車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 福島県旧喜多方市(喜多方市)

2024年11月20日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・福島県

旧喜多方市(きたかたし)は、福島県の北西部、会津盆地の北に位置した市です。熱塩加納村、塩川町、山都町、北塩原村、会津坂下町に、更に県を跨いで山形県:米沢市に隣接。市域一帯は、会津の北方に位置していた事から「北方(きたかた)」と呼ばれていましたが、明治8年に5村を合併して町制を施行した際、喜び多い町という意味の「喜多方」と改められました。北西に飯豊連峰の雄大な山並みが連なり、東には名峰磐梯山の頂を望む雄国山麓が裾野を広げ、豊かな自然に恵まれた風光明媚なまちです。「市の木:松」「市の花:さつきつつじ」「市の鳥:セキレイ」を制定。

日本三大ラーメンの1つに数えられる「喜多方ラーメン発祥の街」として知られ、蔵が多く立ち並ぶ街並みを楽しめることから「蔵の街」としても有名です。 キャッチフレーズは「蔵とラーメンの町」

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、耶麻郡喜多方町・岩月村・上三宮村・関柴村・熊倉村・慶徳村・豊川村・松山村が発足。

1954年、喜多方町・岩月村・上三宮村・関柴村・熊倉村・慶徳村・豊川村・松山村が合併、旧喜多方市が発足。

マンホールには全体に大きく、「市の木:松」がデザインされています。

蔵の町らしく「蔵」がデザインされたマンホール。鏝絵の部分が北方市になっています。

「市の花:サツキツツジ」がデザインされた側溝蓋。

昭和36年8月19日制定の市章は「市名頭文字「き」の図案化。翼型は、躍進を、円型は融和を表徴する。」合併協議会資料より

撮影日:2015年6月20日

この日は「道の駅:喜多の郷」にて車中泊をさせて頂きました。「喜多方市蔵の湯」が隣接しており、徒歩で行けてしかも格安!。道の駅内のレストランもご亭主殿の目を引くメニューも一杯。

2012年10月に誕生した「喜多方ら~メンチ」。ラーメンの麺から具材、全てを刻んだものを地元豆腐店の豆腐でつなぎ、醤油ラーメンのスープで味付けしたもの。さて、彼の名前は・・やっぱり「ら~メンチ君」なのか??

車で旅をする者にとってこの様な道の駅は、本当に有難く大切な場所です。改めて、その節には有難うございました。🙏🙏

 

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ご当地マンホールとマンホールカード in 福島県喜多方市

2024年11月19日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・福島県

喜多方市(きたかたし)は福島県会津地方の北部、福島県の市では最西端に位置する市です。2006年1月4日、耶麻郡熱塩加納村・塩川町・山都町・高郷村と合併、改めて喜多方市が発足しました。会津若松市、北塩原村、西会津町、磐梯町、会津坂下町、湯川村に、また県を跨いで山形県米沢市、飯豊町、小国町。新潟県阿賀町に隣接。

市の約6割が林野で、東部、西部、北部地域を中心に、山林が広がっています。一方、市の中心部から南部にかけては、平坦な地形で、市街地を囲むように、田園地帯が広がっています。市の南端には、一級河川である阿賀川が流れ、猪苗代湖を源とする一級河川の日橋川や山林地帯からの支流が集まり、只見川と合流し、山間地帯を蛇行しながら、新潟県に向かって流れています。

「市の木:飯能スギ」「市の花:姫小百合」「市の鳥:セキレイ」「市の魚:イトヨ」「市の昆虫:ホタル」を制定。

キャッチフレーズは「力強い産業 人が輝く 活力満ちる安心・快適なまち」

2006年7月4日制定の市章は「喜多方市の『喜の旧字』をモチーフに、歴史と文化の創造と交流・情熱を赤、自然との調和と共生を緑で表現し、5市町村が一体となり輝く明日へ向かって市民一人ひとりがのびのびとジャンプしている姿を表し、市と市民の飛翔をイメージしています。」公式HPより

