笑う阿形さんは、本当に楽しそう。

ゆかしい造りの「祓殿(はらえどの)」。祭事において禊(みそぎ)が行なわれる場所です。

貫禄も威厳も、十分すぎる程蓄えた鬼

今にも高い空を目指して飛び立ちそうに、大きく口を開き、頭上を見上げる向拝の龍。

天井には、波間より登る太陽を中心に十二支の板絵。外からではその一部しか捉えられないのがもの凄く残念。

「祓殿」の左前には、まだ新しい「梟・大黒様・波・鯉」のモニュメントが奉納。はてさて、何の判じ物でしょうか?  大黒様がいれば、恵比寿様も当然おいでになる訳ですが、こちらは少し離れた場所に竹の釣竿と立派な鯛を抱えて据わっておられます。

拝殿に奉納されていた「算学」絵馬。17世紀中頃、武士や庶民の間で流行ったと言ういわば高等数学の問題と解が記されたものですが・・理数系に疎い私には・・・😔

境内に聳えるご神木は、大洲藩主:加藤泰秋公の植樹と伝えられる「木豇豆(きささげ)」。高木で水気を好むため避雷針がわりに利用されることも多く、雷除けの木といわれています。

狛犬撮影のために表参道の石段を降りていたご亭主殿の前に突然現れた「タヌキさん」。デジカメを構えるご亭主殿を見上げ、写真を撮り終わるまでその場に居てくれたそうです。

大洲神社の裏参道に奉られていた「七十九番・高照院の石仏」。さらにずっと古い年代と思われる石仏さん。仲良く寄り添うように建立されています。

参拝日:2011年6月13日

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臥龍山荘(がりゅうさんそう) in 愛媛県大洲市

2020年12月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

肱川随一の景勝地「臥龍淵」を臨む「臥龍山荘」。建物は「臥龍院(がりゅういん)、不老庵(ふろうあん)、知止庵(ちしあん)」から成っており、それぞれに数寄を凝らした建築様式を見ることができます。

「明治時代の豪商で木蝋貿易に成功した『河内寅次郎』が、老後の余生をここで過ごしたいと、大洲随一の景勝地であるこの地に明治30年頃から10余年をかけて築造した別荘。寅次郎氏は、明治42年10月に亡くなっており、居住はごく短期間でした。寅次郎氏亡き後、養子の陽一氏は一時、弟の上甲文友氏に管理を委任。その後昭和20年、戦災のため、陽一氏は大洲に引き揚げてこの地に常住しました。昭和53年3月20日にこの地を陽一氏より譲り受けて保護管理することとなり、昭和55年春より大洲市の観光拠点として一般公開されるようになりました。」大洲市HPより

黒門の向こうには、庵そのものを船に見立て、臥龍淵の崖の上に建てたという「不老庵」

「乱れ積み」「末広積み」「流れ積み」と変化を持たせた石積みの中に繁茂する生きた「チシャの木」。石垣の中に埋め込まれた「石臼」。長い年月を経て独自の景観を生み出した景色は、大洲の最も心惹かれる風景として心に残りました。

本来ならゆっくりと時間を取って内部の見学をしたかったのですが、あまりにも詰め込み過ぎたスケジュールが「ダメダメ! 絶対に無理だよ」と耳元で警鐘を鳴らし続けています。

位の高い門跡寺院などを表す五段の筋塀、それよりもさらに多い六段は何を意図しているのだろう。明治も終わりのこの時代、それを言う人はいなかったのか、それとも相応の位を得ていたのか・・ただ単に、塀の高さの為に必要だっただけなのか・・

