内子町の北東部にあたる小田川の流域に位置する「内子町大瀬(おおせ)」。江戸時代に大洲藩領であった大瀬地区は、近隣の村々の物流拠点となり、手漉き紙や木蝋、鮎漁などで栄えてきました。
「出格子窓が整然と並ぶ旧家の趣を残した町並」というフレーズに惹かれて立ち寄ったのですが・・内子の町並を見た後では・・何か違う😔
確かに歴史を感じさせる建物は並んでいるのだけど、通りもとても綺麗なのだけど・・とは言え、折角立ち寄ったのだからこのまま終わりにするのは如何にも勿体無い😅
流石に観光案内にも掲載されている町並み。その気になって歩けば、こんな鮮やかな鏝絵と遭遇しました。「岩場の上で鯛を釣りあげる恵比寿さま」、なんと、鯛の巨大なこと。
「新倉」と言うのがこのお宅の屋号のようですが、この鏝絵だけ見ると鮮魚店のようにも見えるし、でも店構えが全然それっぽくないし、仕出し?旅館?・・・結局分からないまま😩
石段の先の建物は大瀬中央にある「大瀬の館」。明治中期に建てられた旧大瀬村役場を改修。1階はラウンジ、 2階は宿泊施設として活用されているそうです。
私たちが行った時はとても開館しているようには見えず、外観だけを見て引き返したのですが、後で「大江某」関連の作品展示室を備えていたと知り「そうなんだ、寄らなくて正解だったね」。
集落を後にし、道の駅に向かって車を走らせていた380号線で、お遍路さんを追い越しました。このまま歩けば旧小田地区に入るコース、これからかなりの距離を歩かれるのでしょう。御大師様に守られてのお遍路、どうぞお気をつけて🙏🙏
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橋は、集落と集落をつなぐ道、いつの間にか旧小田町へ入ったみたい。小田川に架かる「観音橋」に刻まれているのは「千手観音像」だろうか?・・この近くには千手観音を本尊とする札所は無かったと思うのだけど・・
旧上浮穴(うけな)郡小田町(おだちょう)は愛媛県の中央山地部に位置した町です。東は美川村・柳谷村、南は野村町・河辺村、西は内子町、北は久万町・広田村に隣接。町のほぼ中央を肱川支流の小田川が東西に流れ、内子町に接する地点、突合で上尾峠を源とする田渡川と合流、内子町・大洲市を経て瀬戸内海に注いでいます。町の南東部を占める小田深山は、標高820mから1,500m。4,500ヘクタールに及ぶ大森林地帯で、ブナなどの原生林も多く、奇岩怪石、豊富な水と共に雄大かつ風光明媚な小田深山渓谷を形づくっています。「町の木:杉」「町の花:藤」を制定。
明治22年(1889)、町村制の施行により、、上浮穴郡小田町村・石山村・参川村・田渡村が発足。
1943年、小田町村と石山村が合併、上浮穴郡小田町村が発足。
1955年、小田町村、参川村、田渡村が合併、町制を施行し上浮穴郡小田町が発足。
2005年、喜多郡内子町、五十崎町と合併し、新たに喜多郡内子町となりました。
昭和41年7月20日制定の町章は「「小田」を図案化し、杉を三つの山で表したものです。」
小田川に架かる「登貴姫橋」。平安末期、壇ノ浦の戦いに敗れてこの地に落ち延びてきた平清盛の五女:登貴姫は、1年と4ヶ月後・・病のため16歳で他界。
家来や村人たちは、清盛寺の境内に五輪の塔を建て姫の亡骸を手厚く葬りました。その折、姫の袂にあった八房の梅を傍らに埋めたところ、美しい八重の紅梅を咲かせるようになったとか。その梅は、今も季節毎に馥郁とした香りを漂わせているそうです。
旧上浮穴郡小田町では、ご当地マンホールの類は発見できませんでした。
訪問日:2013年3月26日