きたかた喜楽里博のマスコットキャラクター、牛の男の子『みんべぇ』。愛する喜多方への熱い思いが認められ、喜多方観光物産協会の公式アカウントも兼務中です。

撮影日:2015年6月20日

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マンホールカード、頂きました。

2019年12月14日、第11弾として全国63自治体で66種類(累計502自治体605種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「喜多方市」のマンホールカードは、「喜多方市役所下水道課」でいただけます。

2019年に設置開始されたマンホールには、キャラクター化した「ひめさゆり」「セキレイ」「飯豊スギ」「イトヨ」「蛍」がデザインされています。

「喜多方市の花「ひめさゆり」、木「飯豊スギ」、鳥「セキレイ」、魚「イトヨ」、昆虫「ホタル」をイメージしたキャラクターがデザインされたマンホール蓋です。 「ひめさゆり」は、豊かさと明るさのあふれる市の象徴、「飯豊スギ」は、未来に向かって限りなく発展する市の象徴、「セキレイ」は、今後更なる発展と活性化を目指す市の象徴、「イトヨ」は美しい水と豊かな自然を誇る市の象徴、「ホタル」は美しい水と豊かな自然を誇るふるさと喜多方市の象徴となっています。 中央にある喜多方市の『 喜の旧字 』をモチーフにした市章を囲むように描かれています。」

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北塩原村あちこちウォッチ in 福島県北塩原村

2024年11月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

北塩原村の紹介、スタートは「日本赤十字社 平時災害救護発祥の地」碑。日本赤十字社の前身である博愛社病院が設立されて1年半後の明治21年(1888)7月、磐梯山の噴火に際し、大正皇后陛下の思し召しを受け医師三名を猪苗代へ急派したのが始まりです。元々は、戦時救護を目的として設立されていましたが、磐梯山噴火災害の救護は、世界の赤十字で初めて「平時の災害に対する救護活動」を実践した先駆的事例として、国際的な注目を集めました。

変わったところで、毘沙門沼を回遊する鯉の中に一匹だけ、白い体の左脇腹に赤いハートマークのある鯉がいるとか。もちろん、そんなに都合よく見られるはずも無く、ゆえに「伝説」なのです。

この五色沼💗ハート鯉に巡り合うと幸せになれる!。そして若い二人は結ばれると言われています。

裏磐梯 ホテル五色荘敷地内に建立されていた「津金 松女」像 碑文「我が人生に 色濃きなり」

北塩原村桧原南黄連沢山にある「道の駅裏磐梯」

「裏磐梯ビューパーク」から見る「檜原湖と裏磐梯」。観光案内には画像と一緒にそんな記事があったけど、実際に自分の目で見ると、想像以上の感動を覚えます。

聳える木々の向こうに、荒々しい地肌を見せる裏磐梯・・この景色をしっかりと目に焼き付けておこう。

459号線の急カーブ下り坂のトンネル・・ハッキリ言って、カーブは苦手。急がついたらもっと苦手😱 なのに何故か写真が残っている?😓・・・おそるべし貧乏性の好奇心(だって次は無い)

北塩原村塩井に残る「史蹟 大塩の塩井」。右に史跡表示板。左には「大塩川火山砂防工事の移転物件に該当した為、村重要文化財の指定を解除、原形に配慮しながら史跡表示板と共に1995年8月現在地に移転」の案内板。

「人皇五二代嵯峨天皇弘仁三年 壬辰(西暦八一二年)僧空海老婆の家に止宿し塩の乏しきを憐れみ護摩を修する事十七日、忽然として岩中より塩湯湧出せると伝えられる。もと大澤と称せしも大塩の名是より起れりと、後世に至り西行法師行脚の折二種の歌を今に伝う。
海士(あま)もなく 浦ならずして陸奥の 山賊(かつ)のくむ大塩のさと  浦遠き この山里にいつよりか たえず今まで 塩やみちのく」