塀越しに見える風雅な佇まい、見たい景色が一杯ある。

それでも計画を練る時に一応納得したのだから、それは誰の所為でも無い。ましてご亭主殿に文句を言う筋合いなど、これっぽっちも無い。

長い長い塀沿いの道を上りながら、「ねぇ、またいつか、もう一度ここに来られるかな?」と、何でもない風で聞いてみる。

訪問日:2011年6月13日

(※)2016年7月25日、「臥龍山荘 臥龍院・不老庵・文庫」の3棟は、国の重要文化財に指定されました。

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ご当地マンホールとマンホールカード第6弾 in 愛媛県大洲市

2020年12月08日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

大洲市(おおずし)は愛媛県の南予地方、肱川の中下流域に位置する市です。2005年1月11日 - 喜多郡長浜町・肱川町・河辺村と新設合併し、改めて大洲市が発足しました。八幡浜市、西予市、伊予市、喜多郡内子町、松山市。更に海上を隔てて、山口県大島郡周防大島町、柳井市に隣接。市域は肱川の中下流域からなり、特に旧大洲地域は肱川と矢落川とが合流する地点で盆地を形成。さらにその下流に向かっては谷を形成しつつ、長浜地域にて伊予灘に注ぎ込みます。

キャッチフレーズは、「みとめあい ささえあう 肱川流域都市」

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旧大洲市は愛媛県の南予地方に位置した市です。西予市、八幡浜市、喜多郡長浜町・肱川町・内子町、伊予郡双海町に隣接。伊予大洲藩の城下町として発展、「伊予の小京都」と呼ばれています。「市の花木:つつじ」を制定

明治22年(1889)、町村制の施行により、西宇和郡大洲町・平野村・粟津村・三善村・上須戒村・南久米村・菅田村・新谷村・柳沢村・大川村が発足。

1898年、境界変更により西宇和郡から喜多郡へ移管。

1954年、喜多郡大洲町、平野村、粟津村、三善村、上須戒村、南久米村、菅田村、新谷村、柳沢村、大川村が合併、市制を施行して大洲市となりました。

マンホールには「大洲の鵜飼」と、「旧市の花:ツツジ」がデザインされています。

「水郷大洲の鵜飼い」は、岐阜県長良川・大分県日田市三隈川とともに、日本三大鵜飼いに数えられています。

1994年7月1日制定の市章は「大洲藩主加藤氏の家紋「蛇の目」を基に図案化したもので青色は清らかな肱川の流れ、人々の知的で澄んだ心を表しています。2005年新大洲市発足時に継承されました。」公式HPより

町の名所案内を兼ねた路上絵は「大洲赤煉瓦館」「おはなはん通り」など、他にも何種類か設置されています。

撮影日:2011年6月13日&2015年2月25日

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2017年12月9日、第6弾として全国64自治体で66種類(累計252自治体293種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「大洲市」のマンホールカードは、「大洲まちの駅 あさもや」でいただけます。

2016年に設置開始されたマンホールには「大洲のうかい」がデザインされています。

「大洲市内を流れる一級河川「肱川」と、その清流で行われる「大洲のうかい」、そして、大洲盆地中心部に位置する冨士山(とみすやま)の「ツツジ」をデザインしたマンホール蓋です。 大洲のうかいは日本三大鵜飼のひとつに数えられ、屋形船と鵜船並走することから、見物客は、鵜が鮎を捕える様子を間近に見ることができます。 一方のツツジは市の花木で、春の大型連休になると冨士山では約6万3千本が咲き誇り、まるで赤やピンクの帽子をかぶったように鮮やかな装いを見せます。 本マンホール蓋は、そんな見どころ満載の大洲観光の玄関口、JR伊予大洲駅前のふれあい南通りに設置してあります。」

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大瀬・小田地区を行く in 愛媛県内子町

2020年12月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

内子町の北東部にあたる小田川の流域に位置する「内子町大瀬(おおせ)」。江戸時代に大洲藩領であった大瀬地区は、近隣の村々の物流拠点となり、手漉き紙や木蝋、鮎漁などで栄えてきました。

