車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 愛媛県旧城川町(西予市)

2020年12月22日 10時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

旧東宇和郡城川町(しろかわちょう)は愛媛県南部の山間に位置した町です。東宇和郡野村町・北宇和郡広見町・日吉村に。さらに県を跨いで高知県高岡郡檮原町に隣接。高知県との境を接する四国山地に抱かれるように、集落は谷に沿って分散。魚成、土居等の地区は、河岸段丘ながら比較的傾斜がゆるやかで棚田が一面に広がっており、町全体が伊予の国のもっとも奥まったところにあることから、「奥伊予」とも呼ばれます。「町の木:イチョウ」「町の花:ツツジ」「町の鳥:キジ」を制定。「わがむらは美しく」のスローガンのもと、独自の地域おこし活動を行い、農村の伝統文化を残して来ました。

明治22年(1889)、町村制の施行により、東宇和郡遊子川村・土居村・高川村・魚成村が発足。

1954年、遊子川村、土居村、高川村、魚成村が合併、東宇和郡黒瀬川村が発足。

1959年、黒瀬川村が町制を施行、改称して東宇和郡城川町が発足。

2004年、東宇和郡明浜町・宇和町・野村町・西宇和郡三瓶町と対等合併、西予市城川町となりました。

昭和35年9月23日制定の町章は「 「しろ川」の文字を図案化したもので、しろで円を描き、これで平和郷を表現、右上部の三線は町内を流れる川を表現すると共に、つばさを意味し、町の飛躍発展の希望をあらわしている。」合併協議会資料より

かつては愛媛県南予地方から高知県にかけて各地にあった「茶堂」。各地の茶堂が老朽化などで姿を消していくなか、城川町には60箇所近の茶道が残され、あるいは新築され、地区の人々のコミュニケーションの場として活用されています。

これら茶堂群は、日本建築家協会四国支部によって1998年、「建築巡礼四国八十八ヶ所第45番建築札所」に指定。「道の駅:きなはい屋しろかわ」の敷地内に設けられた「茶堂型休憩所」、ご亭主殿すっかりくつろいでいます。

(※)旧東宇和郡城川町では、ご当地マンホールは見つけられませんでした。

撮影日:2011年6月14日

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旧東宇和郡明浜町(あけはまちょう)愛媛県の南部、宇和海に面していた町です。東宇和郡宇和町、西宇和郡三瓶町、北宇和郡吉田町に隣接。東西に細長い海岸線は、佐田岬半島宇和海県立公園の中心的な位置にあり、典型的なリアス式海岸が美しい景観をつくっています。冬でも菜の花が咲き誇り、世界屈指のみかん産地であり、また水産業としてはチリメン漁や真珠・ハマチ等の養殖が盛んです。「町の木:桜」「町の花:ハマユウ」を制定。

旧キャッチフレーズは「潮風とみかんと心ときめく町」

1889年、町村制の施行により、東宇和郡俵津村、狩江村、高山村が発足。
1955年、俵津村、狩江村が合併、東宇和郡豊海村が発足。
1958年、豊海村、高山村が合併、東宇和郡明浜町が発足。
2004年、東宇和郡城川町・宇和町・野村町・西宇和郡三瓶町と対等合併、西予市明浜町となりました。

昭和43年(1968)8月1日制定の町章は「 地色は濃紺で海の色。 意匠は明浜町のアを図案化。字色はオレンジ色でみかんとパールのPをイメージ。また、長いリアス式海岸線も象徴している。」合併協議会資料より

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旧東宇和郡野村町(のむらちょう)は愛媛県の西南部に位置した町です。大洲市、東宇和郡宇和町・城川町、北宇和郡三間町・広見町、喜多郡肱川町・河辺村、上浮穴郡小田町・柳谷村に。さらに県を跨いで高知県高岡郡檮原町に隣接。四国カルストの源氏ヶ駄馬をはじめとする急峻な山々に囲まれた地域であり、典型的な農村地帯を形成しています。「のむら」という地名は、室町時代から呼ばれていた史実がありますが、由来は定かではありません。「町の木:ブナ」「町の花:ツツジ」を制定。旧キャッチフレーズは「ミルクとシルクのまち」

1889年、町村制の施行により、東宇和郡野村・渓筋村・中筋村・貝吹村・横林村・惣川村が発足。
1922年、野村が町制を施行、東宇和郡野村町が発足。
1955年、渓筋村、中筋村、貝吹村、横林村、惣川村と合併、東宇和郡野村町が発足。
2004年、東宇和郡城川町・宇和町・明浜町・西宇和郡三瓶町と合併、西予市野村町となりました。