「若松領大塩村ノ図」によれば、現在の温泉神社の参道下付近に「潮井」があり、そこから大塩川沿いに木樋を通し、集落の広い範囲に塩泉を供給していた様子が描かれています。木樋には所々溜枡があり、塩泉を汲んで、木樋沿いの小屋で釜を焚き製塩していたと推定 。具体的な記録が残されるのは江戸時代からで、会津藩の主導で塩作りが行われ、小物成(こものなり)=(税)として納めていました。

国道459号の脇を流れる大塩川の対岸。緑に覆われた一画に見えた岩。地図には「神楽岩」とあります。

ズームにすると洞穴のように見える・・

後に調べた所、竣功年度は不明ですが、延長15.0mの「神楽岩隧道」と判明。国道459号が通る以前、この隧道がある細い道が当時の主要地方道だったそうで、現在は北塩原村の村道として管理されています。

北塩原村北山上ノ台 国道459号沿いにあるポケットパーク「会津一望の丘」。山の斜面途中にあり、喜多方市方面を一望できます。

まるでとって付けたような一本の木。カメラでの悪戯にはお誂え向きだと思いませんか😄

訪問日:2015年6月20日

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五色沼湖沼群:毘沙門沼 in 福島県北塩原村檜原剣ヶ峯

2024年11月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

北塩原村檜原剣ヶ峯、磐梯朝日国立公園に位置する「裏磐梯」にある「五色沼湖沼群」。明治21年(1888)、磐梯山頂北側、小磐梯を含む部分が水蒸気爆発によって山体崩壊を起こし、岩なだれが川をせき止め、このエリアに数百もの湖沼が形成されました。

一般的に「五色沼」と呼ばれていますが、正式には「五色沼湖沼群」。毘沙門沼・赤沼・みどろ沼・竜沼・弁天沼・るり沼・青沼・柳沼など、大小30ほどの様々な色合いを持つ湖沼の総称。それらの五色沼湖沼群を巡るハイキングコースは全長4kmと言う事ですが・・流石に身の程をわきまえて😅、私たちのいく先は五色沼でも最も有名な「毘沙門沼」。

背景に雄大な磐梯山が望める毘沙門沼。最大水深13メートル、面積10万平方メートルと、五色沼湖沼群の中では1番大きく、更に沼の底に沈殿している珪酸アルミニウムのため、晴天の時に見せるエメラルドグリーンは、形容する言葉が見つけられない程、ただひたすらに美しい。