「出格子窓が整然と並ぶ旧家の趣を残した町並」というフレーズに惹かれて立ち寄ったのですが・・内子の町並を見た後では・・何か違う😔

確かに歴史を感じさせる建物は並んでいるのだけど、通りもとても綺麗なのだけど・・とは言え、折角立ち寄ったのだからこのまま終わりにするのは如何にも勿体無い😅

流石に観光案内にも掲載されている町並み。その気になって歩けば、こんな鮮やかな鏝絵と遭遇しました。「岩場の上で鯛を釣りあげる恵比寿さま」、なんと、鯛の巨大なこと。

「新倉」と言うのがこのお宅の屋号のようですが、この鏝絵だけ見ると鮮魚店のようにも見えるし、でも店構えが全然それっぽくないし、仕出し?旅館?・・・結局分からないまま😩

石段の先の建物は大瀬中央にある「大瀬の館」。明治中期に建てられた旧大瀬村役場を改修。1階はラウンジ、 2階は宿泊施設として活用されているそうです。

私たちが行った時はとても開館しているようには見えず、外観だけを見て引き返したのですが、後で「大江某」関連の作品展示室を備えていたと知り「そうなんだ、寄らなくて正解だったね」

集落を後にし、道の駅に向かって車を走らせていた380号線で、お遍路さんを追い越しました。このまま歩けば旧小田地区に入るコース、これからかなりの距離を歩かれるのでしょう。御大師様に守られてのお遍路、どうぞお気をつけて🙏🙏

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橋は、集落と集落をつなぐ道、いつの間にか旧小田町へ入ったみたい。小田川に架かる「観音橋」に刻まれているのは「千手観音像」だろうか?・・この近くには千手観音を本尊とする札所は無かったと思うのだけど・・

旧上浮穴(うけな)郡小田町(おだちょう)は愛媛県の中央山地部に位置した町です。東は美川村・柳谷村、南は野村町・河辺村、西は内子町、北は久万町・広田村に隣接。町のほぼ中央を肱川支流の小田川が東西に流れ、内子町に接する地点、突合で上尾峠を源とする田渡川と合流、内子町・大洲市を経て瀬戸内海に注いでいます。町の南東部を占める小田深山は、標高820mから1,500m。4,500ヘクタールに及ぶ大森林地帯で、ブナなどの原生林も多く、奇岩怪石、豊富な水と共に雄大かつ風光明媚な小田深山渓谷を形づくっています。「町の木:杉」「町の花:藤」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、、上浮穴郡小田町村・石山村・参川村・田渡村が発足。

1943年、小田町村と石山村が合併、上浮穴郡小田町村が発足。

1955年、小田町村、参川村、田渡村が合併、町制を施行し上浮穴郡小田町が発足。

2005年、喜多郡内子町、五十崎町と合併し、新たに喜多郡内子町となりました。

昭和41年7月20日制定の町章は「「小田」を図案化し、杉を三つの山で表したものです。」

小田川に架かる「登貴姫橋」。平安末期、壇ノ浦の戦いに敗れてこの地に落ち延びてきた平清盛の五女:登貴姫は、1年と4ヶ月後・・病のため16歳で他界。

家来や村人たちは、清盛寺の境内に五輪の塔を建て姫の亡骸を手厚く葬りました。その折、姫の袂にあった八房の梅を傍らに埋めたところ、美しい八重の紅梅を咲かせるようになったとか。その梅は、今も季節毎に馥郁とした香りを漂わせているそうです。

旧上浮穴郡小田町では、ご当地マンホールの類は発見できませんでした。

訪問日:2013年3月26日

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内子座 in 愛媛県内子町

2020年12月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

明治末から大正にかけて、内子の町が木蝋や生糸などの生産で栄えていた時代・・・大正5年(1916)、大正天皇の即位を祝うという名目のもと、純和風様式の本格的な芝居小屋「内子座」が建築されました。