昭和50年(1955)10月31日制定の町章は「のむらの「の」を図案化したもので、円は、かがやく太陽と町民の和を、鋭角は、力強く限りない町の飛躍と発展を象徴しています。 」合併協議会資料より

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旧西宇和郡三瓶町(みかめちょう)は愛媛県西部に位置した町です。八幡浜市・東宇和郡宇和町・明浜町に隣接。町域の西にはリアス式海岸の三瓶湾が開け、背後には300mから500mの急峻な山々が連なっており、そのため平地に乏しく集落は湾岸に立地しています。基幹産業は農漁業を中心とする第1次産業であり、昭和36年に農水省のモデル地区に指定された養豚団地の完成で畜産は県内最大規模。また漁業では、はまち、ヒラメの養殖と大型巻き網が主体となっています。「みかめ」という地名は、嵐の翌朝に打ち上げられた鼓と剣、そして三つの瓶をおそれ、祠に納めた伝承からこう呼ばれるようになりました。町域からは縄文式の石皿や弥生式の土器などが出土し、古くより人が住んでいたと言われています。「町の木:ウバメガシ」「町の花:セトノジギク」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、西宇和郡三瓶村・二木生村・三島村・双岩村が発足。
1921年、三瓶村が町制を施行、西宇和郡三瓶町が発足。
1955年、三瓶町、二木生村、三島村と双岩村の一部が合併、西宇和郡三瓶町(第二次)が発足。
2004年、東宇和郡城川町・宇和町・明浜町・野村町と対等合併、西予市三瓶町となりました。

大正10年(1921)9月制定の町章は「町名の三瓶(みかめ)を図案化し、和と協調性を象徴しています 」合併協議会資料より

(※)旧東宇和郡明浜町、旧東宇和郡野村町、旧西宇和郡三瓶町は未訪問のため、マンホールの有無は確認できていません。

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開明学校・宇和米博物館 in 愛媛県西予市・卯之町

2020年12月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

卯之町で一番に見たいものと言えば、やはりこの「開明学校」。明治15年(1882)、町民の寄付により、地元の大工によって建築された擬洋風建築で、四国最古の小学校。

維新を経て迎えた明治と言う時代、人々が子弟に託した教育への思いは切ないほどに真摯なものでした。日本と言う国を背負って立つ為に・・・・大国の干渉の中、当時のアジア諸国のようなみじめな植民地にならない為に・・・何よりも人々が諸外国を相手に対等に渡り合える為に、学問を身につけることは必須だったのです。

各地を旅し、当時の姿のままに残された・・言葉は悪いですが身不相応とも思える旧学校校舎を見るたびに、胸が熱くなります。それは、校舎の建築に関わる人々の想いが、心に真っ直ぐに響いてくるからなのです。

白壁やアーチ型の窓も当時のままに現存し、長野県の「旧開智学校」とは姉妹校関係にある「旧開明学校」。建築史上、また教育史上においても非常に価値が高いものとして、1997年5月に国の重要文化財に指定されました。

黎明期の日本人が何よりも大切にしたのは、個々の権利ではなく「日本人」としての誇りでした。今、自国を愛する事を、まるで悪い事のように教え込む、負の勢力の存在を見聞きするたびに、先人への申し訳なさに歯噛みし、反日を是とする愚か者たちに対し、憎しみにも似た思いを感じずにはいられません。

ジジババ世代になると、最近とみに愚痴が混ざって涙もろくなっていけません😅。校舎の横にある「申義堂」は、明治2年(1869)に建てられた、開明学校の前身。『左氏珠山』の門下生や、町民の有志により建てられた私塾で、これを見ても卯之町の人々が、いかに教育を重んじたか、窺い知る事が出来ます。

卯之町のもう一つの学校関連の建物は、重伝建の町並みから車で10分ほど走った所。「米どころ・宇和」を伝える「宇和米博物館」として一般に公開されています。

元々は宇和町小学校の旧校舎だったものですが、遠目で見てもわかるように、相当に長いです。 どれぐらい長いかと言うと・・・何と廊下が109メートル!・・・・と言うことで、この長さを生かした雑巾がけレース「Z-1グランプリ」が毎年行われているそうです😄

雑巾がけ・・・なんとも懐かしい響き😄 板目に沿って真っ直ぐに走るのですが、男子たちにとっては遊びの延長だったようで、たまに先生に見つかってお小言を貰っていました😊

訪問日:2011年6月14日

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