見る角度、見る場所、見る時間、様々な要因によって、折々に、清らかに妖しく色を変える「毘沙門沼」

無理は厳禁だからねとお互いに約束していたのに、ついつい、ではこの次に見える「赤沼」は? その先の「みどろ沼」は?と、好奇心が先走り・・ 

ところが、毘沙門沼から先の探勝路はこんな感じで、これはほんの序の口。どうやら幸先はあまりよろしくない・・

それでも頑張ってみたものの、やっぱり、世の中そんなに甘くない😥 殊に足に障害を持つ身には、後々の事もちゃんと考えておかなきゃと言う事で

・・・回れ右。

踵を返した瞬間に見せてくれた、神々しいほどの翡翠の碧。それだけで充分すぎる程素敵な経験が出来たと納得できる・・それほどまでに神秘の色。

足元に咲く花に癒されて

見る場所によってこんなにも違ってみえる。それほどにこの「毘沙門沼」は大きいんだと、改めて目の前の風景に魅せられる。

ああ、裏磐梯があんなにハッキリ見える😊 あれほどの災害を引き起こしながら、これほどの美しい世界を作り上げる・・まさに人知を超えた、自然と言う神が創り上げた造形。

同じ場所に居合わせた素敵な恋人さんたちと、写しあいっこをした記念の一枚。

【 水漬きつゝ 新樹の楊 ましろなり 】水原秋桜子

訪問日:2015年6月20日

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磐梯山と桧原湖(ひばらこ) in 福島県北塩原村

2024年11月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

北塩原村檜原剣ケ峯、磐梯山の山裾に広がる広大な「桧原湖(ひばらこ)」。小野川湖・秋元湖とともに裏磐梯三湖の一つとされ、磐梯朝日国立公園に属します。

明治21年(1888)7月15日、磐梯山の噴火とともに山体崩壊が発生。これによる岩屑なだれが谷を埋め、南北約18km、東西約1km、最大水深31m、湖岸周37㎞の堰止湖「桧原湖」が生まれました。山体崩壊により477人が犠牲になり、会津・米沢街道の桧原宿を含む桧原村は、水深約15メートルの湖底に沈みました。

磐梯山の火山活動の開始は、西に隣接する猫魔火山の終息後の約90万年前頃と推定されています。何度も噴火を繰り返すため、「病悩山(やもうさん)」などと呼ばれ恐れられていましたが、また一方では、磐梯とは「天にかかる磐(岩)の梯子」を意味し、信仰の山として畏敬されても来たのです。

磐梯山噴火記念館は、磐梯山周辺の自然をより多くの人々に知らせ、また地震火山に対する啓蒙、自然災害による人命の保護、並びに自然環境の保護に寄与することを目的とし、磐梯山噴火百年を記念して1998年4月15日に開館しました。

世界には、1500あまりの火山があり、その中の約7%にあたる110火山が、地球の陸地面積の0.25%しかない日本に存在します。更にこの中の47火山は、常時観測火山に指定。福島県内の「磐梯山・吾妻山・安達太良山」も含まれます。

磐梯山の火山活動をカメラで監視している、火山望遠観測装置用の発電機と、通信用衛星アンテナ。

「水車式発電機」、現地説明を残さなかった為、仔細不明。

被災者供養のために建立された地蔵堂。左に「宮森太左衛門翁紀功碑」。右に「磐梯噴火の湯供養碑」

深い青の桧原湖、白鳥型の足漕ぎボートが並び、桟橋には乗客を待つ遊覧船。その水底に沈んだ集落を知っている人はどれほどいるのだろう。深い青の水底深くに眠るかっての宿場の賑わいが、楽し気な観光客の声と重なって、ほんの少しセンチな気分になりました。

荒々しい地肌をむき出しにした裏磐梯を背景に「磐梯山3Dワールド」。こちらの施設では、1888年の磐梯山大噴火のすさまじい再現光景を立体映像で見る事が出来るそうです。

訪問日:2015年6月20日

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ご当地マンホール in 福島県北塩原村

2024年11月15日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・福島県

耶麻郡北塩原村(きたしおばらむら)は福島県の北西部に位置する村です。磐梯町、猪苗代町、喜多方市に、また北方は県を跨いで山形県米沢市に隣接。標高200~300mの北山地区、400~500mの大塩地区、800~1,000mの桧原・裏磐梯地区に分かれ、南東には磐梯山(1,816m)、東は西吾妻山(2,035m)と西大巓が連なり、村域の約80%は山間部で、農用地はわずか2.5%となっています。

桧原・裏磐梯地区においては、明治21年の磐梯山噴火により吾妻川・大川入川・小野川・中津川などが堰止められ、桧原湖、小野川湖、秋元湖、曽原湖、五色沼などの湖沼群を生み、磐梯山とあわせた美しい自然景観がつくりあげられ、昭和25年国立公園に指定。県内随一の観光地となっています。「村の木:大山桜」「村の花:水芭蕉」「村の鳥:シジュウカラ」を制定。