木造2階建て瓦葺き入母屋造り。内部には回り舞台に花道、そして枡席。娯楽の少なかった当時の庶民にとって、ここでの芝居興行は大きな楽しみの一つであったといいます。

この日に限っては一張羅の着物に着替え、酒肴を、あるいはお重に詰めたお弁当を持参して「芝居見物」に行く・・何よりも楽しみな時間であったことは想像に難く有りません。 時代が変わった今は、観光パンフレットを持った観光客が何となくワクワクしながら木戸を潜ります😊

館内に入ると左手の鳥屋入り口に「検番台」。これは警官が上演の演目に不適切がないか見張る為のもので、当時の寄席小屋や劇場では必ず備えられていたものです。

花道の裾から見た舞台、右袖が上座側で義太夫席、舞台左袖が下手側で囃子方の席になります。

客席は1階の枡席とその両側の桟敷席、そして私が立っている2階正面が、舞台から最も遠い大向こう席。よく大向こうを唸らせると言われますが、あれですね。大向こう席の両側は、それぞれ二階東桟敷、西桟敷と呼ばれる席になります。

内子座の見所は天井にも、そして足の下にもあります。まずは独特の曲線が美しい格天井、照明部分は更に小さな格天井で仕切られています

花道の七三の位置にある「すっぽん」を降りると、劇場の「奈落」へといたります。足元注意の札が無くとも、蓋を開けた瞬間に背中に寒気が走りました😱 裾に纏わり付く重い衣装を着けてこんな梯子段を駆け下りる役者さん・・「奈落」とはよくも名づけたものです。

石組みに取り付けられた大掛かりな廻り舞台の仕掛けも、かっては全て人力で操作されていたそうですが・・・話には聞いていても実際に見ると圧倒されるばかり。

という事で、記念撮影用の半被をお借りして、「升席ご予約のご一行様、ご案内で~~~す」😄

現在の「内子座」の建物は昭和60年代に復元されたもので、内子町の指定文化財となっています。老朽化のため取り壊されるところを、地元住民の熱意によって改修が決定したそうで、町並の保存と言い、この内子座といい、なんか色々と凄い!

色々とすごい「内子座」、建物の内部も芝居用の設備も凄いのですが、じつは屋根も凄いのです😊  

唐破風の屋根の上で、片手を挙げて招いているのは狐?それとも、まさかの鼠!? 普通、招くと言えば猫を想像しますが、これはどう贔屓目に見ても猫には見えません😅 誰か詳細をご存知のかた、教えてください!!

見所一杯だった「内子座」。木戸を出て見上げたさきに並ぶのは演目を伝える大看板。

安宅関において白紙の勧進帳を読み上げる弁慶。半眼贔屓ならずとも息を呑む見せ場ですが、内子座で演じたのは誰でしょうね。

訪問日:2011年6月13日

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上芳我家木蝋資料館 in 愛媛県内子町

2020年12月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

本芳我家に隣接するのは、本芳我家の筆頭分家「上芳我家(かみはがけ)」。文久元年(1861)、内子木蠟生産の最盛期に建てられた主屋や附属屋など全部で10棟の建物が現存しており、いずれも重要文化財に指定されています。

残念なことに一帯が修理中という事でその外観も釜場などの施設も見学は出来ませんでしたが、「木蠟資料館」の方は見学可能だったので早速入館。
資料館では、木蠟生産の過程が模型や映像を使ってわかりやすく紹介されています。

命綱一本で小枝の絡まる高い木に登って櫨(はぜ)の実を採る。そうして集められた櫨の実は幾つかの過程を経て「木蝋」となります。

何の因果で はぜとりなろた   離れ小枝がおそろしい
はなれ小枝はしぼりもなるが  縄が切れたら命まで
鳥の中でも食われぬとりは     ろうとりはぜとり油とり

資料館の壁に展示されていた「はぜとり節」の歌詞。危険で辛い作業であっても、生きる糧を得る為の重要な収入源であった作業。そんな状況の中で歌う一節は決して自嘲などではなく、自らを鼓舞していたと・・思いたいのです。

木蝋の生産がもたらした往時の繁栄ぶりを再現した様子が、マネキンを使って再現されています。紋付袴姿の主の服装から見て、接待されているのは商社の役人でしょうか?

当時日本の木蝋は世界的にも優れたものとして海外にも多く輸出されていたといいます。中でも内子の木蝋は、「ホワイトワックス」の名で、複数の万国博覧会において表彰されるという栄誉を受けました。

ガラスケースに蛍光灯が反射しており、決して上等とはいえない画像ですが、これを目にした時の私達の気持ちは、正直に「日本人って凄い!」😊

工事中で無ければもっと多くの資料を見ることも出来たのでしょうが、そればかりは仕方の無いこと・・・叶うならばわたしたちがまだ元気でいられるうちにもう一度・・・

訪問日:2011年6月13日

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本芳我家住宅の鏝絵 in 愛媛県内子町

2020年12月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

八日市:護国を代表する建物の一つ「本芳我(はが)家」。木蝋(もくろう)の生産で財をなした『芳我弥三右衛門』が明治22年(1889)に建てたもので、漆喰塗籠の重厚な建物は、町並みの中でも圧倒的な存在感を放っています。

門の外から拝見した敷地内の様子・・・どこまで続くんだろうと思うほど奥行きが広く、それらを覆うように手入れの行き届いた緑が葉を茂らせています。

建物内部は非公開となっていますが外観の見学は可能との事、さて何所から見ていけばよいのか、上下左右、何所を見てもため息の出そうな誂えばかり。それに加えての規模の大きさ、どう画像に収めれば良いのか・・・

主屋に隣接する浅黄色の土蔵には、当時の商標「旭鶴」の鏝絵が今も往時をしっかりと物語っています。

「鏝絵」の商標が登場しましたが、本芳我家主屋には、それはそれは見事な鶴の鏝絵があるのです。朱に彩色された松の枝、生い茂る木々の間で大きく羽を広げるのは、白い翼を大きく広げて羽ばたこうとする「鶴」

反対側の棟木の懸魚には、東の守り神とされる「雲龍」。鱗の部分にほんの少し加えられた緑と、口中の朱が漆喰の龍に命を吹き込んでいるようです。

本芳我家の代表的景観として紹介される鏝絵ですが、海鼠が美しい漆喰壁の随所にも、精巧で緻密な鏝絵の数々が見られます。二階角の漆喰柱と桟柱には、左右それぞれに一対の鶴と亀。

能の作品にも登場する「鶴亀」、天下泰平、国家の長久を祈念し、祝福するという内容ですが、ここではさしずめ「家内安全、商売繁盛」を祈念してでしょうか。

互いに向き合う鶴亀の間には、波間にあって一際白く輝く「芳我家の家紋:丸に片喰」。

白漆喰の壁を一段と引き立てるのは、黒と白の対照が美しい「海鼠壁(なまこかべ)」

「火に弱い木蝋」を主力商品とした芳我家にとって、最も恐れなければならなかったのは「火」。建物の随所に飾られる漆喰鏝絵には、火防の呪いとされる「亀・波」が随所に施されています。

地味で目立ちませんが、塗り込めの格子窓の枠にも、美しい流紋の鏝絵が見られます。

一箇所でこれだけのものを見せていただけるなんて、そんなに多くありません。まるで取り憑かれたようにデジカメを向け続ける二人・・・まさに至福の一語です😃😃

1990年9月11日、「芳我家住宅」は国重要文化財に指定されました。

訪問日:2011年6月13日

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八日市:護国の町歩き in 愛媛県内子町

2020年12月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

江戸時代から明治時代にかけ、和紙と木蝋(もくろう)の生産で栄えてきた内子。特に木蝋は、その品質の高さから海外でも高く評価され、世界にその名を馳せ、最盛期には全国生産の約30パーセントを占めたと言われています。