キャッチフレーズは「日本で最も美しい村」

明治22年(1889)、町村制の施行により、摩耶郡北山村、大塩村、桧原村が発足。

1954年、耶麻郡北山村、大塩村、檜原村が合併、耶麻郡北塩原村が発足。

マンホールには中央に番いの「村の鳥:シジュウカラ」、周囲に「村の木:大山桜」「村の花:水芭蕉」が六分割でデザインされています。

昭和49年(1974)3月制定の村章は「北塩原村の「北」の文字を図案化したもので、全体の円は住民の協和を、北の中心が接しているのは団結を、左右の円は未来を目指し発展を象徴する」公式HPより

明治21年の磐梯山噴火と共に生まれた、北塩原村PRキャラクター『バンダイくん』。あまりにも大きな被害を出してしまった為に、山奥で人目に付く事なくひっそりと暮らしていましたが、2010年春に「磐梯山周辺の人達の役に立ちたい」と思い立ち、イベントのお手伝いをしたり観光案内をしたりして、地域のPRに貢献をしています。ちなみ噴火は、バンダイくんのせいではないのですが、本人はとても申し訳なく思っているらしい。

撮影日:2015年6月20日

 

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ご当地マンホール in 福島県磐梯町

2024年11月14日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・福島県

耶麻郡磐梯町(ばんだいまち)は福島県会津盆地北東部に位置し、磐梯山および猫魔ヶ岳の山麓の南斜面に位置する町です。猪苗代町、会津若松市、喜多方市、北塩原村に隣接。標高1819mの磐梯山や厩岳山・猫魔ケ岳等を北限として、南限は猪苗代湖を水源とする一級河川日橋川が流れ、町域には平坦地はほとんどありませんが、日射や湧水に恵まれ稲作に適した条件となっています。

平安初期の大同2年(807)、奈良の学僧『徳一』によって創建された慧日寺は、会津仏教文化の拠点として栄え、寺領18万石・寺僧3,800坊、衆徒4,000を擁していたといわれ、会津一円を寺領として支配していました。治承・寿永の乱で平氏方に味方しますが、横田河原の戦いで木曾義仲と戦って敗退。以後慧日寺は衰退し、天正17年(1589)に蘆名義広と伊達政宗が戦った摺上原の戦いの兵火を受け、堂塔伽藍のほとんどを焼失しました。

「町の木:こぶし」「町の花:りんどう」「町の鳥:オオルリ」を制定。
キャッチフレーズは「-自分たちの子や孫が暮らし続けたい-」

明治22年(1889)、町村制の施行により、摩耶郡赤枝村・大谷村・更科村・磐梯村の区域をもって磐梯村が発足。

1960年、磐梯村が町制を施行、摩耶郡磐梯町となる。

マンホールには「町の木:こぶし」に止まる「町の鳥:オオルリ」、下に「町の花:りんどう」がデザインされています。

昭和39年(1964)10月2日制定の町章は「輪郭は山の文字を形どり、内線はバン(磐)の文字を図案化し、 磐梯山を象徴せるものにして、 磐梯町の代表的磐梯山の雄姿を表現することによって町章とする。」公式HPより

磐梯町マスコットキャラクター『ロボばんじぃ』。「ばんだい」の響きが同じというご縁で、オモチャメーカー「バンダイ」の協力により誕生。名前は、ロボットの「ロボ」、磐梯町の「ばん」、慧日寺の「じぃ」から。得意技は「ばんじぃジャンプ」です。

中央公民館前にある謎の「トーテムポール(サンダーバードとキラーホエール)」。2001年のうつくしま未来博でカナダ館に展示されたもので、カナダ国オリバー市と姉妹都市を結んでいる縁で同町に寄贈されました。また後方には会津嶺万葉歌碑も建立されています。

【 会津嶺の  国をさ遠み 逢わなはば  偲(しの)びにせよと 紐結ばさね 】
(磐梯山のあるこの国が遠くなって逢えなくなったら、お前を偲ぶよすがにしよう。だから心を込めて下袴の紐を結んでおくれ。)「万葉集、東歌三四二六番」

撮影日:2015年6月27日

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野口英世記念館 in 福島県猪苗代町三ツ和前田

2024年11月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

磐梯山の麓、猪苗代湖畔の自然豊かな三ツ和村(現:猪苗代町)で生まれた『野口清作』・・・と言って馴染みのない人も、『野口英世』と言えば、ああ!と頷く筈。

JR東日本:磐越西線猪苗代駅の駅前に建立されている「野口英世三体像レリーフ」

「猪苗代町の生んだ偉人として 今も町民の尊敬を集める野口英世博士 (1876 1928) は 梅毒病原スピロヘータ純培養の成功 (1911) 黄熱病の研究などで世界的にその名が知られ 当時世界の医聖と謳われた方ですが 博士の生涯に深い影響を与えた母堂シカ、少年 野口の英才を見いだし学費を与え勉学の志を助けた小学校訓導小林栄先生、その他大勢の人々の真心を今に伝えるため 博士が好んで書かれた直筆の“忍耐”の文字を彫り込み、三体像のレリーフを結成25周年の記念として建立しました。 また出生地 翁島三城潟には生家が保存され、記念館があります。」現地案内より

猪苗代町三ツ和前田に建つ「野口英世記念館」「後世に科学者野口英世の業績と生涯を伝える」をコンセプトに、ロックフェラー医学研究所とメリー未亡人から寄贈された英世の遺品等を公開して昭和14年(1949)に開館。

その後2013年、新たに公益財団法人として開館。野口英世が16歳まですごしていた生家を、場所も大きさも当時のまま保存、公開しています。

『野口清作』、明治9年(1876)11月7日。『野口 佐代助・野口 シカ』の長男として誕生。

生家には、清作が1歳半の時に落ちてやけどを負った囲炉裏や、上京時に床柱に刻んだ決意文が当時のままに保存されています。

明治29 年(1896)、19歳の英世が医術開業試験受験のため上京する時、生家の床柱に刻んだ「志を得ざれば再び此地を踏まず」。翌年医学開業試験に合格し、医師の資格を得ます。

シカさんが洗い物をしていた小川。

明治33年(1900) 友人知人らに数々の金銭的不義理を重ね、単身渡米。北里の紹介状を頼りにフレクスナーのもとでペンシルベニア大学医学部での助手の職を得、蛇毒の研究というテーマを与えられた英世。その論文は同大学の理事からも評価され、その後、幾つかの経緯を経て、明治37年(1904)ロックフェラー医学研究所に移籍。

明治44年(1911)、アメリカ人女性『メリー・ダージス』と結婚。横顔の女性像は、英世が描いたメリー夫人の肖像画。

「忍耐は苦し、されどその実は甘し」。英世が好んで使った「忍耐」の書

「孝養」、母を想ってだろうか・・だったら良いなと思ってしまう。

次々と目を引き心を奪われる沢山の展示品・・その中で一際心に深く突き刺さり、染み込んだのは朗読に併せて映し出された「かな文字」が並んだ二枚の手紙。母シカさんが英世に宛てた手紙がスクリーン一杯に写しされた時、思わず漏れた自身の嗚咽を抑えきれませんでした。

「はやくきてくたされ はやくきてくたされ はやくきてくたされ はやくきてくたされ  いしよ(一生)のたのみてありまする」「にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。ひかし(東)さむいてわおかみ。しております。きた(北)さむいてわおかみおります。みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。」「ついたちにわ しをたち(塩断)ちをしております   ゐ少(栄昌)さまについたちにわ おか(拝)んてもろておりまする なにおわすれても これわすれません 」「さしん(写真)おみるト  いただ(戴)いておりまする 」「はやくきてくたされ   いつくるトおせてくたされ   これのへんち(返事)ちまちてをりまする   ねてもねむられません」

明治45年(1912)、シカさんは幼い頃に覚えた字を思い出しながら、アメリカにいる英世に帰国を切望する手紙を出しました。母に思いを馳せるも、既に予定されていた講演や研究を取りやめる事は出来ず、やっと帰国が叶ったのはこの手紙を受け取ってから三年後の大正4年(1915)9月。実に十五年ぶりに故郷の地に降り立ち、母との再会を果たした英世。そうして、シカさんが願かけをしていた「中田観音」へも共に参拝する事も出来ました