「一歩進むごとに時がさかのぼる・・明治の風景がここにある」
町の観光案内に書かれていた風景に出会いに行きます。

まだ重伝建地区ではないのに、早速現れた「鏝絵」のあるお宅。そんなに古い作品ではないと思われる「波紋の中を泳ぐ鯉」

漆喰壁の角には「あばれ熨斗」の意匠。鏝絵大好きな二人の心を早速鷲づかみ😄

江戸から明治にかけて建設された町家や屋敷が建ち並ぶ八日市・護国地区。黒板塀に白漆喰のコントラストは、まさに想像通りの風景!!。テンション上がりっぱなし、最後まで平常心を保てるのかしら😅

どこかのお宅の屋根にいた「恵比寿様・大黒様」。いずれもそれなりの時代を感じさせる佇まいをしておいでです。

道路の脇に立てられた「へんろ道」の道標。ああ、そういえばこの街道筋は「遍路道」としても栄えてきたんでしたね。ひっそりと祀られる野の仏にも線香が手向けられています。

屋敷神の稲荷なのか、それとも村の繁栄を願って勧請されたお社なのか・・稲荷の狐に守られた赤い鳥居も、よい具合に時を経たようです。

丁度「八日市・護国町並保存センター」がオープンしていたので早速お邪魔しました。ここは町並み保存会の事務所も兼ねているとかで、住民主体の町並の普及や研究が行なわれているとのお話。

座敷の目立つ場所に飾られた一枚の「古瓦」。よく見ると何かの模様が・・・・・浮世絵?誰かがわざわざ飾る為に書いたの?と思わず二度見、三度見😲 説明には「当時の職人さんの遊び心」とありましたが、この瓦を担当した職人さん、中々の筆達者のよう。

館内には、町並み保存の歴史や仕組みと共に、建物の建築修理に使われた道具なども展示されており、名称や用途の一つ一つ、興味深く拝見させていただきました。

白漆喰の壁にも、浅黄(あさぎ)色の壁にも、過ぎてきた時代を思わせる出格子の色がとても似合っています。古い家はそのままに、新しい家は周囲の景観を損なわぬように細心の注意を払い・・そうして、この美しい町並みが保たれています。

これほどの規模で保存された町並みは期待通り、いえ、それ以上のものです。それを見て歩ける幸運は決して当たり前に与えられたものではないと、いつも心に思い、余所者の謙虚さを忘れないように心がけます。

さり気なく飾られる屋根の飾瓦、思わず足を停めて見入る鏝絵。まだ木の香も新しげなお宅の二階に見つけたのは、時代を感じさせる「赤い扇面のおかめ」

バッタリと呼ばれる台の上に並べられた素朴なみやげ物の数々。ふと何かの視線を感じて見上げれば、白漆喰の壁にはユーモラスな鬼の鏝絵。

別のお店のバッタリの上では、蔓で編んだ籠の中で看板猫がゆったりと寛いでいます。手を差し出しても動じることなく応じてくれる辺り、年季の入った接客振り😄

重要文化財の建物が残されているからと言うだけで「○○の町並」と名づけた地区も実際に見てきました。でもどんなに素晴らしいお屋敷が一軒、もしくは二軒あったとしてもそれだけ。ここでは全てが整然と存在し、上等の時代劇のロケ現場のように整っています。それでいて此処には普通に暮らす方々の当たり前の日常があるのです。

ペットボトルや空き缶が無造作に捨てられた小川が、いつの間にか見慣れた光景となった私たちには、この清浄な水の色が羨ましく思えてなりません。

旧大洲街道沿いに残る美しい町並は、昭和57年「八日市護国伝統的建造物群保存地区」に指定されました。 

訪問日:2011年6月13日

コメント (2)
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