約2か月間の滞在中、各地で講演会や歓迎会が催され大変忙しい日々を過ごした英世ですが、東京や関西の講演会の時には、母や恩師と一緒に旅行をしました。シカさんは英世とともに過ごす時間を「まるでおとぎの国にいるようだ」と語ったそうです。

大正4年(1915)11月4日に英世は、横浜からニューヨークへ戻り、大正7年(1918)、黄熱病研究のためエクアドルに出張。その年の11月、シカさんは英世との楽しい日々を後生として永眠。感傷かもしれませんが最後の二か月で親として最高の幸せな時間を過ごせたシカさんの事を想うと、不思議なほど温かい涙が流れてきます。偉大な功績を残した野口英世。人の親である私から見れば、これ以上ないくらい薄情者で日本一の親不孝者。そして・・・世界一の孝行息子だったと、この写真を見返す度に心底から思うのです。

敷地内に今も残る「シカさんが植えた桑の木」

英世はその後も精力的に研究に没頭し・・昭和3年(1928)、西アフリカのアクラで黄熱病の研究中に罹患し殉職。51歳の若さでした。

昭和3年(1928)年「勲二等旭日重光章」受賞

野口英世が亡くなった翌年、生家の庭に二つの記念碑が建てられました。一つは大正4年(1915)に英世が帰国した時、母校翁島小学校に贈った文字「忍耐」と猪苗代町長に贈った英語およびフランス語の文字を彫った碑。もう一つは「野口英世誕生地碑」。碑の下には、アメリカのメリー夫人から送られてきた英世の遺髪が納められています🙏

訪問日:2015年6月27日

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天鏡閣(てんきょうかく) in 福島県猪苗代町翁沢御殿山

2024年11月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

猪苗代町翁沢御殿山に建つ、国指定重要文化財「天鏡閣(てんきょうかく)」。明治40年(1907)、『有栖川宮威仁(ありすがわのみや たけひと)親王殿下』が東北を御旅行中、猪苗代湖畔を巡遊した際に風光の美しさを賞し、当時の県知事:平岡定太郎の勧めもあり、猪苗代湖を望む高台に御別邸を建設することを決定。一つには、諸外国からの使臣や貴賓を招く為の目的もあったと言われ、翌:明治41年4月、雪解けとともに起工、同年8月「翁島御別邸」が竣工しました。

ルネッサンスを基調とした木造2階建ての明治洋風建築。建築面積492㎡、延面積927㎡、総高17.9m。外観は変化に富み、屋根は天然スレート葺で八角搭屋付、東翼部を腰屋根、他を寄棟とし、随所に円形または、半円形のドーマウィンドーが設けられています。

西側に玄関ポーチ、その上部にはバルコニー。南側は東西に非対称的な翼部と中央に八稜形状に突出した入口があり、二階部分にはベランダを設け、外壁は目透し横板張りペンキ塗り。窓は上げ下げ窓です。

明治41年(1908)9月、『皇太子:嘉仁(よしひと)親王殿下(大正天皇)』は翁島御別邸に行啓され、ここに5日間滞在されました。その際に別荘から見える猪苗代湖の湖面の美しさを称え、李白の句「明湖落天鏡」に由来して「天鏡閣」と命名。

玄関ホールから奥へまっすぐに通じている中央廊下を境に、南側には食堂・客間・球戯室の順で主要室が、北側には事務室・宿直室・仕人室・厨房などサービス関係の室が並んでいます。暖炉・鏡・帽子掛・シャンデリアは建築当初のものです。

威仁親王薨去後の大正11年(1922)、天鏡閣の近くに威仁親王妃慰子(やすこ)様の静養のため、和風別邸(現:福島県迎賓館)が『高松宮宣仁(のぶひと)親王』によって建てられましたが、慰子妃も翌年に薨去。建物は有栖川宮家の祭祀を継承した高松宮家の所有となり、後に『皇太子裕仁親王・同妃良子女王』両殿下が新婚旅行的な静養(御結婚は大正13年)としてご訪問されます。

第二次世界大戦後の昭和27年(1952)に、天鏡閣は高松宮家から福島県に払い下げられました。昭和36年(1961)初秋、『昭和天皇・香淳皇后』両殿下は、磐梯吾妻スカイライン・裏磐梯御視察に御来県。その際に天鏡閣にご宿泊され、【 なつかしき  猪苗代湖を眺めつつ  若き日を思ふ 秋のまひるに 】とお詠みになられました。

この地での滞在は思い出深かったのでしょうか、近隣で行われた昭和45年(1970)の全国植樹祭の折にも再訪され、当時乗った馬車が展示されていたのをご覧になり、同行された香淳皇后に「あの時の馬車だよ」と昔話をする御姿も記録に残されているそうです。

建物は県職員研修所などとして利用していましたが、建物の老朽化に伴い昭和46年(1971)春に使用を取りやめ。昭和54年(1979)2月、天鏡閣本館、別館、表門が国の重要文化財に指定されたことを機に、翌昭和55年から2年の歳月をかけ昭和57年9月に修復工事が完成。天鏡閣修復後の昭和59年(1984)には、大婚60年を記念して昭和天皇・香淳皇后両陛下の御再訪がありました。

同年7月には『有栖川宮威仁親王』の銅像が、東京築地の海軍軍医学校前から敷地内に移設、再建されました。

別荘から見える猪苗代湖の湖面を鏡に例えたことから命名されたと言われる「天鏡閣」。落成から100年を超え、まばらだった周囲の樹木は建物以上の高さまで成長し、今は館内から湖面を見ることはできません。

訪問日:2015年6月27日

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小平潟(こびらがた)天満宮 in 福島県猪苗代町中小松西浜  

2024年11月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

猪苗代町中小松西浜、猪苗代湖の北岸、天神浜の松林の中に鎮座される「小平潟(こびらがた)天満宮」。御祭神は『菅原道真公』。太宰府天満宮、北野天満宮と並んで日本三大天神とする説があります。

伝承に「天歴2年(948)、近江国比良神社の神主・神良種が摂津国須磨で見つけた菅原道真公の神像を持って旅をし、猪苗代湖畔に辿り着いた。 良種はその地で休み、再び歩き出そうとして立ち上がった。しかし、道真の神像が急に重くなり動かなくなってしまった。よくみるとその地は須磨とよく似た景色であった。そのため良種はこの地を神像の鎮座の地とすることにし、摩耶郡大領上毛野陸奥臣に申し出て天満宮を勧請した。このとき、小出方村という地名だったこの地を摂津国平潟にちなんで小平潟に改めたという。」

社殿は天和2年(1682)に会津藩主『松平正容』によって天満宮がこの地に移された際に造営されたもので、猪苗代町指定重要文化財に指定されています。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、福島狛犬さん一対。吽形さんは大輪の牡丹の花を、阿形さんは綺麗な飾手毬に手を置いています。久々に拝見できた福島狛犬さん、やっぱり良いですね。

「皇后陛下御参拝 大正九年八月十五日」

【さみだれに 松遠ざかる すさきかな】戦国時代の連歌師『猪苗代兼載(けんさい)』が小平潟天満宮で詠んだ発句。室町時代中期の天台宗の僧「心敬」に師事。宗祇とも交流し、ともに連歌の最盛期を作り出した人物です。碑は昭和34年(450回忌)に建立。

「秩父宮雍仁親王殿下野営の地 少年団日本聯盟 第一回野営大會の地」

「いなわしろ新八景 天神浜」の碑

参拝日:2015年6月27日

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